第二章

血塗られた記憶

 手塚彰宏が「死」を意識したのは五歳のときだった。

 目の前で家族が殺されるのを見た。父、母、そして兄。第一発見者の若い警察官は家族の遺体が横たわる血の海に手塚少年がただ一人呆然と立ちすくむ光景を忘れられない、という。

 感情を失った白い顔で、虚空を見上げていた。頬は血に塗れ、虚ろな黒い瞳に映るのは果てしなく深い闇だった。


 父は名の知れたミステリ作家、母はデザイン事務所のトップランナーで手塚家は裕福だった。家は高級住宅地の並ぶ丘の上にあり、芸術性豊かな両親のもと、二歳違いの兄の敦史とともに深い愛情を注がれ大切に育てられてきた。

 

 悲劇はあまりにも突然だった。深夜二時を回った頃、手塚家に強盗が押し入った。覆面を被った二人の男たちが応接間のガラスを割って土足で踏み込み、引き出しを開けて金目のものを物色していた。

 乱暴な物音を聞きつけた父が応接間の様子を見にいく。そこで犯人に出くわし、揉み合いになりナイフで腹を刺された。叫び声を聞いた母が応接間に飛び込み、瀕死の夫の姿に悲鳴を上げる。


 二階で寝ている子供たちを守らねば、母はもつれる足で必死に階段を駆け上る。背後から追ってきた男が母の背中を容赦なくナイフで切り裂いた。母は振り向きもせず寝室に飛び込み、ドレッサーを引き摺ってドアを塞ぐ。背中の焼けるような痛みも忘れ、子供たちをクローゼットに押し込めた。

 震える手で警察に電話をかける。必死で強盗の襲撃を伝えている最中、ドアを蹴る音がしてドレッサーが倒され、二人組の覆面男が入ってきた。


 受話器を手にした母の姿を見て、男たちは警察に通報されたことを悟った。激昂した男の一人が細身の母にナイフを何度も突き立てた。母はその場に崩れ落ち、動かなくなった。

 真っ暗なクローゼットの中で敦史は彰宏の口を必死で抑えていた。泣き声が聞こえたら、男たちに見つかって殺されてしまう。目の前で母が惨殺され、恐怖と悲しみで敦史も泣き喚きたかった。しかし幼い弟を守るため感情を押し殺して堪えていた。


 幼い兄弟が隠れているクローゼットに覆面男が手をかける。奴らに見つかる、敦史と彰宏は身を竦める。

「くそっ、何しやがる」

 もう一人の黒いジャンパーの男が叫ぶ。背後からパジャマを血塗れにした父が男にしがみついていた。父は執念で男の覆面をもぎ取った。覆面の下から坊主頭が現われた。

「この死に損ないが」

 坊主頭は渾身の力で父の胸にナイフを突き立てた。父は唇から鮮血を吹いて絶命した。


「この家にはガキがいるはずだ」

「面倒だ、始末しちまおう」

 男たちはベッドの下をのぞき込み、カーテンを引きちぎる。子供の姿はない。いよいよクローゼットに手をかけた。扉が開け放たれた瞬間、男児が飛び出した。男たちの足もとを縫って逃げようとする敦史の足を坊主頭が掴んで引き摺る。


「ほんの子供だ」

 覆面が坊主頭を諫めた。

「俺は顔を見られた」

 坊主頭は手足をじたばたさせ抵抗する敦史の背中に躊躇いもせずナイフを突き立てた。サイレンの音が近付いてきた。母の通報でパトカーが駆け付けたようだ。

「ちっ、逃げるぞ」

 男たちは戦利品を詰め込んだ肩掛けバッグを持って寝室を慌てて出ていった。


 彰宏はクローゼットの隙間から家族が無惨に殺害される様子をただ見ていることしかできなかった。

「父さん、母さん、兄ちゃん」

 まだ温かい家族の身体を順番にさすっていく。彼らの身体から流れ出した血が絨毯に染みを作っていく。窓から漏れる月明かりが血に塗れた小さな手を黒く照らしていた。父と、母と、兄の血だ。彰宏はその手を頬に当てた。生暖かいぬるりとした感触、強烈な鉄錆の匂い。


 パトカーのサイレンが止まり、玄関のチャイムが鳴った。応接間のガラスが割れていることに気がついたのか、警察官はすぐに無線で応援を呼んだ。二人組の警察官が家に上がりこみ、電気をつけて眉根をしかめる。

 乱暴に荒らされた部屋、絨毯に残る血痕。この血量では被害者の生存は絶望的だ。血痕は階段に続いていた。

 警察官は警戒しながら階段を上がっていく。暗い寝室に一人の少年が呆然と佇んでいたのを見つけ、保護した。


 たった一人になった彰宏は、父の弟である叔父の家に預けられることになった。叔父夫婦は子供がおらず、家族を失った彰宏を大切に育ててくれた。

 叔父は町医者、叔母は看護師だった。彰宏は父母の遺産を相続したが、金は適切に管理され必要なときに使うことができた。成人して遺産の入った通帳を手渡された。彼らは誠実だった。

 彰宏は大学進学で彼らの元を離れることになっても感謝を忘れず、折に触れて会いにいった。


 覆面男が自分も殺してくれたら、と思った。それよりも人を殺したい、という衝動に駆られた。

 それに気が付いたのは、中学生のときだ。

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