第30話 赤とんぼの女2

木造りのドアを開けて店に入ると 軽い小さな音がした。 喫茶店のドアなんかによくつけてあるカウベルだ。 店の中に、他に客はいなかった。ウエイトレスさんが、僕の座ったテーブルに水を持ってきて、いらっしゃいませと言った。その人は、スリムなシルエットの黒いワンピースを着ていた。OL さんがよく着ているような仕事着にしてもおかしくない、しっかりしたデザインのワンピースだった。 長い髪は細かなウェーブがかかっていた。 若いけれど大学を卒業したばかりという感じではなかった。もう少し年上の、でも僕よりは3つ、4つ若い感じの女性だった。 僕がメニューを見ている間に、女性が言った。「私結婚断られたんです」「えっ」と僕は思った。いきなりそんな話をされても、僕は対応に困った。

「そうなんですか」と、言うしかなかった。「その人警察官だったんです」「公務員だから大丈夫だと思ったのに」「はぁ」「結納までしたのに、断ってきたんですよ」「そうですか」 僕にどうして欲しいんだろう。「どうして断ったんでしょうね」「私の何がいけなかったんでしょうね 」「僕に聞かれても・・」「そうですよね。ごめんなさいいきなりこんな話しして」

「でも誰かに話したかったんです。こんな話、そう簡単に人にできませんよね」「そうだね」 「なんとなくあなたが聞いてくれそうな気がしたから」

後はその人は言わなかったけど そんな雰囲気だった。僕はその頃はツイードに凝っていて、その日もお気に入りのツイードのジャケットを着ていた。まだ冬だったんだ。その上着ツイードでしょう、素敵ですね。と言って褒めてくれた。 それってホームスパンですよね。 ええ、確かそんな名前でしたよね。僕はツイードの種類の名前までは知らなかった。

「ホームスパンてね 一つ一つ手で紡ぐんですって。手がかかってるんですよそれ、すごく。 」「そうなんですか。よくご存知なんですね。」「 たまたま知っていただけです。」 僕はツイードの折り方の話から、少しずつ彼女と話をするようになっていった。僕はその頃よく聞いていた、テープを持って彼女の店に行った。友達に借りたレコードから録音したか平均律だった。僕は、そのテープを車でいつも聞いていた。今日来る時にもその曲を聴いてきた。彼女は、それを渡すと嬉しそうに受け取った。そして僕が書いたテープのタイトルを見て、「この字、手書き?」「そうだよ」「すごく几帳面なのね」ずいぶん褒めてくれた。僕はどちらかと言うと字が下手だった。だからテープなんかのタイトルは、条規を使って書いていた。彼女はきっとそのことを言ったんだろう。人は褒められると嬉しくなるもんだ、下手な字を褒められただけでも。

僕はその後も何度かその店に通った。 彼女に結婚とか考えていらっしゃいますか?と言われた事があった。僕はその時何と答えたのかよく覚えていない。 きっと今はまだ考えていないとか何とか答えたんだろうな。そしてある日赤とんぼを訪ねてみると、もうその店はなかった。僕は始め曲がる道を間違えたのかなと思って、もう一度戻って探してみた。けれども赤とんぼという名前の店はどこにもなかった。突然何もかも消えてなくなってしまった。あの子は何もかも突然だった。 いきなり、結婚を断られた話しをしてきて、そして今度はいきなり、影も形もなく消えてしまった。彼女の記憶は突然、そこで途切れた。

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