第22話 日野進次郎6
『第七巡選択希望選手、読売ジャイアンツ……日野進次郎、投手、桐英第一高校』
テレビでその名前が読み上げられた時。
日野進次郎はなんとも言えない感覚だった。
嬉しくない……ということはない。
ただ「ああ、決まったんだな……」という感覚だった。
これまでの人の期待に答えて生きてきた人生。
それがこの先も……より厳しい過酷な世界で続いていくのだと。
(でも……それでも……周りの皆んなは喜んでくれたから)
親父も母親も兄も妹も、監督も、先生も、友達も、皆んな自分がプロ野球選手になったことを喜んでいた。
だから……いい。
それでいいのだと……日野進次郎は思うのだ。
□□
すっかり肌寒くなった。
高校三年目の冬。
日野進次郎は職員室にいた。
「……まあそういうことで、球団の人は来週の頭に来るそうだ」
「そうですか」
「いやあ、でも、教師やっててプロ野球の球団の人とこんな風に話す経験をするとはちょっと思わなかったぞ」
「まあ、そうですよね……」
日野は教師の話に相槌をうってはにかんだ。
今話しているのは、ドラフト指名後の学校への球団挨拶である。
ドラフト指名後に球団は選手の所属する学校に挨拶に行き、「おたくの生徒を指名させていただきました」と世間話をしながら、選手や球団側の意向などを伝え合う顔合わせのようなものである。
その後、仮契約から本契約を経て正式な入団となるわけだ。
「じゃあまあ、残りの学校生活も体には気をつけてな。お前くらいのスポーツマンにただの教師の俺がいうのも釈迦に説法だと思うが……」
「いえ、そこは本当に大事ですから。何度気を引き締めても足りないくらいですよ……では、失礼します」
一礼して日野は職員室から出た。
ーーあ、あれ日野先輩だ。
ーーやっぱり肩幅広いねー。
背後から廊下を通りかかった女子がヒソヒソと話す声が聞こえた。
「……なんかすっかり学校の全員に名前知られたな」
結局三年間甲子園には行けなかったので、少し前まではさすがにここまでではなかったのだが……いつの間にか学校のどこにいても視線を感じるようになった。
「さてと……今日はオフか」
甲子園も終わり、入団が決まってからは多少オフの日も増えた。それまではオフの日でもぼーっとしていると「練習しろ」とガミガミ言ってきた父親も言わなくなった。
さすがに本当にプロ野球選手になって見せた息子にはもう教えることはないと考えているのだろう。
もちろんプロ野球選手になるのだから練習をした方がいいのだが、今までほっといても野球をやらざるを得なかった日野はどうにもこの最後のモラトリアムの時間に徹底して練習しようとは思えなかった。
まあどうせ、入団したらこれまで以上に野球漬けの日々だ。
今くらいはのんびりしてもいいじゃないだろうか?
そんな風に思うのだ。
「休日の校舎か……そういえばゆっくり校舎を見たことなかったかも」
いつも部活で忙しくしていたのだ。
三年間過ごしたのにまだ入ったことのない教室とかもある。
「せっかくだし、回ってみるか……」
そう呟いて校舎の中をゆっくりと歩いていく。
途中すれ違った生徒がこちらを見るので手を振りつつ、まだ行ったことのない場所に足を運んでいく。
選択で選ばなかった音楽で使う音楽室、特別進学クラスが過ごす別校舎、そして……なんと言っても、危険なので立ち入り禁止と言われていた屋上。
どうせもうすぐ卒業だ、行ってしまえと扉を開けて外に出る。
夕暮れ前の涼しい風が日野の体を爽やかに通り抜けていく。
「……ふう。結構いい眺めだなここ。あおりのワンカットとかに使うとカッコいいだろうな」
そんな漫画家みたいなことを言いつつ、教師に見つかると面倒なのでそこそこにして切り上げて校舎の中に戻る。
(……これで全部見たか)
まあ、なんというか……普通の学校だったな。
そう思った。
「ああ、普通といえば……あそこは逆に普通じゃない体験をしたな」
初めて人に自分の絵を見せた……あの場所。
部活で色々な思い出を作ったが、一番日野の心に残っているのはあの出来事だった。
「行ってみるか」
そう思って階段を降りる。
そして、思い出深い人気のない四階空き教室に向かう。
「……あれ? まさか」
ドアのガラスから見える教室の中、そこに……あの男がいた。
「……」
日野は一つ息を呑んでガラガラとドアを開けた。
そして、使っているものがノートとノートパソコンの差はあれど、何度か別のクラスの教室で見かけていたその執筆に没頭するその背中を軽く叩いて言う。
「影山」
「ん?」
ようやく気付いたのか影山はピタリと手を止めて振り返る。
「あ、日野くんじゃないか」
