参ノ二:最凶の付喪神ー後編

「みょん、いくぞ」

 笑顔一つ無く、むしろゾッとするほど冷淡な表情のまま、黄金のペン先でシュッと空を切る。


 切られた宙空は黒いインクで一本の線が引かれる。その線は厚みを持つと同時に、くるりと一回転した。物体の出現は重みをもって空気を圧迫した。


「待ちくたびれたよぉ、恋之助ぇ」


 艶めかしく甘えた声だが、何処かに狂気を孕んでいる。そんな緊張感をもたらす声だ。


 わたしの懐に隠れていた魔魅鵺はあの日と同じようにガチガチと蓋を鳴らしながら震えていた。もはや会話すら成立しないほどに戦意を消失している。


「いったい、何なの?」


「言いつけを守らない悪童わるがきへのお仕置きは後で考えるよ」

 長い金髪に漆黒の単衣着物の妖怪が、細い眼の奥から覗く血の色をしたふたつの瞳でわたしを……否、わたしの懐に仕舞われた魔魅鵺に「ケケケッ」と毒づいた。


 英国童話に出てくる妖精のように空を舞い、清国の伝説に出てくる九尾きゅうびのように妖艶。三千大千世界の遺物にして、この世に存在してはならない禁忌きんき


妙乙女みょうおとめ

 わたしの呟きに、それまで感情の見えなかった兎鞠先生が反応した。


「ほぉ、さすがだな。知っているか」


 やはりそうだった。これまで何人もの陰陽師の魂を喰ってきた闇世界の『神』だ。

 万年筆を傀儡くぐつにしたのはここ数十年で、これまであらゆる物体に憑依ひょういしてきた。

 その共通点は「ヒトが常に手元へ置く愛好品」だ。妙乙女はつまり、ヒトの歴史とともにあった。

 だからこそ「やっかいな付喪神つくもがみ」だ。


「俺は妙乙女を完全に支配している。心配するな」


「ヒトが支配出来る神などいません」


「あーらぁ、あたしは恋之助にホの字さ。恋之助のためなら何でもするよ、ほんと、なーんでもネ」


「こら、みょん。離れろ」

 いちゃつきだした。ヒトと付喪神が。わたしはいったい何を見ているのだろう。

 花梨さまは腕に抱き付いたまま眼を閉じておられる。うん、それで正解ですわ。



「それにしても恋之助ぇ、あんな不味そうな肉の塊を助けてやるのかい。お人好しが過ぎるねぇ」


「いちおう、このヒト世界では御高名な僧侶らしいからな。助けてやれば礼金くらい貰えるかもしれない。出さないといえば、それはそれで口止め料を要求してもいい。童女の幽霊相手に情けない声をあげて逃げ回っていたと檀家だんかに言いふらされるのは困るだろう」


 付喪神と報酬の話しをする陰陽師。

 伯爵家の女性を嫁に娶っておきながら自覚は無いのだろうか。こんな男と同じ場所に居たくない。花梨さまの叔父でなければ見切ってここから出て行くところだ。


 一方で妙乙女も納得いかないのか、ふらふらと不満げに宙を漂っている。


「みょん、帰りに団子を買ってやるから、その気になってくれよ」


「あたしゃカステーラってやつが食べてみたいねぇ」


「わかった。商談成立だ」




 ──青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女


 呪禁じゅごんが空間に満たされていく。

 廃屋の教室へ天からバラバラと音をたて、紙束が降り注ぐ。

 空間を圧迫する勢いで、それはまさに紙束の豪雨だ。間髪入れず、無慈悲に鬼少女を襲撃。まるで蒸気機関車のごとく一直線に、列を成して目的へ突進する。


 兎鞠先生の四方には大曼荼羅結界が完成していた。わたしのものより大きくて機械のように複雑な動きをする多重結界だ。複数の諸仏の御姿が絵画として描かれていた。それが凄まじい霊気を放ち魍魎物怪から身を護っている。


 宙空にはヒトではない美女が肌も顕に踊っていた。

 妙乙女──黒い薄手の浴衣は羽衣のように風へ靡き、西洋人のような金髪が闇夜へ散らばり、黒い天空から降り注ぐ原稿用紙に黒い墨で呪文を書きなぐる──万年筆の付喪神による情熱的な舞いだ。


『瞼に映るもの、これ幻なり。真実の姿など何処にも存在せぬ。魚は魚と思い込むから水に泳ぎ、鳥は鳥と思い込むから空を飛ぶ。つまりは、思い込みに過ぎぬ。全ては己の心が勝手気ままに描いた幻影なり。ゆえに形の変化に執着するは愚かなりし。世に変わらぬモノ無し、世に縋るモノ無し、悠久の刻をただ流れるだけなり』


 闇に半身浸ったままの鬼少女は、焦りとも苦悶ともとれる表情を浮かべた。


「やめてぇ、やめてぇ、」

 ネズミのように暗渠へ逃げ込もうとするが……無数の原稿用紙が肉食獣のように襲いかかった。


「ぎゃあああっ!」


 血飛沫!?

