鳴瀬史郞
煉瓦の壁にハートに蔦を絡めたデザインの看板が揺れている。オーク材の一枚板の扉を開けて足を踏み入れると、ダウンライトが店内を照らしていた。天井から吊されたグラスが薄闇に煌めきを放つ。
白髭のマスターが鳴瀬の前に立つ。スナックは出さない。彼が一切手をつけないことを知っているからだ。
「いつもの、でよろしいですか」
ローテンポのジャズの切れ間に、マスターの心地よい声が響く。鳴瀬は決まってソーダ水を注文した。
「いや、今日は飲むことにしよう」
鳴瀬は少し考えて、ブランデーを注文した。一度はカウンターに置いたタバコとジッポをポケットに押し込めた。
組織の雇われ暗殺者。それが鳴瀬の仕事だ。物心ついたときに側にいたのは本当の両親ではなかった。幼い頃より組織への忠誠心と過酷な訓練を叩きこまれ、暗殺者になるべく育てられた。
14歳でチームの一員として仕事をこなし、16歳で初めて人を殺した。
高校、大学、社会人と、ライフステージに合わせた環境と家族が与えられた。組織の実態は全くわからない。探ろうとすれば存在を消されるとも言われている。
日本にどれほど同業者がいるかも知らない。指令が入れば、それを実行する。報酬は月末にまとめて支払われた。
鳴瀬はこれまで仕事でミスを犯したことはない。ターゲットに反撃されても食らいついて必ず仕留めた。完璧に仕事をこなす、それが鳴瀬のスタイルであり、プライドだった。自分の存在意義は組織の指定したターゲットを殺すこと、そう信じていた。
しかし、今夜仕事の邪魔をする者が現れた。
ターゲットの河原辰雄を狙い、彼の職場にやってきた。この時期は残業が立て込み、ビル裏手の社員通用口から出て表通りでタクシーを拾うことを把握していた。通用口から出たところを仕留めようと待機していたとき、頭上から河原が降ってきた。
彼は落下する前から死んでいた。
河原を突き落とした、いや、殺した男の姿を非常階段に見た。上背のある細身の男だ。年は30代前半。仕事を邪魔されたことに普段沈着冷静なはずの鳴瀬は頭に血が昇っていた。
背中のホルダーから銃を取り出し、男に狙いをつけた。男は恐れる素振りを見せず、信じられないことに一瞬笑った気がした。
鳴瀬は躊躇いを覚えた。その隙をついて男は非常階段を飛び越え、夜の雑踏へ消えていった。
ターゲットの死亡は確認した。しかし、これは自分の仕事ではない。鳴瀬にとってこの案件は失敗に等しい。得体の知れぬ男にターゲットを横取りされたのだ。
組織が保険をかけて他の誰かに依頼したのだろうか。いや、それは考えられない。鳴瀬のこれまでの仕事ぶりからこんなシンプルな案件に保険をかける必要性は無いからだ。だとしたら、あの男は一体何者なのか。
慣れないブランデーを流し込むと、喉が焼ける感覚に目を細める。これはヤケ酒だ、と鳴瀬は思う。
普段はソーダ水を飲みながら、一本だけタバコに火をつける。タバコを吸い終われば、席を立つ。鳴瀬は愛煙家だが、仕事の後に一服だけ、そう決めていた。タバコの匂いで自らの存在を知らせることになる、それは命に関わることだ。
金を支払い、バーを出る。タクシーを拾い、運転手に自宅マンションの住所を告げた。
部屋の鍵を開け、音を立てぬよう身体を滑り込ませる。ポーチには女物の靴と、幼児の靴が並んでいる。その端に揃えて靴を脱ぐ。
キッチンの明かりをつけると、テーブルにラップをかけた夕食が用意されていた。仕事で遅くなる、と言えば妻の諒子は夕食を用意してくれた。鳴瀬はどんなに遅くなっても帰宅して食事をすることを知っているからだ。
そして、“遅くなる”という言葉の意味も。
おにぎりと味噌汁、豚肉の生姜焼きをレンジで温めて食べる。深夜三時前。こんな時間だが、鳴瀬は三食の食事は必ず欠かさないことにしている。
テーブルに5歳になる息子の京平が描いた絵が置いてあった。クレヨンで白い画用紙に描かれた絵は幸せな家族の顔だった。5歳にしては上手いその絵に鳴瀬は頬を緩める。
しかし、この絵は偽りだ。諒子も京平も、組織が用意した偽装家族だった。諒子と京平に血の繋がりはない。
京平が二つのとき、“家族”として顔合わせがあり、そのままここに暮らしている。
鳴瀬は自室のクローゼットにスーツとタイをかける。スーツは身体にフィットしたオーダーメイドだ。鳴瀬の裏の仕事の制服とも言えるもので、動きやすさを重視している。
黒のワイシャツは洗濯機へ放り込んだ。
明日、会社に着ていく紺色の吊るしのスーツに、白いワイシャツを一式ハンガーにかけておく。オフィス機器販売会社の契約担当事務、それが表向きの仕事だ。
シャワーを浴び、濡れた髪をタオルで乾かす。白と青のストライプのパジャマを着て、ダイニングルームの電気を消し、寝室の扉を開ける。
ベッドは二つ。そのひとつに諒子と京平が眠っている。鳴瀬はベッドに身体を横たえる。
「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
鳴瀬は抑揚のない声で応える。
鳴瀬は暗い天井を見つめたまま眠ることができなかった。目を閉じれば、非常階段の男の笑みが瞼の裏に蘇る。あの時銃を撃っていれば、しかし、ターゲット以外は手にかけない、それも鳴瀬の信条だった。
これまでのキャリアに傷がついた、鳴瀬は腹の底から湧き上がる静かな怒りに、身体が熱くなるのを感じていた。
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