殺しの衝動(4)

 苛立った男が手塚に肩をぶつけんばかりに迫ってきた。手塚は瞬時に背中に隠したナイフを抜き、男の胸に何の躊躇いもなく突き立てた。

「ぐふっ」

 男は短く叫んで身体を痙攣させる。己の胸から生えたナイフと手塚の顔を交互に見やる。何故だ、疑問を放つ目の光はだんだんと失われていき、やがてただの空洞のような黒に変わった。


 男の胸からナイフを引き抜いたとき、レインコートに血飛沫が飛んだ。靴にも血痕がついたので、次からは気をつけなければ、と思った。

 男はぐらりと崩れ落ち、顔から無造作に砂利に突っ込んだ。穴が開いた胸元からドス黒い血が流れ出す。初めてこの手で人を殺した。身体が打ち震えるほどの興奮を感じるのかと思いきや、心は驚く程平安だった。手塚はそのことに動揺する。


 しかし、早くここを離れなければ。殺人犯として捕まるようなことになれば、養父母に迷惑をかけてしまう。それは絶対に避けなければならない。手塚は冷静に現場を観察し、次に何をすべきか考えを巡らせた。


 手早くレインコートを丸め、ビニール袋に詰め込んだ。血のついたサバイバルナイフを男のシャツで拭い、ケースに収納した。指紋を残さぬようハンカチを使って男のポケットから彼女の財布を取り上げてバッグに返しておいた。


 このまま男の死体を放置すれば、彼女に少なからず疑いがかかるかもしれない。手塚は砂利の上に倒れている男を抱き起こし、首の骨をへし折った。念のため、心臓の傷に再びナイフを突き立て、足で柄を踏んだ。

 これでかなりの深度の刺し傷になる。非力な女性が加害者と疑われることは避けられる。


 男の携帯電話から救急車を呼ぶ電話をかけた。すぐにここへ救急隊がかけつけるだろう。男には霊柩車だが、自分が呼ぶ必要はない。彼女が助かればいい、そう願った。

 

 パスケースをタッチして改札を通過する。自宅へ帰る電車は二番ホームだ。階段を上り、ホームへ向かう。

 酒に酔ったサラリーマン二人組が大きな声で最近の新人はなっていないと文句を言い合っている。リュックを背負った若者は携帯プレイヤーで音楽を聴きながら肩を揺すっていた。初老の女性が鞄からメモ帳を取りしたとき、ハンカチがこぼれ落ちた。

「落としましたよ」

 手塚はハンカチを拾い上げ、女性に手渡す。笑顔の好青年に女性は頭を下げて礼を言った。


 手塚は自分の身体の変化を冷静に観察した。つい十分程前に人ひとりの命を奪ってきたというのに、脈拍も正常だ。やってやったという達成感すらない。普段と何も変わらなかった。

 暗闇から光が近付いてきて、ホームに電車が止った。乗客はまばらだ。つり革に掴まり、電車の揺れに身を任せる。暗い窓に映る自分の顔はさざ波も立たない穏やかな心を移したように無表情だった。


 帰宅して、アルカリ性漂白剤を染みこませた布で靴の血痕を拭き取った。熱めのシャワーを浴びるとさっぱりした気分になった。ベッドに潜り込むと、このまま熟睡できそうだった。

 不意に、身体が火照り始めるのを感じる。男の心臓にナイフを突き立てたときの感触、消える瞳の光、魂を失い空の器となった肉体が横たわる姿。脳裏に情景がフラッシュバックし、呼吸が荒くなる。


 猛る熱に欲情が抑えきれず、ズボンに手を突っ込み乱暴に扱き始めた。普段の排泄処理とは違う、背徳的な快感に身悶える。やり場の無い衝動を解き放つために荒々しく手を動かした。唇から微かな喘ぎが漏れる。快感が最高潮に達したとき、目の前に閃光が弾けた。手の平の白い残滓をそのままに、呼吸を整える。


 性と死が重なり合った瞬間だった。これまでに感じたことのない心の昂ぶりに怖れすら覚えた。人を殺したい。それは後天的に植え付けられた根源的な抗いがたい欲求だった。

 この先も人を殺さずにはいられない。手塚はそう確信する。


 翌日のテレビで駅の高架下で男がナイフで刺殺されたとニュースが流れていた。

「いやだ、二つ隣の駅ね。彰宏も遅くなるときは気をつけなさい」

「うん、気をつけるよ」

 叔母の瑞穂の心配そうな声に、手塚は味噌汁をよそいながら生返事をする。心臓を深く貫く刺し傷、首の骨を折られていることから強い恨みによる犯行だと予測されていた。恨みなどない。ただ、彼が適合者だったというだけだ。テレビ画面を見やるとブルーシートがかけられた現場の様子の映像が流れている。


「女性の力ではとうてい無理だ」

 現場にいた女性に事情を聞いている、というニュースの解説に叔父の裕一がつっこみを入れる。彼女は無事で、無罪放免だ。手塚は安堵して味噌汁を啜った。


 手塚の初体験は高校二年生となった。セックスではなく、殺人だ。教室で隣の女子校に通う彼女との体験を自慢する男子生徒に、自分は高校一年のときだとマウントをかける奴がいる。

「彰宏はどうなんだよ」

「澄ました顔して案外やってんじゃないのか」

 思わぬ流れ弾に手塚は揶揄されて困った顔をしてみせる。女子生徒たちが興味津々で聞き耳を立てている。

「彼女もいないよ」

 昨日初めて人を殺した、とは言えない。はにかみながら答える。

 

 彼らは性欲も好奇心も旺盛のやりたい盛りだ。明るい猥談は尽きない。求めに応じるパートナーがいるならばセックスは健全で健康的だ、と思う。手塚の場合は選ぶパートナーは到底求めに応じてくれない。誰だって死にたくはないからだ。

 パートナー、いやターゲットは慎重に選ばねばならない。ターゲット選びの基準、そして適切な殺害方法を検討しなければ。

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