壱ノ二:銀座の幽霊と魔魅鵺ー後編
わたしの呪術を拒絶するように、『ダンッ』と耳を叩く怪奇音、空気が弾ける音がした。
中空に浮かぶのは暗渠の闇。深淵から何か蠢くものが現れた。
今生を行くあてなく彷徨う魔物の姿は、意外にも若い女性だった。否、女性のように長くて艶やかな黒髪だった。
「世は全て空なり。執着を捨て流れに任せよ、さすれば安息の浄土が約束されよう」
ダダ、ダンッ!
髪の毛から黒目がぎょろりぃ、威圧感ある輝きを放つ。背筋が凍りつくような悪寒。耳元にヒトではない声がざわついた。
わたしは怯えの感情を払拭しようと両手を胸の前で握って念仏を唱える。
けれど不気味な気配はまわりを侵食し始めた。全身から汗が噴き出す。恐怖で頭が真っ白になりそう。
「怖い……怖い……怖い……」
わたしの心の声か──否、違う。頭の中に何かが入り込んでくる──なんだ、これはなんだ?
恨みか、憎しみか、執念の怨。
深い沈黙に包まれた暗闇の中、幽かな女性の声が響き渡る。私の意識が引き寄せられるように、徐々に女性の存在が浮かび上がってきた。彼女の存在が、私の頭の中に満ちあふれ、わたしの思考を乱す。
違うッ!
このヒトは黄泉の鬼などではなく、見捨てられた寂しい魂だ。
今生での壮絶な生き地獄を抜けてもなお、忘れられない日々の残影。とても悲しく、深い苦悩と痛みが込められた
わたしは圧倒されるように、彼女と心を分かち合う。彼女の思念が頭の中に流れ込んできた瞬間、彼女の嘆きを背負い、同時に彼女の哀感に触れた。
どれほど悲しかったろうか。
どれほど悔しかっただろうか。
それをわかって欲しいと、わたしに救いを求めてきたのだった。
涙が溢れた。
「お姉ちゃん、喰われちゃダメだ!」
魔魅鵺が叫んだ。ハッと我に返る。
万年筆のインクは流れ続けていた。天から降り積もる原稿用紙に魔魅鵺をもって書き綴るは怨霊滅却の呪術書。
「ぐぎゃぁぁぁぁッ!!!」
再びの咆哮。凄まじい音圧に肌がビリビリと振動する。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前ッ!」
幾重もの曼荼羅結界がいくつも出来上がり、わたしを取り囲んだ。全ての
「空空即是色受想行識亦復如是……、」
荒ぶる野獣が躍動するように周囲を音だけが疾走している。
その勢いは猛烈だ。目を閉じても、凶暴な気配がわたしを包み込む。どこから現れるかも分からない獰猛な存在に、額からは汗が流れていた。
けれど、わたしは孤独では無い。
魔魅鵺もいる。この、ちょっと生意気な弟はしっかり相手の動きを見張ってくれる。三千大千世界の向こうに棲む魍魎だって、敵対する相手だからこそ、わたしの手並みを拝見している。虎視眈々、わたしの力を値踏みしている。
恐怖を感じながらも、必死に立ち向かわねばならないという緊迫感が全身を支配していた。
突如、物凄い音が響いた。
様子伺いのように走り回っていたモノノケは、意を決したように体当たりを繰り返してきた。もちろん
そこに見えたのは真っ黒くて長い髪をしたエプロン姿の女だった。
「──!」
予想していた通りだ。
暴れている『幽霊』は、この店に勤めていた女中なのだ。情愛叶わず玩具のように弄ばれ、食い物にされた末に捨てられた、悲しい記憶を持つに至った寂しい魂だった。
寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、
「聞け、さまよえるモノよ!」
わたしに取り憑いたところで望みは叶わない。それは──わたしと貴方は別の存在だから。わたしと貴方では見ているモノが違うから。わたしが認知しているモノは貴方が認知しているモノとは別物だから。全てのヒトは、同じ視線の先に別のモノを見ている。貴方がそれをリンゴと思ってもリンゴと感じないヒトもいる。貴方がそれをカラスと感じてもカラスと信じないヒトもいる。同じモノを見ていると考えるのは錯覚であり傲慢です。
心を落ち着け精神を集中し言霊を紡いでいく。
悪霊と化した哀れなる女に今生の未練を捨てさせて
それが、わたしの役目。それが、わたしが今ここに居合わせた理由。
「
魔魅鵺の
全身が熱を伴った光となり紅く蒸気する。髪が逆立ち天を突き、あふれ出るインクは降り注ぐ原稿用紙を染めていく。わたしの言葉を文字として記入していく。
「色即是空 空即是色 受想行識亦復如是……」
この世があれば、あの世がある。
当たり前ながら、これまでの一四年間は意識せずに生きてきた。魔魅鵺との出会いで、わたしの貧弱な世界感は大きく変わった。
「苦しみは愛欲への未練があるからだ。悲しみは執着が原因だ。一切のカルマを捨て去り俗界を離れよ。解脱の境地へ達すれば悠久の刻を謳歌出来よう。それこそが輪廻転生の神髄なり。それこそが幸せの本質なり」
原稿用紙のマス目に次々と言霊が刻まれていく。
「幸せにおなりなさい。あなたは何処へでも行けるわ。だって自由なのだから」
原稿用紙の束がモノノケのまわりに吹き荒れる。凄まじい量の紙吹雪だ。
「……わ……たし……、会いたかっただけなの。あのひとに、」
紙吹雪がちっぽけな女の躰を包み込む。その容姿が完全に覆い隠される瞬間、垣間見えたのは優しい顔で祈る姿。
成仏なさい。
女は原稿用紙によって形作られた巨大な手鞠として眼前に残る。
「華宮枝恋」
最後に名を記す。途端に手鞠は光を放ち、炎をあげると、爆発を伴う煙へと昇華した。一切が消える。周囲は闇に包まれた。
暗がりのなか、わたしの頬を一筋の涙が伝った。
「お姉ちゃん、終わったよ」
店内の照明が戻る。逃げ遅れた店員や客が「何が起こったのか」わからず悪夢を見た直後のように狼狽していた。
大柄な中年男が怯える子犬のように突っ立っていた。それが店長だとすぐにわかった。わたしは女と記憶を共有したから。
「すべて終わりましたわ。怪現象は、もう起こりません」
笑顔でそう告げた。
店長は安堵の表情を浮かべると「霊媒師か陰陽師の方ですか」と訪ねてきた。店長の後ろに浮遊する魔魅鵺に眼で合図してから、母を包んだままの最後の原稿用紙を剥ぎ取る。
母が「いったい何が……」と起き上がった瞬間、魔魅鵺が店長の後ろ膝を蹴り上げ屈伸させた。顔が目の前に落ちてきた。わたしは「きゃーっ!」と叫ぶや全力を込めて思いっきり、その頬に平手を打ち込んだ。
──ぱーんっ!
「な、なにをするかッ!」
店長が顔を真っ赤にして怒ったのを確認してから、にんまり。
まだ呆けている母の胸に飛び込んで「あのおじさんが、わたしに抱き付こうとしたの」と訴えた。
母のキツい眼差しが店長を刺し殺した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます