鳴瀬諒子

 夫の史郞は毎朝六時に起きる。顔を洗い、スゥエットに着替えてマンション五階の自室から非常階段を駆け下り、公園を一周して戻ってくる。雨の日は階段を往復し三十分身体を温めて部屋へ戻ってくる。

 シャワーで汗を流し、テーブルにつく。史郞の妻、諒子りょうこは史郞がランニングに出掛けると同時に起き出して味噌汁を作る。


 史郞は新聞に目を通しながら朝食を済ませる。興味のある紙面は決まっており、事件と経済、地元のイベント欄だ。

 朝食を済ませると、無難な紺色のスーツに白いワイシャツを着て、ブルーと白のストライプのネクタイを締め、黒いビジネス鞄を手にする。黒縁眼鏡をかけた史郞は勤勉で真面目なサラリーマンだ。


「いってくるよ」

「あなた、いってらっしゃい」

「おとうさん、いってらっしゃい」

 史郞が会社へ出発する朝七時二十分には息子の京平も起きだして、見送りをする。京平は几帳面な父に似て見送りの時間には必ず目を覚ます。京平は五歳。保育園の年長クラスそら組だ。


 諒子は京平と一緒に朝食を食べ、着替えをして保育園へ行く準備をする。保育園のママたちの間では子供のコダワリが強く、長袖は嫌だ、今日はこの靴下がいいと着替えで一悶着あるという話も聞くが、京平は手がかからない。

 声をかけずとも制服に着替えて帽子を被り、黄色いバッグを肩にかける。賢い子だ、と思う。京平は実のところ気が付いているのではないか、と思うことがある。諒子と史郞は偽りの夫婦だということを。


 夫の史郞と一人息子の京平、そして妻である諒子。三人はそれぞれ全くの他人、偽装家族だ。諒子は史郞が裏社会の仕事を請け負っていることを知らされている。史郞を支え、世間の目を欺くために家族を装っている。

 諒子は献身的な良き妻であり、史郞は誠実で良き夫だ。


 諒子は史郞に選ばれたわけではない。諒子に選択権はなく、組織から史郞を指定された。契約期間は五年、場合によっては延長もあり得る。史郞とは四年目を迎える。

 それ以前は別の男と結婚していることになっていた。粗暴な男で酒癖が悪く、酔うといつも諒子を一晩中苛んだ。それが精神安定に必要なことだったのだろう。


 諒子は不平を言わずそんな日常に堪えた。裏社会の仕事を請け負う男を支えるために宛がわれた女だ。コールガールをすげ替えるようにチェンジの掛け声ができるのは男からだけだった。


 男はある日を境にアパートに帰ってこなかった。彼は仕事でミスをやらかしたのだろう、と諒子は思った。

 玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けるとサングラスをかけた黒服が二人立っていた。

「お前は明日から鳴瀬諒子だ」

 アパートから有無を言わさず連れ出された。黒塗りの高級車に押し込められ、山道から高速道路に乗ったようだ。


 三時間ほど車は走り続け、マンションの前に停まった。鍵を受け取り、部屋に入るとリビングの中央にゆりかごが置かれていた。中にはおくるみに入った乳児がすやすやと寝息を立てていた。こんな小さな子を一体どこから。組織が用意したとなれば、親はまともな人間ではないだろう。

「子供は京平、夫は史郞だ」

 それだけ告げると黒服は部屋を出て行った。


 今度は一体どんな男なのだろう。諒子はゆりかごを力無く揺らす。京平が心地良さそうな笑顔を向ける。胸が締め付けられる気分だった。この子は自分の子ではない。これから史郞という顔も知らない男と家族になり、育てていかねばならない。


 人生さえも他人に弄ばれる女、それが自分だった。

 母は水商売をしていた。男にだらしなく、実父は堪えかねて家族を捨てて家を出ていった。

 二人目の内縁の夫は諒子を下衆な目で見ていた。母がいない隙を見計らって諒子に手を出そうとした。


 欲望の対象にされ、自分が汚らわしい人間に思えた。母に告げると、彼女を傷つけてしまう。そう思って我慢した。男は諒子のそんな気持ちにつけこんで、執拗に関係を迫った。


「お前はあばずれだ、人の男を盗るなんて」

 意を決して母に相談したとき、返ってきたのは想像もしていなかった罵詈雑言だった。自分より若く美しい娘に嫉妬する惨めな女。娘のことを守るどころか敵視する身勝手な女だと知り、絶望した。


 あてもなく夜の街を彷徨った。そこで出会った19歳の颯斗と行動を共にする。颯斗はチンピラ気取りのつまらない男だったが、15歳の諒子には自分を守ってくれる大人に見えた。


 母が内縁の夫とベッドで睦み合っていたとき、颯斗と諒子は部屋に押し入った。颯斗は金属バットで男を殴りつけ、諒子は怒りに任せて包丁で母を何度も刺した。

 後悔は無かった。颯斗のバイクで逃げ出し、町外れのラブホテルに身を隠した。その夜は颯斗と無我夢中で抱き合った。


 翌朝目が覚めると、颯斗の姿は無かった。恐れをなして逃げたのだ。

 諒子は全てが信じられず自暴自棄になり、ドラッグに手を染めた。自分は価値の無い人間だと、死んでも構わないと思っていた。

 身も心もボロボロの廃人寸前となり雑居ビルの階段に座り込んで意識を失いかけたとき、組織に拾われた。

 ドラッグが抜けるまで厳しい更生プログラムを受け、組織に忠誠を誓うよう洗脳を受けた。諒子に与えられた役割は暗殺者たちの表向きの生活を支える女だった。


 人生で初めて他人に必要とされることが嬉しかった。

 史郞は三人目の家族だ。彼はこれまでの男たちと違い、知的で礼儀正しく、諒子を丁重に扱った。それはひどく他人行儀でもあった。

 諒子は自分を尊重してくれる史郞に感謝はすれども愛情は無い。史郞も諒子に対して心を許してはいなかった。それは京平に対しても同じだ。

 それでいい、と諒子は思う。これは仕事なのだ。


 保育園に行くと、表面だけのママ友と世間話が弾む。

「京平くんのパパ、すごくハンサムね」

「背が高くて優しくてイケメンなんてうらやましいわ」

 羨望の裏にある妬み、嫉みを感じて諒子は愛想笑いを返す。少しだけ優越感に浸る。しかし、心は満たされない。彼は他人なのだから。

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