手塚彰宏

 水音がして、飛沫が上がる。タイルのブルーを反射した水が天井のLEDライトを反射して揺らめいている。手塚彰宏てづかあきひろは呼吸を止め、一気に水を掻いて押し進む。肺に溜めた息を吐くと、水中に気泡が浮かぶ。

 ゴールにタッチすると同時に水面に顔を出し、酸素を胸いっぱいに吸い込む。そしてまた水中へ潜り、壁を蹴る。


 水の中では、衝動を満たし高揚する心が落ち着く。ただ何も考えず、二キロを泳ぐ。それでリセットだ。日常へと戻る準備が整う。

 深夜二時、二十五メートルの室内プールは貸し切り状態だ。二十四時間営業のジムを契約している。普段は筋トレやランニングマシンで汗を流すだけだが、人を殺した後は水の中で心を落ち着けるのが日課だった。


 広告代理店で企画部長を務める河原辰雄に目をつけたのは、地方紙の小さな記事だった。若きデザイナー桐野の自殺には理由がある。興味を惹かれた手塚は件の広告代理店周辺の店で情報収集をした。ランチタイムにショッキングな自殺のニュースの噂話が飛び交っていた。そこで上がったのが河原の名前だ。


 ターゲットに最適の男だった。桐野を精神的に追い詰め、自殺に追やった確証を得た。河原が職場に一人きりになるのを狙い、エレベーターにメンテナンスの札を釣るし、非常階段へ誘い出した。そこで河原を殺害した。


 もちろん、罪悪感が皆無ではない。罪の無い子供やこれまで社会に貢献して穏やかな余生を過ごす老人を殺すのは気が引ける。罪悪感を軽減するには“悪党”を選んで殺す。これは手塚が自分に課したルールだった。正義の味方を気取るつもりはない。


 人を殺すことでしか心の安寧を得られない、それだけだ。抑えられない身勝手な衝動のために他人の命を奪うなど、外道の所業だと弁えている。

 しかし、人の命を奪うことでしか精神安定を保っていられない。命の火が消えていく様子にやすらぎすら覚えるのだ。殺人は手塚が自分を見失わずにいられる唯一の存在証明方法だった。


 プールから上がってシャワーを浴びる。ドライヤーで軽く髪を乾かした。ここへくるときはワックスで毛足を遊ばせていたが、今はストレートの髪をセンターで軽く分けている。ロッカールームへ行き、バッグから着替えを取り出した。

 柄シャツは丸めてバッグにしまい込む。新しい下着に着替え、ライトグレーのカットソーにジャケットを羽織り、縁なし眼鏡をかけた。


 手塚は鏡に映った自分の顔を見つめる。これで昼間の顔、大学図書館の司書を務める大人しく無害な男、手塚彰宏に戻る。

 誠実な優男、それが手塚の普段のイメージだ。欲望を満たすため、夜の街を彷徨う快楽殺人者と同一人物とは思えない。


 手塚はロッカールームを出て、受付カウンターの若い男性スタッフに会釈する。体育系大学の学生だ。スマートフォンに夢中のスタッフは軽く手を上げて、再び画面に目を落とした。


 ジムは自宅マンションから三キロほどの距離だ。近すぎないことは都合が良かった。手塚はバッグを肩にかけ、歩き出す。街路樹に若葉が芽吹き始めている。年を追うごとに春が短くなるのを感じている。


 歩道からはずれ、雑居ビルの並ぶ通りへ入る。手塚は背後に気配を感じた。複数の足音、男だろう。気付かぬふりをしてそのまま歩き続ける。こんな時間だ、人通りはない。普段入らない路地を曲がる。すると、足音は駆け足に変わり、手塚を追ってくる。


 手塚はコインパーキングに走り込んだ。目の前にカラフルなジャンパーを着た輩が三人立ち塞がる。

 耳と鼻に無数のリングピアスをつけた男、グラデーションの入った色眼鏡の男、ソフトモヒカンに派手な金ネックレスの男。三人はにやにやしながら手塚に迫ってくる。


「兄ちゃん、財布とスマホ置いていけや」

 ピアス男が首を傾げながらぶっきらぼうに言う。

「俺たち飲みすぎてよ、電車代もねぇんだ」

 色眼鏡は肩を竦めてみせる。ソフトモヒカンはその様子を楽しみながらタバコに火を点けた。

 細身で真面目な青年に見える手塚は輩の格好の餌食だ。しかも、深夜で周囲に目撃者などいない。


「そんな、勘弁してください」

 手塚はバッグの肩紐を握り絞め、上目遣いで怯えるそぶりを見せる。ピアス男と色眼鏡は狙った男が良いカモだと目くばせしながら口角を吊り上げる。

「大丈夫だ、金を出せば逃がしてやるよ」

 ピアス男が手塚の目の前に手を差し出す。手塚は怯えたふりをしてバッグを漁る。完全に油断していたピアス男の鼻についたリングを掴み、引きちぎった。


「ぎゃああ、何しやがる」

 ピアス男は鼻から血を迸らせ、顔を押さえる。

「てめぇ、この野郎」

 色眼鏡が拳を握る。手塚は眼鏡を狙い、ストレートを繰り出す。砕けた破片が目に刺さり、色眼鏡は悶絶しながら尻もちをついた。二人の手下に任せておけば片付くと、タバコを吸いながら余裕の姿勢だったソフトモヒカンは思わぬ展開に目を見張る。


 手塚はネックレスを掴み、背後に回ってチェーンで首を締め上げた。

「うぐぐ」

 眼鏡をかけた気の弱そうなヒョロ男にこんな力があるとは、驚いて目を見開く。首にチェーンが食い込み、血が滲んでいる。ネックレス男は脚をバタつかせ、気絶寸前だ。 

 手塚はその身体を精算機のポールに向かってに突き飛ばす。鉄のポールに頭をぶつけたソフトモヒカンはアスファルトに転がった。


「このクソがっ」

 顔を血塗れにしたピアス男が怒りに任せて突進する。手には刃渡り十五センチのナイフが握られていた。手塚はナイフの切っ先をかわす。バランスを崩した男の耳ピアスを引きちぎった。


「うわああ、くそっくそっ」

 男は耳を押さえて泣き叫ぶ。手塚はピアス男の手からナイフを奪い、大腿に突き刺した。

「ひぃいいい」

「抜くと死ぬぞ、そのまま救急車を呼べ」

 手塚は縁なし眼鏡を持ち上げ、冷ややかに言い捨てると、三人の無法者を置いてコインパーキングを出た。


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