吾妻柊二

 パチンコ店の隣に建つ築30年の五階建て雑居ビルの二階、落書きに彩られたコンクリート製の急な階段を昇った先にその店はあった。

レトロ喫茶“九番街”はマスターの気分次第で営業時間が決まる。天井からぶら下がるランタンに明かりが灯っていれば、営業中の合図だ。美味い珈琲を飲ませる店で、隠れ家的な雰囲気も相まって常連客はそこそこ多い。


 最近はSNSの口コミで自家製プリンが話題となり、マスターである吾妻柊二あづましゅうじは25年来真面目に淹れ続けたコーヒーよりも気まぐれで出したプリンの方が人気なんて、とぼやいている。


 吾妻は50代後半で生え替わった白髪をそのままに撫でつけ、ロマンスグレーだと吹聴している。べっ甲の眼鏡に黒いベスト、ワイシャツ、エプロン姿で昔ながらの喫茶店のマスターといった佇まいだ。年の割に身体は背筋はピンと伸びて腹回りも引き締まっており、常連の中年オヤジどもには羨ましがられている。

 最近プリンの口コミを目的に増えた女子高生からはイケオジと呼ばれて嬉しそうにしている。


 カラン、とベルが鳴る。扉を開けて黒いスーツの男が店内に入ってきた。長身で黒髪、鋭い目をした男だ。切れ長の瞳、形の良い鼻梁、固く引き結んだ唇は人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。無表情だが、どこか不機嫌だ。スーツの男、鳴瀬史郞を知る吾妻は彼が珍しく感情を表に出していることを意外に思った。


 吾妻は手元のスイッチで入り口のランタンの明かりを落とした。これで新規の客は来店しない。店内にはノートパソコンとにらめっことしているビジネスマンと、女子高生の三人組のみだ。すでにカップは空だ。そのうち会計で声がかかるだろう。


 鳴瀬はカウンター席に腰掛ける。吾妻は鳴瀬に注文を尋ねることなくウェッジウッドのカップを取り出し、ノンカフェインのルイボスティーを注ぐ。

「たまにはコーヒーを飲んで欲しいものだ」

 鳴瀬の前にカップを差し出す。鳴瀬は金縁加工の美しい装飾のカップを手に取り、静かに口をつける。

「カフェインは取らないことにしている」

 吾妻の申し出は却下された。この男は自分の課したルールに縛られて生きている、そんな気がする。


 ビジネスマンが席を立つと、女子高生たちも恋の話が一段落したのか、カバンを手にした。吾妻は会計を済ませて扉の鍵を閉める。

「どうしたんです、連絡もなくこんな時間に珍しい」

 鳴瀬は仕事を請け負う時と注文品を調達するとき、必ず時刻を指定してやってくる。今日は連絡もなく、突然の来訪だった。


「今回の仕事は失敗だ」

 鳴瀬は短くそれだけ言うと、ルイボスティーをまた一口含んだ。眉間に皺が寄っている。こんな苦々しい表情の鳴瀬を見るのは久しぶりだ。

「失敗とは、どういうことです」

「俺の仕事じゃない」

 鳴瀬の言葉に、吾妻は首を傾げる。今回のターゲットの転落死を新聞で確認した。鳴瀬が仕留めたのではないのか。


「事故死ということですか」

 吾妻はティーポットを傾ける。

「いや、邪魔が入った。殺したのは別の人間だ」

 鳴瀬が吾妻の顔を真っ直ぐに見つめる。責めるような視線から吾妻は思わず目を逸らし、居心地の悪さに眼鏡を持ち上げる。

「ダブルブッキングはありません」

「確かだな」

 吾妻は首を縦に振る。鳴瀬は一流の暗殺者だ。信用の少ない若手の場合、もう一人を予備で雇うことがあるが、鳴瀬の場合それはありえない話だった。


「とにかく、俺の仕事ではない。今回の報酬はいらない」

 鳴瀬はカップを空にし、カウンターに千円札を置いて席を立つ。そのまま振り返ることなく店を出て行った。

 鳴瀬の言葉通りなら今回仕事をしくじったことになる。組織に報告すべきか、吾妻は悩んだ。組織は暗殺者を厳格なランク付けで管理しており、仕事をしくじれば信用が一気に落ちる。それを回復するのは至難の業だ。


 現在、鳴瀬は特級クラスだが、失態が明るみに出ればA級にランクダウンする。しくじりが続けば、組織の足を引っ張るリスクがあるため、始末される事態にもなりかねない。鳴瀬のプロの中のプロだ。吾妻は彼の仕事ぶりをよく知っている。

 しかし、広告代理店部長の殺害が鳴瀬の仕事では無かったことが組織にバレたら、暗殺者との連絡役である自分の命も危うい。黙ってやり過ごすという悪手は無かった。


 鳴瀬は報酬や信用を失ったことよりも、暗殺のプロとしての矜持を傷つけられたことに怒りを覚えているように思えた。彼の心に立つさざ波がこれ以上大きくならなければ良いが。吾妻はスマートフォンを取り出し、鳴瀬の報告をそのまま組織に伝達した。

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