弐:兎鞠恋之助と怯える鵺

 帝都女子校は将来の教員を含む教育者・研究者など高い学力を必須とする者を養成する官立の中等教育機関だ。


 卒業生の殆どは師範しはん学校へ入学、あるいは高等学校を経てから帝国大学へ進学する。医学者や法律家を目指す者もいれば、僅かではあるが軍医や技術将校に抜擢されて下士官・兵を引き連れ防人の任に当たる者もいる。


 四年前に帝都を地獄に落とした『大厄災だいやくさい』では、帝都女子出身の医師や将校らの活躍が大々的に新聞紙面を賑わせた。大和撫子の勇猛果敢さを知らしめ、それが女性の社会的地位向上に繋がったとの話もある。


 そんなへ通う子らを、大人達は親しみを込めて『竹橋たけばし』の愛称で呼ぶ。皇居にほど近い場所にあるというだけでなく、それは通う女学生たちの社会的立場も表わしているのだ。

 多くは軍政財界で名が通った家の子女たちだ。


 つまり世間から「令嬢」と祭り上げられ、清らかであることを当然とされ、個人の自由はわがままと叱責され、将来の夢も周囲の大人たちに最初から決められている子供たちだ。


「ごきげんよう、華宮はなみやさん」


 礼拝堂に入ってすぐに声をかけられた。

 白き妖精のごとき細い躰に、腰まで流した艶やかな黒髪。魅惑的な長いまつげに覆われた哀愁漂う濡れた瞳。甘く柔らかそうな唇。

 けれど、それらは牧歌的な、春の日差しが似合う田舎娘という意味ではない。動作の一挙一動に在りし日のサムライを思わせる凜々しさがある。さらに日本人形のように冷えた表情が格調高い品性をも醸し出していた。


 さらに後光まで射しているッ!


 吹き抜けの二階部に嵌め込まれたステンドグラスから降り注ぐ陽光が、神々の領域にまで押し上げていた。まるで弥勒菩薩みろくぼさつか聖母マリアの御光臨だ。

 周囲の同級生たちは皆、両手をあご付近で握りしめて敬拝の視線で仰ぎ見る。

 慈愛に満ちた笑顔は、とても同い年だとは思えない──いやいや、それ以前に同じ人間とは思えない。


「ご、ごきげんようぅ、塚本つかもと花梨かりんさまっ」


「ふふっ、いやですわ。何故、緊張なさっているの。同い年、同じ一年生ですわよ」


 艶やかにして繊細な金紗で編み込まれた花柄の着物に、胸の下で付け合わせた女袴。革製の西洋ブーツをお履きになられている──わたしと同じだ。確かにそれは帝都女学校の生徒である証だ。

 首を傾げるたびに、肩をさらさら流れる黒髪に魅入られながら、今、わたしは幸せの絶頂にいた……同じ帝都女子の生徒なのよッ!


 ……ああ、神様。こんなにも素敵な奇跡をありがとうございます。


「皆さん、おはようございます」


 今年入学した一年生、数十人が席に着いたところで担任が挨拶された。

 菜の花を連想させる、淡く黄色いドレスを着こなす若い先生だ。本校の卒業生でもある。目元を緊張で張り詰めているが口元は穏やかだ。


 堂内は濁った空気で密閉されていた。吹き抜けのため高さはあるものの広さはそれほどでもない。各自に用意された椅子は肩が触れ合うほどに近かった。

 国語や数学など学科の授業を受ける教室は別にある。ここは教室ではないから机はない。否、本来は椅子すらない。がらんどうの空間に一段高い演壇があり、そこには十字架を背負ったキリスト様が吊るされていた。


 斜め後ろを見やる。

 そこに伯爵家ご令嬢──わたしが『ひとめぼれ』した麗しの花梨さまはおられた。


「本当に帝女へ入学したんだ」

 感動に打ち震える。


「では、本日の講師を紹介します」

 通路に待たせた人を、先生が呼びに行く。


 道徳の授業は特別だ。通常とは違い外部から講師を招いて行われる。つまり学校の先生が教鞭を執るのではなく、「高僧」や「警察署長」「高級将校」などの『大人』が帝都の未来を担う令嬢たちへ向けて「有り難いお説教」をする場だ。今年第一回目の道徳は入学式のあと、午後からこの特別な時間が設けられた。


 本日の講師はどういう方なのだろう、と期待に胸膨らませる令嬢たちの前に登壇したのは……

「宗教と社会哲学について講義して欲しいと頼まれた。まさかからの依頼とは驚いたが、講演料は悪くない額だから受けることにした。仕事だ、知っていることは全て話してやる。俺は、仏教図書館の館長で陰陽師もやっている兎鞠とまり恋之助こいのすけだ」


 ざわめいた。

 講師は若い男性だった。それも鼻筋の通った、眼力の強い美男子だ。

 同級生らの胸の高まりが場を支配している。ここが学校でなければ黄色い歓声があがっていただろう。

 けれど「女子校に堂々やってくるにしては無精髭が目立ちますわね」と、つい本音が口に出た。幸いというべきか、同級生たちは蛮風美男の登壇に夢中でわたしの軽口など聞いていない。


