殺しの衝動(3)

 手塚は獲物を探して夜の繁華街へ出掛けた。バッグにはサバイバルナイフとレインコートをしのばせた。ナイフで突けば、血しぶきが飛ぶ。レインコートはそれを防ぐためだ。ナイフを選んだのは無意識だったが、思えば幼少期に家族を殺害した銀色の凶刃が脳裏に焼きついていたのかもしれない。

 

 夜の繁華街、特に裏路地では社会不適合者たちがたむろしている。けばけばしいネオンに強引な客引きの声、酔っ払いの猥談。心おきなく命を奪える人間を探すには最適な場所だ。

 大衆居酒屋の前で怒声が聞こえた。手塚は足を止め、雑沓に紛れて様子を伺う。どうやら職場の飲み会の帰りで、上司が部下を叱りつけているようだった。


「お前は無能だ、だから毎月のノルマが達成できないんだよ。死んじまえ」

「青木課長、その辺で」

 スーツ姿の男たちが顔を真っ赤にして怒鳴り散らす壮年の男性を必死で宥めている。

「うるせえ、こいつは部署のお荷物だ。倉庫番にでも異動すればいいんだ」

 周囲の人間が振り返る中で青木の罵詈雑言は続く。無能だと誹られている若手社員は俯いたまま謝罪を続けている。


 大人になってもいじめというものは無くならないのか。手塚は冷ややかな目で彼らを観察する。オフである飲み会の場、しかも公衆の面前で面子を潰すことはないだろうに、と心底呆れた。

「俺ぁ帰るわ」

 青木はひとしきり文句を言って気が済んだのか、駅に向かって歩き出した。残された社員たちは二次会へ行って飲み直そう、と若者を慰めながら散会していった。


 手塚は青木をターゲットに定めた。青木はさびれた商店街のアーケードを抜けていく。一定の距離を保ち、青木の後を追う。ここは人通りがほとんどない。

 手塚は青木との距離を詰める。バッグからレインコートを取り出し、着用した。周辺を警戒して青木を狭い路地に引きずり込んだ。


「何だ、お前は。何をする気だ」

 青木はズレたべっこう縁の眼鏡を慌てて直しながら手塚を指差して叫ぶ。いくら人通りが無いとしても、こうも叫ばれては人がやってくるかもしれない。手塚は青木の鼻っ面に肘鉄を食らわせて黙らせる。

 鼻骨が折れて、脂ぎっただんご鼻が奇妙に歪んだ。唇を切ったらしく、黄色い歯を血塗れにしてふごふご言っている。


 手塚は背中に差したサバイバルナイフを抜いた。青木は恐怖の余り、言葉を失って壁に後退る。両手を合わせて泣きながら掠れた声で命乞いをする。

「たすけてふれぇ」

 折れた前歯がポロリと落ちた。スーツの股間に黒い染みが広がり、アンモニアの不快な匂いが漂う。手塚はその姿を見て、急速に殺意が終息していくのを感じた。

 この男は小物で殺す価値もない。何だかつまらない気分になった。手塚はナイフを仕舞い、路地を出た。


 青木はそのまま路地に蹲って啜り泣いていた。さっきまでこれ見よがしに部下を罵倒していた人間が、小便を漏らして泣きながら命乞いをした。彼は今日、命ではなく尊厳を失った。

 手塚は不完全燃焼の気持ちを抱えたまま、アスファルトの剥げた古びたアーケードを呆然と歩いた。これほど人間がいるのに、ターゲットを絞るのがこんなにも難しいのか。誰でもいい、と思っていたが自分にも情や良心というものがあるのだろうか。


 今日は何も得るものが無かった。殺人への欲求は燻ったままだが、家へ帰ろう。手塚は改札に向かおうとして足を止めた。何かが崩れるような音だ。それは電車の走行音にもかき消されず、高架下から聞こえてきた。

 古いフェンスが歪められ、人が通れる程の隙間ができている。高架下は補強工事と駐輪場建設のため、シートで覆いがかけてあった。夜十時を回っている。こんな時間に建設作業員がいるとも考えにくい。


 手塚は息を潜めて音のした方へ近付いていく。コンクリートの支柱から顔を覗かせると、そこには鉄パイプの下敷きになり横たわった若い女性とそれを見下ろす男の姿があった。女性はスーツ姿で、近くに営業用の鞄が投げ出されている。

「クソ、暴れやがって」

 モスグリーンのジャンパーに薄汚れたジーンズの男が吐き捨てるように呟く。


 男が女性に乱暴しようとここへ連れ込んだが、女性が激しく抵抗して立てかけてあった建材が倒れた、と判断できる。何本ものパイプの下敷きになった女性は気を失っている。

 男は営業鞄を物色し始めた。財布を見つけ、ポケットに突っ込んだ。怪我をしている彼女を置いたまま立ち去ろうとしている。

 手塚は一度バッグにしまったコートを取り出した。そして男の前に立ちはだかる。

「なんだおめえ」

 男は眉根に皺を寄せる。無精髭に落ちくぼんだ目。背はさほど高くは無いが、体格は良い。


「戦利品か、俺にも分けてくれよ」

 手塚はおどけた調子で首を傾ける。男は不快感を露わにし、血走った目で手塚を睨み付ける。

「ふざけんな、こいつが暴れたせいでお楽しみがパアだ。この金でソープに行くんだよ。そこをどけ」

 彼女がこの男の毒牙にかかっていないことに手塚は安堵した。そして、下劣な目的も証明できた。手塚はマスクの下で口角を釣り上げる。身体の芯が熱くなるのを感じた。この男こそ、獲物に相応しい。

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