第23話 日野進次郎7
その日の帰り道。
日野はおそらく、三年間で一番遅い歩みで自宅に向かって歩いた。
頭の中が混乱しきっている。
視界がぼやけて視野が凄まじく狭まっている。
もうここまでで、何度も人にぶつかりそうになった。
色々なことが頭を巡る。
両親のこと、好きだった漫画のこと、監督のこと、初めて描いた絵のこと、自分のこれからの人生のこと……。
だけど、やっぱり何よりも。
「……アシスタント、あの先生のアシスタントに俺が……」
突如開けた本当にやりたかったことへの道。もちろん、人気漫画家のアシスタントになったからといって成功じゃない。
自分の連載をとって漫画家として活躍するという、厳しい世界が待っているのは変わらない。
でも……それでも。
こんな奇跡のようなチャンスが巡ってきたのだ。
「うん……やりたい……やりてえよ。どうしても」
日野はそう決意すると駆け出した。
息を荒げながら帰り道を走る。ここしばらくは部活をやっていた時ほど動いていなかったせいか、それとも別の理由かやたらと息があがる。
そして家の間に辿りつく。
「……よし、言う。俺は『漫画家になりたい』『プロ野球選手にはならない』」
決意と共に家の扉を開けた。
「あら? おかえりー進次郎。思ったより遅かったのねえ。ご飯できてるわよ」
ちょうど母親が居間に夕食を持っていくところだった。
その穏やかな笑顔を見ると。
「……っ」
決意が揺らぐ。
ずっと自分が野球を頑張っているところを、優しく応援してくれた母親。
今からそれを裏切ることになるのだから。
「ねえ、母さん……親父は居間?」
母親は頷くと、ちょっといたずらっ子のような笑みを浮かべる。
そして人差し指を口元に当てたまま、こっちこっちと手招きをした。
日野はなるべく音を立てないように玄関を上がる。
そして母親が指差した今の方を見ると。
「いやあ、ありがとうございますミスター。しかも巨人軍とは……これからも息子のことを見守ってやってください」
父親は大切にしている長嶋茂雄のサイン入りバットの入ったガラスケースに、日本酒をお供えして手を合わせていた。
「ふふ、お父さんたら。アナタの入団が決まってから毎日ああしてるのよ。可愛いわよね」
「……」
「それで、何かお父さんに用事?」
「あ、ええと……」
日野は居間の方を見る。
いつも顰めっ面で、練習で手を抜くと怒鳴ってきた印象しかない父親。
しかし憧れの選手のバットが入ったガラスケースの前で手をあわせるその表情は……凄く嬉しそうだった。
瞳にはうっすらと涙。
ああ、本当に……本当に嬉しかったんだな。
そう思った。
「……進次郎?」
黙ってしまった自分を心配したように母親が顔を覗き込む。
俺は……。
俺は……それでも……。
「……」
「どうしたの? どこか悪いの?」
……そして。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」
口から出てきたのは、そんないつも通りの言葉だった。
「ご飯食べる前にちょっと部屋で寝るよ」
「そう? じゃああとで温めて食べてね。プロになるんだから、しっかり食べないとね」
「……うん」
日野はそう言って、奥にある自室に向かって廊下を歩き出す。
ギシギシと足音をさせて歩きながら思う。
(……そうだよ、これでいい。これでいいんだ)
自分はこれでいい。
ほら、もう自分の部屋だ。
一度寝よう。そうすれば、きっと落ち着くはずだ。
「俺は皆んなのためにプロ野球選手に……」
気がつけば反対側に走り出していた。
自分の部屋と反対側、父親のいる居間の方に。
先ほどよりも大きく速くギシギシと木製の床を踏み鳴らして。
「進次郎?」
驚く母親を通り過ぎ、飛び込むように居間に入る
「親父!!」
一体どうしたんだと目を丸くする父親。
そして父親の前に行くと、膝をついて頭を下げて言う。
「ごめん!! 俺プロ野球選手にはならない!! ずっと言えなかったけど本当は漫画家になりたいんだ!!」
言った。言ってしまった。
「なっ!!」
細い目を見たことのないほど大きく見開く父親。
日野は影山から渡された手紙を見せる。
「尊敬する連載作家から東京にアシスタントに来ないかって言われてるんだ。俺はそっちに行きたい、漫画家になりたい!! ずっと好きで隠れて描いてたんだ!! 野球は嫌いじゃないけど、どうしようもなく漫画が好きなんだ!!」
「……」
最初親父は理解が追いついていないのか黙ってしまっていた。
「……っ」
母親は日野が絵を描いていることくらいは知っていたため、すぐに事情を察したのだろう。顔を抑えて泣き出してしまった。
「お、お……お前は何を言ってるんだ!!」
少し遅れて、父親は大声でそう叫んだ。
「何を今更言っているんだ!! そんなこと今更言って、どれだけの人がお前を応援してきたのか分かっているのか!! どれだけ迷惑をかけるか分かっているのか!! 俺や母さんがどれだけお前の野球のために時間を使って来たと思ってるんだ!!」
小さい頃から何度も聞いてきたその大声に、体がビクリと反応してしまう。
でも引けない。
だってなりたいんだ。漫画家に。
俺の『魂』がここで負けるなと言っている!!
