綾野喜久子

 逢見おうみ学園大学付属図書館は神奈川県内の大学の中でも最大級の蔵書を誇る施設だ。蔵書数約115万冊、閲覧席数520席、職員数30名でうち常勤は18名で他は契約職員か派遣職員だ。

 市民にも開かれた施設で、公開講座やワークショップにも力を入れている。近隣大学の学生の利用も多い。


 綾野喜久子あやのきくこは派遣職員としてここで働き始めて二年目になる。子供の頃から本が好きだった。両親も本をよく読み、応接間には大きな本棚があった。誕生日は好きな童話の全集をねだるほどで、いつも本に親しんでいた。


 中学生になると図書館に通い、お小遣いはお気に入りの作家の本に費やした。

 高校生では図書委員になった。図書館便りに連載したお薦め本のコーナーは人気で、借りるための待ちが出るほどだった。

 それから本を必要とする人に届けたい、と思うようになった。


 大学へ進学し、念願の図書館司書の資格を取った。しかし、司書は狭き門だという現実があった。新規採用が少ないばかりか、十分な予算が下りないため契約や派遣でやりくりする施設も多い。専門資格なのに給料も悪条件だった。


 最初は地元図書館の正職員採用を探していた。正職員は特に難関で1名の募集に200名が殺到するというありえない倍率だ。即戦力を求めているため、新卒に望みは皆無だった。

 一年更新の期間職員としてなんとか食いつないできたが、来期よりパート扱いになるという。ただでさえ薄給なところ、あまりにひどい処遇にとうとう職場を去ることになった。


 そうした司書の有資格者を拾い上げていたのが派遣会社の専門職部門だった。司書を派遣するサービスがあることに驚いた。それだけ司書は正職員からあぶれてしまうのだ。正規雇用が充分にあれば、派遣会社など必要ないだろうに。


 司書として働きたい。条件は悪いが間口が広い派遣会社に登録した。ようやく見つけた先が逢見学園大学付属図書館だった。

 当初は専門書籍の分類が分からず苦慮したが、熱心に学んで学生の探し物の支援ができるようになった。子供たちに本の楽しさを教える仕事もしたかったので、休日にはボランティアとして公立の図書館へ読み聞かせに行っている。


「綾野さん、それやる前に配架をお願い」

 久藤春江くどうはるえが本の修理をしながら喜久子に指示を出す。彼女は50代半ば、大学職員として雇われているベテランだ。

 カウンターには返却本が山積みになっている。専門書は分厚くかさばるので、棚に返していくのも一苦労だ。


 春江は慢性的な腰の痛みを訴えて、重労働たる配架をしようとしない。いつも期間職員や派遣職員を顎で使っている。得意な本の修理作業か蔵書検索など、楽な業務を選り好みしているので、他の職員からも煙たがられていた。


「わかりました」

 喜久子は企画コーナーに掲示する書籍の紹介文を書く手を止め、嫌な顔をすることもなく山積みの本をカートに載せていく。これも立派な司書の仕事だ、と割り切っている。

「綾野さん、ぼくがやるからいいよ」

 声をかけてくれたのは大学職員の手塚彰宏だ。物腰が柔らかく、いつも困っている後輩職員がいると助けてくれる。

 春江は若い女性職員に対して当たりがきつい。とくに仕事熱心で利用者に好かれる喜久子への態度はあからさまで、手塚はよく気にかけてくれた。


「あ、いいんです。ちょっと気分転換にもなるし」

 手塚には英語の文献検索や論文翻訳など、彼にしかできない仕事が山積みのはずだ。彼に配架などさせてはいけない。喜久子は慌ててカートを引く。手塚もカートを握って譲らない。

「ぼくにも気分転換が必要なんだよ」

 論文検索に集中して疲れた、と言う。スマートな心遣いのできる男だ。女性職員には彼のファンも多い。


「今月の企画は地元出身の作家特集だね、県外からの学生も多いから興味を持ってもらえるよ。この時期にはとてもいい」

 ベテランの手塚に褒められて喜久子は嬉しさと気恥ずかしさで頬が紅潮するのがわかった。彼はいつも的確なアドバイスをくれるし、良いところを見つけてくれる。

 春江は面白くなさそうにしていたが、職員の支持が強く館長の受けも良い手塚には頭が上がらないのだ。


 ***


 定時になると派遣職員は特に、できるだけ残業をさせないという方針で帰るよう促される。今日は手塚のおかげで企画コーナーを飾る紹介ポップやレイアウトが完成した。明日、通常業務の合間を縫って設営すれば完了だ。良い仕事ができたという満足度は高かった。

 タイムカードを押し、ロッカーから荷物を取り出す。自転車置き場に向かうと手塚の姿があった。夕闇に佇むシルエットに喜久子は思わず胸が高鳴る。


「手塚さん、お疲れ様です。今日はありがとうございました」

 喜久子は緊張で声がうわずっていることに気が付いて、唇を噛む。

「綾野さんの企画コーナーはとても出来が良いし、もっと君にしかできない仕事をしてもらいたいと思うよ」

「そんな、ありがとうございます」

 飛び跳ねたいほど嬉しいのに、こんなことしか言えない自分が嫌になる。喜久子は声をかけたことをほんの少し後悔した。


 自宅アパートに帰り、顔を洗ってマグカップに紅茶のティーバックを入れ湯を注ぐ。冬はこたつになる小さなテーブルに置いたノートパソコンを立ち上げた。逸る胸を抑えながらメールを確認する。昨夜書き上げた短編小説を講評サービスに送った返事が届いていた。


 丁寧な感想と良い点、修正すべき点が的確に書かれている。最後にこれまでの作品の中で一番深みがある、とても成長していると締めくくってあった。喜久子は講評を何度も読み返し、喜びを噛みしめる。

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