捌:ヤクモの娘

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩垂 依般若波羅蜜多故 心無圭礙 無圭礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 




……この世はすべてくうなり。


「見えるものは一切合切がくうなりッ!」


 原稿用紙が風圧に乱れ狂う。

 ガサガサと紙が擦れる音はうなり声。圧倒的強者を自認する肉食獣のように。我が物顔で死のダンスを舞い踊っていた──が、突然、それらが炎に包まれた。原稿用紙たちは捩れながら悲鳴のような音をたてて、砕け、床に散らばった。


 闇から、無数の燃えるトランプカードが現れた。原稿用紙たちを次々襲い、周囲を火の海に巻き込んでいく。


 パチパチとが飛び跳ねる音とともに室内の電線が火花を散らす。空気を焦がすほどの熱量はピアノ線を弾いて鍵盤を叩き、混沌の曲を奏で始めた。


 燃え落ちる原稿用紙が床を燃やす。壁を這う何本もの火炎はカーテンを揺らしながら天井へと駆け上がる。まるで蛇のようにうねる姿に、穂乃果は泣き叫び、詩音が抱きしめながらも、自身も震えた。


 鼻孔を焼く匂いと皮膚を焦がす熱は、皆を恐怖に落とすには充分だった。視界がゆがむ陽炎の向こう、破壊されるピアノの断末魔に耳を塞ぎながらしゃがみ込む。


 服の下は汗でぐっしょり濡れてしまったが、そんなことを気にする余裕すらなかった。視線は右に左に、上に下に、結界のなかで迷子のように怯えるわたしの万年筆を見つけ心が折れそうになった。


 この期に及んでわたしが魔魅鵺にしてあげられることがない。

 悲しみに気持ちが潰える。


 しかし兎鞠先生が繰り出す原稿用紙たちは諦めを知らない。

 灰になっても逆に重さから解放されたと、温風で空中へと舞い上がった。そこで再び真っ白な原稿用紙へと生まれ変わる。

 彼らは力を合わせて調度品を燃やす炎に覆い被さり鎮火作業を開始した。負けてやる気など全くないのだ。


三相二木にそうにぼく、万物皆繋がり、すべての現象はすべて同一の現象なり。おまえの行為には意味が無いと知れ」

 自身に満ちあふれた堂々の口上。それを信頼し呪禁を描き続ける妙乙女。これが陰陽師。これが魍魎を屠る力。


 すごい。


 破壊と再生の繰り返し。

 黒と白の原稿用紙と燃えさかる蝶々たちが、かつて平穏だった音楽室で踊り続け、戦い続け、死んでは再生していくかのよう。

 その光景は、まるで永遠に続く輪廻転生を思わせた。




「さすが楽しませてくれるわねぇ」

 声だけの存在が嘲笑する。


「こんなもので満足なのか、まだまだ行くぞ」


 妙乙女が中空に放られると、くるくると回転しながら踊る妖狐のごとき禁忌の付喪神は「ケケケッ」と笑った。長い腕を伸ばし、鋭い爪で闇の一カ所を突き刺す。


 ドンッ、という空間を揺するほどの音圧がわたしだけでなく、結界の中にいる皆の躰すら震わせた。


 闇から真っ赤な血流が吹き上がった。


「くだらん芝居はやめろ、おまえに赤い血など通っているものか」


 先生の冷酷なまでの口上に「お芝居のイロハもわからない朴念仁ぼくねんじんね」と声高に笑い転げる、声。


「でも、これでおしまい、かな」

 燃え上がるトランプの集団が皆を護っていた結界に迫るッ。


「花梨さまぁッ」

 叫び「魔魅鵺!」と声をあげた。

 わたしが指示するまえに、既にわたしの万年筆はインクを吹き上げ火を消していた。心の中の違和感──でも、今はそんなことを考えている余裕はない。声だけの物ノ怪はあきらかに標的をわたしたちに変えていた。


「おいおい、遊び相手を間違えているぞ」


「後悔しなよ。あんたのせいで、みんな死んじゃうんだよ」


「はあ、だからなんだ。まさか俺を脅かしているつもりか。そんなもので俺は動じたりせんぞ」


 お芝居なんかじゃない。兎鞠恋之助は明らかに本気で「殺すなら早く済ませろ、続きをやろうぜ」という顔をしていた。この男は、姪を囮に使ったりと本当に他者を自分の道具としか見ていないのだ。先程までの、わたしの歓喜を返して。


「良いのかな。あの中にはあんたの姪もいるんでしょう」


「ふむ、俺のことを知っているか。やはりおまえはこの学校に生徒として潜り込んでいる怪異なのだな」


「だったら──なに?」

 声の物ノ怪が動揺している。


 そうか、なんでうちの学校に現れたのかと考えていたのだけど──でも、生徒として潜り込んでいた?