 兎鞠センセイは柔道の道着に紺色の袴を履いていた。学校の先生というより作家見習いの書生という雰囲気だ。うちにも昔いた。もっとも、あの方は女性だったけれど。


 それにしても随分と無頼漢ぶらいかんだ。髪はボサボサで、無精髭ぶしょうひげとおなじく手入れはされていない。しかも足には下駄だ。

 蛮カラを気取っているのだろうか。見た目の年齢は大学生っぽいが、むろん帝国大学にこんな不良はいないだろう。


 ため息を吐くが、しかし同級生たちの歓喜に満ちた笑顔が瞳に映り込んで戸惑った。ざわめく空気感。興奮に満たされる空間。まるでトーキーの名優か歌舞伎の花形を見つめる乙女たち。

 皆、同年代のはずだが「どうにもズレている」間隔に、どういう顔でここに座っていれば良いのか悩んだ。右手を後頭部に伸ばして馬の尻尾ポニーテールを前へ引き寄せる。ぬいぐるみを愛撫するように長い指で弄んで気分を散らした。


「面白そうな人間だね」

 懐の奥で眠っていたはずの魔魅鵺が「ケケケッ」と嫌な笑い方をした。


「下品な物言いね。その笑い方おやめなさい」


「お姉ちゃんも嫌いなんでしょ、ああいう人間。苦手だよね。だったら僕がもいいかな」


 ときどき驚くことを口にする。わたしが制御出来ていないからだろうか。ちゃんと叱らないといけない。

「魔魅鵺くん、貴方はわたしの万年筆となったのよ。妖怪の真似事は禁止です。紳士的に振る舞えないならペン先を折るわ」


「お姉ちゃんの方が乱暴だよ、怖い怖い」


「当たり前です。華宮に迷惑をかけるなら当然の報いを受けます」


「でも、あの人間が面白いっていうのは本当だよ。ほら、ここにいる女はみんな虜だ」


 魔魅鵺の言うとおりだった。しかも心躍らせているのは生徒だけではなかった。

 洒落たドレスに身を包む大人の女性──先生までが胸元で両手のひらを握りしめて「恋する乙女」を演じている。


 これはいったい、何なの?


 この正体不明の男を誰が連れて来たのよ──あ、まさか先生?

 自身の職責を忘れて『憧れの君』を見つめるうら若き女性の姿がそこにあった。


 誰もが乙女心を隠さぬ羨望に、突然嫌な予感がした。慌てて斜め後ろに視線を向ける。

 もしも、そんな事になっていたら──あぁどうか神様仏様、わたしの憧れを奪わないでくださいッ!


 心の怯えを押さえつけ覚悟を決めて眼を開く。はたして麗しの推し令嬢は──他の同級生たちとは違った! 「こゝろ、ここにあらず」といった風情で、興味なさげに手提げから取り出した小さめの雑記帳へ視線を落としていた。


「ああ、さすがですわ。わたしと相性が会いますね、花梨さまっ」

 安堵に胸を撫で下ろす。


「帝都大厄災では民衆が一致団結して国難を乗り切った。けれど……」

 兎鞠先生が話をはじめた。花梨さまの態度に心を安心させたわたしは、椅子にゆったりかけ直すと話を聞いてあげることにした。


 しかし、なんだろう。ひどく気分が落ち着かない。

 このセンセイが学友達の憧れとなったところで、わたしには関係ない。花梨さまさえ正気ならそれで良いはずだった。

 せきたてられるような感情の高ぶりに壇上を凝視した。

 そこで、あらためて兎鞠先生を見ていて気づいた。もちろん最初は見間違いだと自分の視力を疑った。それでも奇妙な違和感には実感があった。


 何かいる。間違いない。


 話を続ける若い書生服の、自称陰陽師センセイの周囲にふわふわ漂う人影。悪霊だろうか、いや少し違うような。


「……おねえちゃん……ここはいやだ……出ようよ」

 いきなり、どうしたの?


 懐にしまわれたままの万年筆が、ガチガチと音をたてながら震えはじめた。さっきまでの元気が嘘みたい。


 壇上から突き刺さる強い恐怖を感じ再び視線を上げる。

 果たしてそこに、まるで刃物のように鋭い眼力で睨みつけてくる兎鞠恋之助。ただ黙って、こちらを凝視し続けている。


「な、なんなの!?」


 その圧倒的な存在感に喉が詰まり声が出ない。何よりもそこに居るはずの無い──そこに居る別の存在が恐ろしい。


 金色に輝くどこまでも長い髪に、底なしの漆黒へ落ちていくような単衣ひとえ着物。

 ヒトではありえぬ華奢な体は透けるほどに白く、妖艶なる瞳は狂おしいほど魅惑的。

 唇は嗤っていた──わたしという小娘を嘲けている。


「アレは三千大千さんぜんだいせん世界の遺物だ、この世に存在してはならない禁忌きんきの存在だ……魔魅鵺と同じ?」


 全身が麻痺まひしたような状態で思考が現実に追いつかない。

 わたしは意識を失った。

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