 鬼少女の悲鳴とともに白い原稿用紙が鮮血に染まる。


 原稿用紙には太いしっかりした文字で呪禁が書かれていた。

 痛みを耐えるように必死に逃げようとする幼き魂の、その両目を端切はぎれの用紙が塞いで動きを制する。別の用紙は両腕を鋭利なナイフのように切り裂く。

 絶叫のなか血飛沫は勢いを増して血の海に変化する。


「痛いよぉ、痛いよぉ、痛い……」


 幼い女の子──少なくとも見た目は丸顔の愛らしい子供が、無残な姿で切り刻まれていく。



「ちょっと、やめてあげて!」

 わたしは思わず声を張り上げた。

 いくら物怪とはいえ、これはやりすぎだ。


「アレはヒトではない」

 書生服に下駄履きの男は背を向けたまま吐き出すように言った。


「だからって、かわいそう」


「ケケケッ、お嬢ちゃんは優しいんだねぇ。まるで普通の人間みたいな戯れ事を言うんだね」

 妙乙女が小馬鹿にするように嘲る。


「わたしは、普通の人間ですッ!」


「ふん、」

 兎鞠先生が鼻で笑う。どういうことなの、失礼じゃなくて?


「しれん……」

 花梨さまが腕に口を沈めたまま震える唇で名を呼んだ。


「はい、わたしはここにいます。大丈夫、大丈夫ですよ」


「おまえは陰陽師というものを誤解しているようだな。そこで怯える図体ばかりの和尚と同じだ」


「な、なにをッ!」

 今度は和尚が激高した。


「黙って見てな、老いぼれ和尚。ケケケッ」

 妙乙女が和尚の頭上をくるりと輪を描くように回った。その行為だけで大柄な躰を縮ませ震え上がる。

 童女の霊に弄ばれたことが余程怖かったようだ。再び除霊が出来るようになるまでには、否、寺の和尚として威厳を取り戻すには時間がかかるだろう。


「この世に縛られるから苦しいのだ。早く解脱しろ!」

 手刀を切り物怪に迫る冷血漢。


「いやぁあああっ!」

 切り刻まれた肉塊少女を原稿用紙の束が包み込んだ。

 ようやく、その姿が現世から見えなくなる。そこには紙束で形作られた真ん丸な手鞠があるだけだ──否、はじめから少女なんて居なかったのかもしれない。

 手毬には赤いシミが滲み、そして骨の砕ける音がした。悲鳴は聞こえなくなった。嗚咽すら存在しない。ただ一個の無生物と化していた。


「兎鞠恋之助」

 名を著す。


 すると原稿用紙の手毬は燃え上がった。

 大きな火柱は「ドンッ」と、一瞬で天井を突き破る。上空の厚い黒雲さえも砕いたのか、ひび割れた天井の隙間から月の光が射し始めた。

 眩いほどの綺麗な満月が姿を覗かせた。




「さて、」

 兎鞠先生がわたしに振り向き、わたしの懐を指さした。


「そこに隠れたモノは神か魍魎ばけものか」


「ケケケッ、坊やの始末ならあたしに任せなよ」

 ふたりの恫喝に懐を押さえ、「魔魅鵺はわたしの大切な万年筆ですッ」と怒鳴る。


「おまえに魔魅鵺は操れない。いずれ手に負えない悪童となり喰われるぞ。そうなる前に始末してやる」

 懐でカチカチと音を立てて怯える音がする。いまは、わたしが『弟』を守らなきゃならない。


「無礼な。この子はわたしのモノよ、わたしが制している、わたしの万年筆よ。好き勝手させません」


「ケケケッ、この時代のお嬢さまは気が強いんだねぇ。怖がらなくても痛いのは一瞬さ、坊やと一緒に三千大千世界へ送り出してやるよ」

 身構える。このふたりを相手に勝つのは至難だろう。だけど、それでも……」


「ふん、まあいい。好きにしろ」

 兎鞠先生は急に興味を無くしたように嘆息たんそくした。


「恋之助ぇ、本当かい。今のうちに潰しちゃったほうが良くないかい」


「構わん。付喪神の力は傀儡くぐつを操るヒトの霊力に比例する」


 遠回しに馬鹿にされた気がした。

 それでも、とりあえず危機は去ったと考えて良いだろう。

 懐の音は、まだ鳴り止まない。うちに帰ったら久しぶりにペン先を洗ってあげよう。新しいインクも入れてあげよう。縁側で田江さんの入れたお茶を飲みながら、何か楽しいお話が出来たらいいな。


 わたしは花梨さまの背をさすりながら、荒れた室内をぼんやり見つめる。

 片隅で頭を抱えて怯え続ける和尚さまを見つけて「幸あらんことを」と声をかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る