「ならば道徳の授業をしてやる、いいか良く聞け」


「そんな戯言!」


 さらに多くのトランプが闇からごっそり現れると燃え、結界に覆い被さる。空気が霞むほどの熱量に魔魅鵺のインク消火では間に合わない。


「花梨さまぁ!」


 わたしは思わず炎に飛び込もうとして、そこを魔魅鵺くんに止められる。

 そうだった。わたしは陰陽師だ。陰陽の力でこの厄災に終止符を打つのだ。


くうくうなりッ!」


「無駄だよ、あんたのへっぽこ呪術じゃあたしの炎は消せない」


「おい、俺の授業を聞け。いや、まあいい遊びながらでいいから聞け」


 この男、止める気がない。


「世のすべては空なり。つまり世界はゆめごと、幻なり。ここには『俺』という存在しかいない。すべての現象は、すべて自分の内側で起こることだ。つまり、ここ、この脳みそが生み出した幻影にすぎん。トーキーを知っているか。観客はスクリーンに映る俳優の演技に一喜一憂する。でもそれらは全て作られたものだ。そしてスクリーンに俳優はいない。講談師が必死に声をあてているが──いずれ俳優自身の声もトーキーから聞こえるようになるだろうが──しかしその声すら嘘なんだ。本当はそんなもの、どこにも存在しない」


「なにそれ、わたしはここにいるわ」


「はんっ、嘘を言うな!──空は空なり、色即是空、空即是色!」


「違うッ、違うッ、ちがーうっ!」


「何も違わん。おまえの存在は嘘なんだ」


「わたしは父の敵を討つんだ。あんたら陰陽師に夢を壊され、殺された、かわいそうなお父さん。許さない、あんたら万年筆使いを絶対に許さない」


 空間が爆発する。壮絶な霊力。


「四年前のあの日、完成するはずだった魍魎の楽園。あらゆる魂がひとつになって未来永劫の刻をたゆたゆと過ごす、そんな楽園。その完成を志半ばでおまえらに邪魔され殺された」


 兎鞠先生の目が鋭くなった。が、間髪入れず口角をあげてあざけ笑う。

「そんな退屈な世界の何が楽しいのだ……そうか、わかったぞ。おまえの正体」


 兎鞠恋之助の口上に声の物ノ怪が震えている。


「だがな、やはりおまえの存在は嘘なのだよ。何故なら、おまえが父親と慕うには娘などいないからだ!」


「わたしは嘘じゃないッ」

 さらなる爆発。


 音楽室全てが爆煙に包まれる。結界の強化を念ずるがとても太刀打ち出来ない。


「ケケケッ、そんな小僧には無理さあ」


「妙乙女さん、助けて」


「あたしの使い手は恋之助だよ、あんたの命令なんざ聞けないねぇ」


「みょん、結界を守ってやれ」

 兎鞠先生が命じた。妙乙女は不満げに「ふんっ」と鼻を鳴らしてから全身をインクに変えて結界を覆った。


「小僧、あんたも手伝うんだよ」


「魔魅鵺くんも同じようにインク状になると結界を覆う。


 このまま三千大千世界まで飛ばされるのでないかというほどの風圧と念力。


「違うッ、違うッ、ちがーうぅぅッ!」

 声の物ノ怪が泣いている?


 兎鞠先生が叫んだ「ヤクモ」って何だろう。お父さん?

 ……そうだ。この子はなんで音楽室に現れた。帝女に潜り込んでいた?


「お父さんの想い、お父さんの夢、お父さんの希望を破壊したおまえらを許さない」


 お父さん、ヤクモはお父さんの名前?


「あなたは──寂しいの?」

 わたしは問いかける。ひょっとしたら、学校の廊下ですれ違ったかもしれない、教室で一緒に授業を受けていたかもしれない彼女に「みんなと学校生活を楽しみたいんじゃないの?」


「はあ、馬鹿げたこと言ってんじゃないわ」


「お父さんのこと好き?」


「あたりまえじゃん」


「わたしもね、お父さん大好きだよ。最近は仕事が忙しくて一緒に遊んでくれないから悲しいの。だからね、学校で花梨さまやオカルト倶楽部のみんな、独逸どいつ好きな玲奈さん、女優志望の詩音さん、とっても可愛らしい穂乃果さん。そして、まだあんまりお話したことがないけど茜さんって女の子もいるわ」


「あんたが何を言ってんだか、わけわかんないよ」


「わけわかんなくないよ。お父さんが大好きって話。みんなが大好きって話。あなたと一緒だよ」


「だから、なに」


「もう一度、一緒に学校で学ぼう。一緒に遊ぼう」


「華宮ッ、おまえ何を言ってる!」

 兎鞠先生の怒声。

 でも、ちっとも怖くない。だってわたしは間違ってない。

「お父さんがなんで万年筆に殺されたのかわからない。だから友達になってなんて言わないし、言えない。お墓参りさせて、あなたの大好きだったお父さんのお墓に祈りを捧げさせて」


