殺しの衝動(5)

 路地裏で憐れなサラリーマンを殺害しようとしたとき、まるで自分が極悪人であるかのような錯覚に襲われた。彼も部下に対する立派なパワハラ加害者だが、命を奪われるとなるとあまりにバランスが悪い。

 では、女性に乱暴をしようとした男はどうだ。あの時は未遂だったが、あのふてぶてしい態度は常習犯に違いない。男が命乞いをしようとまったく慈悲の気持ちは生まれなかった、と確信できる。


 安寧な心で穏やかな人生を送るためには殺しの衝動に正直に生きるしかない。男を殺害したとき、初めて自分の心と向き合うことができた気がする。生きるために誰かを殺す、これが「自分」なのだ。

 自分のために他人の命を奪う、そんなことが許されるのか。自責の念に苛まれたこともある。しかし、湧き上がる殺しの衝動は到底抑えることができない。生きている限り、誰かに止められるまで続けるしかない。


 ターゲットは誰でもいい。だが、善人を殺すのは気が咎める。手塚にも良心はあった。

 結果、悪党にターゲットを絞ることにした。悪党の定義は何か。人を殺す人間だ。シンプルで明快だ。因果応報、これなら文句はあるまい。高架下の男の場合は現行犯だったが、予めターゲットを定めるときは冤罪にならぬよう調査をすることにする。もし、見当違いだったら殺しの快感よりも罪悪感に苛まれてしまう。


 校庭のはずれにある焼却炉。

 手塚は獲物の返り血を浴びたレインコートを炎の中へ放り込んだ。化学繊維のコートはすぐに燃料となり、火は一瞬激しく燃え上がり証拠品は跡形も無く解けてゆく。

 ナイフを心臓に突き立てることで得られる殺しの実感は背中を押すこととは比べものにならない。しかし、毎回レインコートをここへ焼きにくるわけにはいかない。


 高校を卒業するまでに5人の命を奪った。繁華街は良い狩り場だ。雑多な人間がいて、その中に殺すに相応しい人間を見つけることができた。高校最後の殺人は思い出に残っている。通っている高校の美術教師だった。


 大学受験シーズン真っ盛りの頃、一人の女子生徒が校舎の四階から飛び降りた。渡り廊下のスレート屋根に叩きつけられ、血の雨を降らせて絶命した。生徒は三年生だったこともあり、進学のことで悩んでいたと全校集会では告げられた。悩みがあれば担任に相談するように、と校長は念押ししていた。


 しかし、本当の理由はそうではない。彼女は妊娠していたことが分かっている。腹の子は美術教師橋本との子だと噂で持ちきりだった。彼女は美術系の大学を目指しており、橋本に個人指導を受けていた。そのうちに親しくなり、深い仲になった。

 橋本は警察に参考人として事情聴取を受けたものの、彼が手を下したわけではないため罪に問われることはなかった。


 橋本は高校を去ることになった。最終出勤の日、行きつけのバーで絵描き仲間の友人に愚痴をこぼしていた。手塚はバーの片隅で様子を伺う。

「遊びだったのに本気になりやがって、これだからガキは面倒なんだ」

 カウンターに座る橋本は舌打ちをしながらウイスキーを煽る。どうやらアルコールのせいで口が軽くなっているようだ。

「若い子を選び放題だって自慢してたが、しっぺ返しだよ」

 友人の言葉から常習犯だと確信した。


 バーを出た橋本は友人と別れた。駅のトイレに入ったところで橋本を個室に押し込めた。橋本は便器に座った格好になり、怯えた目で手塚を見上げる。

「誰だお前は」

「彼女とは遊びだったのか」

 手塚の女子生徒の自殺を責める言葉に、橋本は苛立ちを覚える。学校に嫌がらせの電話や投書が相次いで十分苦しんだのに、こうやって他人がからかい半分で責め立てにくる。


「教師と生徒が結ばれるなんてテレビドラマの見過ぎなんだよ」

 橋本はふてぶてしい態度で不満を吐き捨てる。手塚は手にしたドライバーを橋本の胸に突き立てた。

「何だこれは、何故こんな、どうして」

 橋本は疑問を繰り返しながら息絶えた。

「あんたが悪党だからだ」

 手塚はドライバーを橋本の胸から引き抜き、トイレットペーパーで血を拭き取った。それを便器に棄てて水を流した。


 進学先は東京の大学を選んだ。圧倒的な人の多さと、彼らがそれぞれ他人に無関心である土地柄に惹かれた。ここなら異端者の自分も息ができる、そう感じた。

 高校時代の経験から殺しの道具を自作した。いわゆる寸鉄という棒状の暗器だ。長さ十センチ、直径五ミリ、先端を尖らせた大きな釘のような形状で、素材はステンレススティールだ。それをボールペンのカバーで偽装した。カバーはマッドなオリエンタルブルーで気に入っている。


 心臓までの距離は約九センチ、よほどのデブでなければ到達できる。心臓を守る肋骨の位置は医師である父の本棚にあった医学書で学んだ。心臓を狙うのは難易度が高い。しかし、手塚は心臓を狙うことにこだわった。心臓は命の象徴だった。


 ときに初めての殺人を思い出す。ナイフで心臓を貫いたときの手応え、あの感触は忘れられない。迸る血の美しさにも惹かれる。しかし、ナイフでの殺しは後処理が面倒だ。あれ以来、控えている。

 殺しの激しい衝動を抑えるために殺人を決行する日を決めたら、汗を流して凶暴な欲求を拡散させるとバランスが保てることに気が付いた。

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