2  青の風


 翌朝。


 母親によって開け放たれたカーテンから射した朝日の眩しさに唯斗は顔をしかめた。いつもと変わらない時間。何も変わらない世界。大葵が居なければ、唯斗は何もする気になれないだろう。大葵は唯斗の唯一の生きがい。

 そんなことを考えながら登校の準備を進めていき、例のPASのバッテリーを戻す。後ろのカゴにランドセルとサブバック代わりの一澤帆布製手提げを放りキーを回す。明るいライトを朝から点けて藍鼠色に再塗装されたクモアのヘルメットを被る。坂を下りる父親のスズキ エリオを追いながら自転車を漕ぐ。弁天べんてん町は小学校が多治見市立精華せいか小学校になり少し遠いため、自転車や車で通っている。一〇分少しの通学路のなかで、唯斗はずっと考えていた。


 唯斗の唯一の生きがいは大葵の存在。

 大葵が居なければ、唯斗とはどんな存在なんだろうか。


 唯斗は友達とかいう奴が多い方ではない。むしろ少ない方。それは単に人付き合いが苦手ということもあるし大葵と出来るだけ一緒に居たいと思っているから。仮にクラスメイト二一人全員と仲が良かったとして、そのクラスメイトと遊びに行って大葵と会えなくなるくらいならほかの友達など作らない方がいいのではないかとまで思えてくる。


 唯斗の中で大葵はなくてはならない存在だが、それを失ったとき、唯斗はどうやって生きていくのか。


 ――大葵は俺のものにはならない。

 それは、わかる。


 ――大葵は女の子と結婚して子供を育てて、ちゃんと幸せになる。

  それも、わかる。


 ――大葵は俺が居なくても生きていける。

 分かっているのに、大葵の彼女なんて、子供なんて見たくないと思ってしまう。

大葵の幸せを心から願えない。そんな自分が、一番いやだ。


 「唯斗!」

 校門をくぐってPASを停めたその時、後ろから呼ばれて振り返ると、そこにクラスイト。 南雲なぐもリュボーフィ。

 ロシア語で「愛」という意味の名前を持つロシアと日本のハーフで、小さく華奢な体格と淡い撫子の髪に色素の薄い青い目、整った顔立ちに高身長でおまけに性格もいいときた奴。男女ともに人気があり、そのコミュニケーション力から校内放送や行事の司会をよくやっている、コミュ力オバケ通称「MCリュイ」。よくとおる声が人気で、放送部のヤングリーダーを任されている。


 有志の生徒で集まって行う部活動。中でも部長とヤングリーダーは主にその実力が特に優れている者が任されるもの。放送部の精鋭をはねのけていけるほど、リュイの実力は伊達ではなかった。唯斗もよくその声を聞くことがあるが、別段意識していたわけでもなかったため突然声をかけられ驚いた。でもそれもリュイが「コミュ力オバケ」と呼ばれる所以なんだろう。

 「今度のレポートでアシスタントやってくれない?」

 リュイがこちらの返事を気にもかけず言い放つ。


 リュイはレポートや放送原稿の作成を任されることも多かったが、基本的にそういうことが得意ではなく、未だあやふやな日本語もあるため、いつも誰かに助けてもらいながら原稿を書いていた。一方唯斗の国語力は並みよりは上で、過去に児童文学作品コンクールで金賞と審査員特別賞を受賞するほど、物語性のある文章を書いたり文の構成を考えるのに長けていた。それを何処からか聞きつけたリュイは、今回、レポート原稿文の作成協力を依頼しようと考えたらしい。

 唯斗は迷う。別に断る理由はないのだが、正直唯斗はリュイが苦手だった。明るく快活で、何事にも熱く取り組める。その性格は、一緒に居るには唯斗的に疲れるものだった。大葵と一緒に居られる時間を削ってまでやるべきかとも思う。比較的人付き合いが苦手な唯斗にとってこれはチャンスでもありリスクでもあるのだ。


 それに自分の代わりなんていくらでもいるだろう。別に国語が得意なのは唯斗だけではない。なんならリュイと同じ委員会の女子にSNSで小説を書いている奴や親がアナウンサーでプロの視点から物事を見ることができる奴までいる。

 唯斗が疑ったのはそこだった。

 

 ――そんなメンツが揃った委員会に居ながら、なんで俺を選んだ?


 単純に考えるのであればそれは来日以降リュイが日本人女性のテンションについていけず苦手意識を持っているからだろう。現にその二人の女子もそういう類の女子とはいえ、大した話もしたことのない自分に頼んでくるのは不自然すぎる。

 そもそも、唯斗もリュイをよく知らない。

 断ろうとした時、リュイが口を開いた。

 「ごめんね、急に。おれトモダチ、少ないんよ」

 自分の質問に一切答えずに悩みっぱなしの唯斗を見て何か察したらしい。

 夏の青い空に、春の様な薄い雲がかかっていた。


 ニ プーハ ニ ペラ― ク チョールトゥ


 リュイはたまにこのことわざを唱える。


 ニ プーハ ニ ペラ― ク チョールトゥ


 リュイの母親がよく唱えていたロシア語のおまじない。 日本の漫画にも登場するらしい、全てがうまくいく成功を祈る有名な言葉。


 リュイの母親は十九歳でリュイを産んでから一年は元気だったが、もともと病気がちだったものありしょっちゅう入院していた。そのうちリュイが預けられていた先の祖母も認知症で施設に入ることとなり、十歳の時にここ多治見の親戚に居候することになった。そうして四歳上の義兄とその両親に可愛がられ、一年もすれば訛ってはいるものの日本語もある程度通じるようになってきた。


 そんなときに芽生えたのは、誰かと仲良くなりたいという気持ち。

 今までどこにも仲間はいなかった。ここなら、トモダチとかいう奴もできるかもしれない。


 誰かに認められて、ここに居て良いと言われたい。

 ここで胸を張って生きられるくらい、自信が欲しい。


 唯斗に認められたい。この気持ちは、絶対だった。

 唯斗は思った。遠い異郷の地、ロシアに生まれたった十年で日本に連れられたリュイが初めて仲間だと思ったのが自分なら、自分の都合のために断ってはいけないと。

「わかった。やる」

 唯斗はそれだけ言って、PASのスタンドをかけた。











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