第29話 守山区にある喫茶店赤とんぼの女

僕がその店に入ったのは、ほんの偶然だった。僕はその頃 勤めていた学習塾が新たな支店として出した、守山店に行くように言われて週3ぐらいで守山に通っていた。 僕は暇のあるうちに、新しい職場に慣れておこうと思って、守山支店の周りを色々物色していた。弁当を買うことができるような店とか、コーヒーが美味しそうな店とか、まあ職場の周りの色々な店を見ていたんだ。その時その店に入ったのは店の名前に魅かれたというより、その店の雰囲気が好きだったからだ。はっきり言って「赤とんぼ」という名前には特に関心はなかった。店の印象はその程度だったんだけど中に入って、そこの喫茶店のオーナーの印象は強烈だった。見た目はごく普通の人だったが僕がテーブル席に座って最初に言われた言葉は今でも鮮明に覚えている。

「私、結婚ことわられたんです」」


いきなり修羅場のような話になった。僕は「はぁ」と、答えるしかなかった。僕はその人の顔を見直してみた、やっぱり初めて見る顔だった。初めて会った男に、いきなりこんな話をするかなぁ。僕は内心この人はちょっと変なのかなと思った。

「どうして断ったんでしょうね?」

「僕に聞かれても・・。」

「貴方ならどうしますか?」

「なにをですか?」

「私との結婚」

「結婚⁈」

「嫌ですか?」

「いま会ったばっかりですから」

「嫌ですか?」

僕はその人を、もう一度見直してみた。ごくごく普通な感じで、色も白くて、すっきりとした顔立ちだった。特に嫌なところはなかった。

「どう思いますか?」

「どうって・・」僕はただコーヒーを飲みにきただけなのに。

「ごめんなさい、いきなりこんなこと聞かれても困りますよね。」

その人はコーヒーを淹れながら、ときどきこちらを見ていた。また何か聞いてくるのかなと思ったが、それは無かった。

行きがかり上こんな風に問い詰められるようなことになってしまったが、言ってみれば彼女は被害者だ。急に結婚を断った男に、彼女はどうしても聞いてみたかったんだろう。どうして断ったのかを。ただ、それがどうして僕になったのかは謎だったけど。


僕はその頃の友達の影響で、やけにバッハを聞いていた。バッハの代表的な曲をいつもテープに入れて持ち歩いていた。話の流れ上、僕は結婚相手に逃げられてしまったみたいな彼女が気の毒に思えたのか、彼女にそのテープを渡して「よかったら聴いてみてください。落ち着きますよ」みたいなことを言って、テープを渡した。特に意味はなかったんだけど、

なんとなく出来ることはそれぐらいな気がした。


その店には近いこともあって、守山の支店に行ったときには、時々立ち寄るようにした。

「クラッシックがお好きなんですか?」「たまたま、最近よく聴いていたから、テープを持っていたんです。」 彼女は「私はヘビメタが好きなんですけど、聴いてみますか?」と言って僕にテープを渡してくれた。僕は一様聴いてはみた。しかし、ヘビメタは無理だった。結構、いろんな意味で魅力的な女性だったけど、僕は少しずつその店に行かなくなった。

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