「ごめん!! 本当にごめん!! でも俺は漫画家になりたい!! ずっと夢だったんだ。野球と違って誰かに決められたものじゃない、自分で決めた自分の夢なんだ!! 絶対に譲れない目標なんだ!! 分かってくれ親父、母さん、俺は漫画家になりたいんだ!!」
父親は、ドン!! と力一杯ちゃぶ台を叩いた。
「なら卒業までとは言わん!! 今すぐこの家を出ていけこの裏切り者が!! 嘘つきの顔なんぞ二度と見たくもない!!」
その通りだった。
本当にその通り。
親父の言うことは正しい。
こんなタイミングで……もうプロになる直前だって言うのにこんなことを言うのは裏切り者以外の何者でもない。
「わけがわからん!! ふざけるんじゃない!!」
親父はそう言うと、立ち上がって玄関まで行き乱暴に扉を開けて外に出ていってしまった。
「……ごめん。ごめん親父」
残された日野はそう言うことしかできなかった。
□□
その日はそのあと一晩、自分の部屋から出ずに過ごした。
ありがたいことにこんな時でも母親はご飯を自分の部屋に持ってきてくれた。
親父のように怒ったりはしないが、きっとショックだったろうと思う。
「ありがとうね、お母さん」
というと。
「いいのよ。ちょっとびっくりしちゃったけど……お母さんはアナタが元気でいてくれたらね」
そう言って朗らかに笑ったのである。
ありがたい。本当にありがたかった。
日野は布団を敷くと、その上に体を投げ出した。
「……あーあ、やっちまったなあ」
これからどうしようかと考える。
とりあえず家は出て行かされそうなので、誰か友人の家にでも泊めてもらうか?
先生にアシスタントの仕事、早めに始められるか聞いてみる必要があるかもしれない。
お小遣いは画材買う以外はほとんど使っていないから、多分東京に行くくらいのお金はあるはずだ。
いやでも、住むところがないか?
ああダメだ。色んなことがありすぎて頭が混乱する。
そして気がついたら……眠りに落ちていた。
翌朝。
……いや、起きたのはもう夕方だった。窓の外で日が傾き始めている。
(……体が重い)
昨日は特に運動をしたわけでもないのに、全身に鉛がついたみたいだった。
ゆっくりと、亀のように布団から体を起こす。
ちょうとその時、部屋のドアがノックされた。
この丁寧なノックは母親のものである。
「進次郎、調子はどう?」
「うん……まあ体ちょっと重いけど。普通に元気だよ」
「そう……顔洗って居間に来て。お父さんが話があるって」
それだけ言って、母親は去っていった。
「話か……」
正直今は父親と顔を合わせたくなかった。
何を言われるのかが怖い。また怒られるのが怖い。
だが無視するわけにもいかないので、顔を洗って着替えて居間に向かう。
そこには親父がいつも通り座っていた。
ちゃぶ台に肘をついて野球中継を見ていた。
「親父……」
「来たか……座れ進次郎」
「うん」
「……」
「……」
しばしの沈黙。
怖い沈黙だ。
やっぱり昨日言ったみたいに出ていけと言われるのだろうか?
それとも「考え直せ」と言われるのだろうか?
もしそうなっても絶対に譲らないぞ……。
改めてそう覚悟を決める。
「なあ、進次郎」
やがて父親は口を開いた。
「俺はお前が物心ついた時から、お前をプロ野球選手にするために時間を費やしてきた……お金もな」
「そうだね。感謝してる」
「だが……一度もお前に『プロ野球選手になりたいか?』と聞いたことはなかったな……」
父親は遠くを見つめてそう言ったのだ。
「親父……?」
「ほら、これ。お前にだ」
そう言って一つの紙袋をちゃぶ台の上に置く。
中身を見ると。
「親父これ……!!」
「会社の部下に詳しいやつがいてな、漫画を描くには今はこれが必要なんだろ?」
入っていたのは漫画用の最新モデルのタブレット一式だった。
「こんなお金どこに……」
日野は自分の家にお金がないのは知っている。
最新式のタブレット一式は一万や二万で買えるものじゃない。
そこでようやく日野は、自分が今座っている居間のある違和感に気付いた。
(……ガラスケースが無い)
ずっと長年、居間に鎮座していた長嶋茂雄のサイン入りバット。
それが無いのだ。
確かにあれなら、これを買えるくらいの値はつく……。
「親父……あんなに大事にしてたのに……」
「ケジメだ。自分の考えを子供に押し付けてしまったことに対するな」
そしてこちらに目を合わせず、窓の外を向いて言う。
「……やる以上は半端な仕事はするなよ。必ず結果を出すんだぞ」
父親の目線の先にあるものが日野の目に入った。
庭に取り付けられたボロボロのネット。
日野が家でも練習ができるようにと、仕事の合間に父親が作ったものだった。
あのネットに向かって小さい頃からずっと、父親と二人三脚で練習してきたのだ。小学校も、中学校でも、雨の日も風の日も、ずっと一緒に練習をしてくれた。
遠征やクラブの会費、野球道具、それなりにお金はかかる。あまり裕福ではない中で、家のガラスなんかガムテープで補強しているところだってあるのに、自分のためにお金を使ってくれた。
その愛情は、もしかしたら方向は間違っていたのかもしれない。
でも確かに本物の愛情だったから……。
日野の瞳から栓を抜いたかのように涙が溢れ出す。
「……ありがとう……ありがとう、お父さん」
拭っても拭っても、止まらなかった。
次々に溢れ出てくる熱い涙。
「俺、頑張るよ……必死で描いて、絶対漫画家として成功してみせる……見ててくれよ親父、アンタの息子は世界一の漫画家になってみせるから……」
涙混じりの掠れた声で。
でも、力強く真っ直ぐな想いを込めて……日野はそう誓ったのだった。
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