参ノ一:最凶の付喪神ー前編
目を開くと視界は白い天井だった。
どんより沈んだままの意識に力を込めて上半身を起こす。視線の先に認識したのは白い壁と白い床。自分が寝ていたらしいベットまで白かった。白一色の世界で暫し呆ける。
鼻に消毒液の匂いが突き刺さり、ようやくそこが医務室だと悟った。
──ブッダは何と言ったかしら?
世に確定された本質は無い。モノは常に変化する。故に目に見えるものはすべて幻。色は錯覚。匂いは幻覚。すなわち「空」である。
でも今は、この安心感に身を委ねたい。
「おや、目が覚めたかい」
高齢女性ながら気品を備えた学校医の
「あの、わたしは……」
「貧血で倒れたんだよ。気分はどうだい、もう普通に喋れるみたいだけど」
白衣の下の西洋スーツ姿。スカートではなく男性と同じスラックスを履いていた。短い白髪とハキハキした低い声量。帝都女子の専属医師らしい優雅な立ち居振る舞いではあるが、どこか舞台の男役のような格好良さもあった。
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
「お友達を呼んでもかまわないね」
「お友達って?」
「華宮さんが起きるのを、ずっと通路で待っていたのよ。今度はあなたが貧血になるから教室へお戻りなさいと言ったのだけどね。伯爵令嬢は全然言うことを聞かない」
「……え?」
それまでの白黒世界、消毒液の匂いしか感じられなかった静寂が一転、鮮やかな色と香りに満たされた。
「はなみやさーんッ!」
花梨さまが──塚本伯爵家の御令嬢が部屋へ飛び込んで来られた。わたしが飛び起きるのを、そっと舞台女優のような華麗さで制する。両手を握りしめてきたぁ!
「あ、あ、あのぉ、か、かりんさまッ!」
頭の中の幸せ値が限界突破で、また倒れそうだ。
「驚いたわ、ごめんなさいね。わたくしが叔父を道徳の授業にねじ込んだせいで」
「そんな塚本さまが謝ることなんて……え、叔父?」
「兎鞠恋之助。わたくしの叔母、塚本美津江の旦那様ですわ」
「……は?」
※ ※ ※ ※ ※
「急急如律、蘇民将来子孫也、悪霊退散ッ!」
闇が澱む視線の向こう。鮮やかな金色に輝く袈裟を着た男がひとり。
けれど、その容姿とは裏腹に口から発せられる濁声は汚く押しつぶされ床を這う。音圧で床板はびりびり震えていた。
古都より招かれた高名な僧侶……と聞いていたのだけど、肉食の猛獣がヒトに化けているのかと疑うほど肉感的で巨漢。日焼けが過ぎて黒ずんだ肌は、横に並び立つのも躊躇するほどに酷い体臭を放っている。
「まるで
当初はそんな感想を抱いたのだが……
一心不乱といえば聞こえは良いが、額から流れる滝のような汗を拭うことすら忘れて
ここへ到着したばかりのわたし達に対して「子供の遊び場じゃあないぞ」と罵り、嘲笑し、小馬鹿にした和尚。それが今は川に捨てられた子犬のように怯えている。
「悪霊退散ッ!」
打ち捨てられた廃校舎を揺らすがごとく怒声が響き渡る、何度も、何度も……しかし予想通りと言うべきか、虚しい静寂が訪れるのみ。何も無い、何の反応もない。
それでも、わたし達は息を殺し推移を見守った。
そこは、かつて子供たちの声で賑わった
しばしの沈黙……やがて、一片の期待すら裏切られたことを悟ったか、和尚の悔しさを押し殺す歯軋りが鳴った──その瞬間!
「きゃはははははっ」
突如、鋭く甲高い女児の笑い声が、室内に響き渡った。
「おじちゃん、
教室の中を
「!」
花梨さまが「ひっ」と小さく声を震わせ、腕にしがみついてきた。普段の凜とした伯爵令嬢の面影は消え失せ、それは知らない世界に怯えるばかりの童女のようだった。
「大丈夫です。わたしが御守り致しますわ」
わたし達をこんな陰気な場所へ連れ込み、あまつさえ失礼千万な和尚の霊媒を見世物にして喜んでいる性悪な男は、飄々とした表情で物見見物のように突っ立っていた。
「先生、いったいこれは……」
「黙って見ていろ」
目線も合わさず、ぶっきらぼうに言い放つ。
兎鞠恋之助という男は和尚より失礼だ。
「ちょうだいよぉ、ちょうだいよぉ、御骨をちょうだいよぉ」
おかっぱ頭に絣の着物。日本人形そのものの無垢なる笑顔を浮かべた少女は闇から半身乗り出すと、にんまり口角をあげた。袈裟から覗くゴツい腕を力任せに引っ張る。
和尚は顔を真っ赤にして引き剥がそうと暴れるが、握られた腕はピクリとも動かない。極太の筋肉が見かけ倒しでないのなら、あの力は子供のそれではない。鬼だ。
「離せ、離せぇ!」
「ちょうだい、ちょうだい、御骨を頂戴。その目を頂戴。その耳を頂戴。その歯を頂戴、その舌を……」
そのまま闇へと引きずり込まれる。戦慄に言葉を詰まらせ、怯えが膝を震わせ海老のように全身を痙攣させていた。やがて涙声は命乞いをはじめる。
小煩い
「助けてくれぇ、たすけてくれよぉ!」
「きゃはははははっ」
邪気の声に連れ去られ闇に消え去ろうとする和尚。抵抗すら虚しい。ただひたすら幼子のように泣き叫ぶばかりだ。
「わぁあああっ!」
「ふむ、仕方ない。見かけ倒しの小僧を助けてやるか」
兎鞠センセイが袂から万年筆を取り出す。わたしの魔魅鵺よりも太くて大きく、漆塗りを思わせる黒い光沢の、おそらく銀座の高級店でしか手に入らないような万年筆だ。
わたしは怯え続ける花梨さまの背を抱いたまま「先生?」と下駄履きの書生服姿に声をかけた。
兎鞠恋之助は初めてわたしに振り返ると「黙って見ていろ」と不敵な微笑をたたえた。
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