「あんた、何なの?」


「陰陽師だよ」

 世に蔓延る悲しみ、怒り、寂しさを浄化し、人魔の区別なく心に平静をもたらす宿命を背負った、ただの祈り手。でもね、だからこそね、悪しき木には悪しき実しか成らないけれど良き木には良い実が必ず成る。わたしは木を育てる術師になりたいと思う。


「馬鹿じゃないの」


「うん、そうかもしれない。でも、怒りに震え続ける怖い顔でいるより、笑顔でいたほうがきっとチャーミングだよ」


「……あんた、ほんと気持ち悪い」

 その言葉を最後に突然、声の気配が消えた。

 周囲を燃やし尽くしていた炎は消え失せたが、結界も破壊されていた。心臓が跳ね上がるほど焦り、卒倒した。


 結界の真ん中で折り重なるよう皆は倒れていた。すぐに駆け寄り、花梨さまを抱き起こす。

 そこで気づいた。着物の懐が熱い。鼓動がする──花梨さまのものじゃない鼓動が聞こえる。


「ごめんなさい」


 悪いと思いつつ緊急事態だし、女の子同士だし、「ええい」と着物の懐へ手を突っ込んだ。果たしてそこに万年筆があった。見たことのない万年筆だった。


 灯りの具合で色が変化する玉虫色の軸に宝石が埋めてある。清楚な花梨さまには似つかわしくない派手な外装は、縦に亀裂が入って割れていた。

 古い傷だ。今の戦いで壊れたわけではないようだ。

 ペン先も曲がっていて、とても使い物になるとは思えなかった。なんだろう。花梨さまがこんなモノを……熱は、その万年筆が出していた。


 あきらかに何らかのモノが憑依している気配がした。この子が皆を護ったのだろうか、だとしたら驚くべき強い力だ。妙乙女よりも強いかもしれない。


 聞こうとして、別の声に引き留められた。

「し、れ、ん」


 花梨さまの息はあった。一刻も早く医務室へ連れて行かなきゃ。


「先生、大人としての義務を果たしてもらいます」


「な、なんだ」


「皆を医務室へ運んでください」



   ※   ※   ※   ※   ※



 晴れ渡る青空。

 大通りには数多くの人々が集まり、自転車や人力車に混じって自動車も疾走していた。


 物心ついた頃には既に目にしていた自動車だが、あらためて見ても不思議な乗り物だ。タイヤが四輪もあるし耳を塞ぎたくなるほど大きな音(エンジン音、と田江さんは教えてくれた)を奏でながら運転手は複雑な機械を操作して動かしている。どういう仕組みなのかよくわからない。霊的な波動は感じないから、確かにこれは人間が創り出し、人間が動かしているのだろう。


 群衆に紛れていると、客車を連ねた路面電車が割り込んで来た。そこだけスッと、空間が出来て電車の通り道が出来る。銀座の人たちは手慣れたものだった。


 そのゆったり走る車両が『電気で走る鉄道』であること知ったときの感動は今も忘れられない。


 帝都大厄災からの長い眠りから目覚め、この大きな金属の車両はようやく一週間ほど前に走り始めていた。




「力強い光景ですわね」

 花梨さまは明るい笑顔を浮かべた。


 一昨日、母と歩いた並木道を今度は花梨さまと歩くわたし。

 艶やかな長い黒髪がサラサラと軽やかに揺れるたびに良い香りがする。

 これが旗本を先祖に持つ選ばれし一族の香りであろうか。ああ、わたしは何と幸運に恵まれているのだろう。


「ほんと素晴らしい光景ですわぁ、ヴンダバー!」

 はあ、なんでこの人達もいるんだろう。


「いつか銀座の舞台で踊りたい」

 すぐにでも踊れるんじゃありませんこと。


「魔魅鵺くんと一緒、うれしいぃ」

 白昼堂々と万年筆の付喪神が女学生と手を繋いで銀座の街を歩いてるし。


「……」

 あ、そういえば一緒は初めてだよね。いままで存在を知ってただけで、ちゃんとお話してなかったな。


「茜さん、気分はどうですか。あまりお日様のしたを歩くことないでしょう」


「……」

 真っ黒い瞳で、わたしを見上げてくるだけで何も語らず。何を考えているのか、さすがにわたしもわからない。


 でも右側に花梨さま、そして左側に茜さんが寄り添ってくれているのは嫌われてはいないという事よね。


「枝恋、ほらあのお店素敵。入ってみませんこと?」

 本当だ。可愛らしい飾り付けの洋装店。花梨さまに似合いそうな洋服が沢山ありそう──あ、でも今日は、


「花梨さま、急ぎませんと美津江さまがお待ちなのでは」


「ううん、そうねぇ。じゃあ、また今度にしましょう」


 花梨さまが立ち止まる。みんなもつられて立ち止まった。一点を凝視する先に大きなお屋敷。銀座の表通りを少し入り込んだだけの場所に、こんな立派なお屋敷があるなんて驚いた。


「塚本美津江みつえさまの別邸です」

 大きな門の前で伯爵令嬢は述べられた。

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