壱ノ一:銀座の幽霊と魔魅鵺ー前編

「わあ、万年筆がいっぱい」


 さすが新築だけあって床も壁も汚れ一つなく綺麗だった。

 店内一等地の棚に、海を渡ってやって来た筆記具たちが行儀良く並んでいる。独特の艶やかさを放ち、高潔な気品を醸し出していた。

 色も多様で、まるで宝石のようだ。

 これほどの品揃えは、銀座といえども中々見かけることはできない。開店に向けて仕入れを頑張ってきた、新しいお店ならではの光景だろう。


「紅い色は無いのね」


 何気に口を突いて出た言葉に、母の顔がパッと明るくなる。

「枝恋、あなたも万年筆を持っていたのね。お母さん気づかなかったわ」


 動揺した。

「え、な、なんで……」


「お部屋を片付けに入ったときにね、机の上に置いてあったのを見たの。さすが、わたしの娘ね。良い趣味をしているわ」


 娘のことなんて田江さんに任せっきりの印象があったけど……お母様って、ひょっとしたら頻繁にわたしの部屋を詮索しているのかも。

「あれは、」


「細軸の繊細な万年筆ね。白銀のペン先は少し固めだけど、学校の授業で使うには丁度良いかしら。何より素敵な紅色」


 うっかりしていた。さすが作家だ、万年筆には詳しい。もっとも、それ以上は気づかれてない様子で少し安堵した。


「お父様に買って頂いたのでしょう、あの人も娘には甘いのだから」


 けれどわたしの動揺は、何も『魔魅鵺まみや』を見られたことだけではなかった。

 入店してからすぐに気づいたのは店内に漂う異様な雰囲気。まるで厚い霧のように立ち込める尋常ならざる景色。鼻孔の奥を刺激する独特の死臭。

 そして懐に潜り眠っていたはずの別の意識が、興奮気味に感情を荒らしている。これは只事では無い。


「お母様、外へ出ませんか」

 母は首を傾げ「何を言ってるの?」と、当然の反応をした。

 それでも、もはや言い争っている暇すら無い。逃げ場のない罠に落ちたように感じられ額に汗が滲んだ。


 わたしは人目もはばからず着物の懐に手を差し込むと、隠し持っていたを握りしめた。心の中で「五蘊ごうん」を唱える。



 ──色蘊しきうん受蘊じゅうん想蘊そううん行蘊ぎょううん識蘊しきうん



「汝に問う、魂は如何に在りしや」

 わたしの指先から投げかける言葉を万年筆が自動筆記する。

 空間が揺らめき始める。

 店内の照明が明滅を繰り返し、棚の商品たちは踊り狂う。尋常ならざる事態に店員も客も悲鳴をあげながら逃げ惑った。


 おおかた大厄災の日に地獄から迷い出たまま、ヒトを脅かすだけの存在と化した悪霊だろう。昨今は特に力を増している様子で、神社神主程度の呪術では太刀打ちできなくなってきた。これも、そのうちの一匹に違いない。


 わたしは念を強めた。滅却して六道ろくどう世界へ強制送還してあげます。


「きぃぃごぉぉぉぉぉッ!」


 木霊するは耳をつんざくような女の声──悲鳴?

 店内を駆け回るように声が響き渡った。荒い息づかいと咆哮が、わたしの身肌の表面を細かく波立たせるほどの、迫力をもって突き上げてくる。間違いなく標的はわたしだった。ならば好都合。


三悪趣さんあくしゅを統べし阿修羅あしゅらに告ぐ。利己暴慢りこぼうまんの鬼を今生こんじょうの執着より解き放てぇ!」


 言霊が放たれると、大量の『原稿用紙』が雨のように降り注いだ。

 マス目が細い線で描かれた、母が小説を書く際に使う原稿用紙だ。それが今、怒濤の勢いで地響きを伴いながら床を埋め尽くしていく。


 原稿用紙の洪水に流されそうになる母の怯えを視線の端に感じて、わたしは先手を打つ。

 手に握った紅い万年筆を天空へと放り上げる。は、鋭い銀のペン先で空間を斬り裂くようにして飛び出し、粘着質のインクを流して原稿用紙を繋ぎ合わせ一枚の大きな被せ紙とした。

 身を竦め顔面蒼白に恐れる母を上からすっぽり覆うと、狂気に支配されそうになっている文豪作家の眼と耳を塞いだ。わたしは、その上から護符を貼る。


「お母様、暫しご辛抱を」


 そう言葉をかけ、わたしは自分の力を信じペン先を中空に刺す。そこにいるはずのモノノケに宣戦布告だ。


「ぎゃあぁぁぁぁッ!!!」


 疾風怒濤しっぷうどとうの如く、鼓膜に響く高周波が突き刺さる。痛みで耳を塞ぐ。抉るような刺激に思わず声が出た。

 それに呼応するように、今度は「ずずぅぅぅ」と静かな声色に変化した。まるで、こちらの態度を伺いながら対応を変えているようだ。攻撃の意図が見えない。


 まろやかに変質した声色は耳から頬へ、するすると顔を撫でる感覚は長い指で触れられているみたいだ。

 滑らかな指先はフルートを奏でるように静かに細やかに、肩から腕へと進んでいく。未知の体験、音による快楽。


「わたしを、弄ぶ気かッ!」


 激情をあざ笑うように、やがて音圧は胸へと到達する。手のひらで下から持ち上げるように、やさしく愛撫されるわたし。快感が強くなり、思わず両腕で前を押さえながら背を丸めた。躰が熱くなった。


 ここに男子がいなくて良かったとおもう。華宮家の令嬢は破廉恥だと噂にでもなれば父の男爵としての権威に傷がつく。それは母も望まないことだし、もちろんわたしも困る。田江さんも悲しむだろう。

 だからこそ、このまま恍惚の情に溺れるわけにはいかない。


「魔魅鵺ッ!」


 声をあげて意識を強く保つ。わたしは握りしめていた万年筆を再び投げ上げた。紅い万年筆はくるくると宙を舞い、やがて霧を吐き出す。白煙により視界不良となった隙間から整った銀色の髪をした碧眼の少年が和やかに浮かび上がった。


「お姉ちゃん、ぼくも男子なんだけど」


 気取った囀りに、「生意気」とわたしは睨み付けてやった。

「魔魅鵺くん、変な妄想してないでアレを引き釣り出すのよ」

「ハハッ。お姉ちゃん相手に淫靡な妄想なんてありえないさ。そんなことより契約だからね、うたっておくれよ」

 ほんと生意気な子ねッ。

 紺の燕尾えんび服に短パン。首には蝶ネクタイ。流暢な日本語で年上の女に遠慮無く絡んでくる白人の少年。

 でも、なぜだろう。不思議と腹は立たない。

 もしも弟がいたらこんな感じかと……、ならば姉として遠慮無く振る舞わせてもらう。

 わたしは気を集中させると念を唱えた。


「空は空なりッ!」

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