一年生の時と変わらない、一見では目立たなそうな見た目のその男は嬉しそうに表情を綻ばせてそう言った。
「よう、元気だったか?」
「うん、日野くんも。聞いたよ、ドラフト選ばれたんだよね?」
「ああ、でも影山。俺にとっちゃお前の方が凄いよ」
世間がどういう評価を下すか知らないが、漫画家になろうとして結局その道に進まなかった日野にとっては影山の方が間違いなく凄かった。
「新人賞三作品連続受賞。初の快挙なんだろ?」
そう、影山はなったのだ。自分で決めて自分で宣言した通り……ライトノベル作家に。
本当に凄いことだと思う。
「そうだね。それだけ僕の作品を認めてくれたと思うと嬉しいよ」
そう言って誇らしげに笑う影山。
その顔を見て日野は思う。
(……ああ、曇りないな)
と。
どこまでも澄み渡る青空のように。
一切の負い目なく……ただただ自分が誇らしいと。
(これが影山の言う……『自分の期待に答えて生きた人間』が、夢を叶えた時の表情なんだろうな……)
結局、自分以外の誰かの期待に答える生き方を選んだ自分にはこの先一生できない。
ドラフトで名前を呼ばれたあの日にもできなかった、そんな崇高で美しくて神聖な喜びに満ち溢れた笑顔だった。
なんなら俺みたいなダサくて臆病なやつが、こんな表情をする人間と話していいのかと思ってしまう。
まあ、とはいえ黙っているのも変なので話はするのだが。
「最初の作品はいつ発売なんだ?」
「予定は来年の四月一日だね。エープリルフールの嘘じゃないよ」
「そんな嘘は影山はつかないだろ。そうかあ……四月かあ」
その時は自分は球団の寮で暮らしていることだろう。
「……なあ、影山」
「なんだい?」
「発売したら絶対買わせてもらうけどさ、その作品のデータ、今あったら読ませてもらうことってできるか?」
これから小説を商品にして生活しようという人間にそんな不躾な要求をした。
なんとなく、どうしても。
今、球団の寮に入ってプロ野球選手になる前に、影山の受賞作を……自分の夢を叶えた作品を読んでおきたいと……そう思ったのである。
影山は。
「……うん、いいよ。そうだね、それがいい」
何やら自分の中で何かを納得させると、バッグの中から紙の束を取り出した。
「これ、最初の受賞作。もう何回か色んな人に見てもらってるからボロボロだけど、文字は読めるから」
「ああ、ありがとう。ここで読ませてもらっていいか?」
「うん。僕はこのまま小説書いてるから、今日はいつも使ってるファミレスが改装中なんだ」
そう言ってすぐに画面に向き直りキーボードを打ち始める影山。
「……」
日野はタイトルの書かれた表紙を捲り、作品を読み始めた。
「……ああ、うん」
作品を読み始めてすぐに、日野は感嘆の声を漏らした。
(面白い……文句なく……ちゃんとライトノベルだ。しかも、ちゃんとあの日の影山の情熱のままだ)
技術がついて書き慣れて、熱量が抑え気味になるのではなく、初めての作品の時と同じ新鮮な熱さを。
いやむしろそれ以上に温度を上げた熱い思いが、一文一文にのっていた。
大きな夢を目指す主人公。同じ夢を追いかけると決めたヒロイン。
そんな二人に立ちはだかる艱難辛苦、数々の強敵とピンチ。
でも主人公は諦めない。ヒロインも諦めない。
勇気と熱意と覚悟をもって……最後は強敵を打ちまかし、夢に向かっての大きな一歩を踏み出す。
そんなベタで王道なストーリーラインに、気がつけば日野は夢中になっていた。
夢中になって泣きながらページを捲っていた。
「……ああ、熱い、熱いなあ」
これが真っ直ぐに夢に突き進んだ男の物語。
これが自分を信じ夢を叶えた男の物語。
眩しい。
あまりにも眩しく、そして心に突き刺さる輝きだった。
ふと見ると、影山は作業を中断してこっちを見ていた。
珍しいこともあるものだ、と思った。
がまあ、自分の作品を泣きながら読んでいる人間がいればさすがに見たくもなるか。
「本当に……さ、叶えたんだな夢」
「うん、そうだよ。僕は夢を叶えた」
「すげえよ……本当にすげえよ……」
日野は涙を流しながら物語を最後まで読み切ったのだった。
□□
「ふーっ」
日野は紙束をおいて一息ついた。
「泣きすぎて疲れちゃったよ」
「ふふ、それは嬉しい感想だね」
影山は顔を綻ばせると。
「やっぱり、いいものだね。人に作品を読んでもらって、面白いって言ってもらうのは」
しみじみとそう言った。
「そうだな……お前にここで俺の絵見せてさ……褒めてもらった時嬉しかったもん。ああうん」
影山の作品を読んで感化されたのか。
日野は自分の心で思ったことを素直に言った。
「たぶん、あの時が人生で一番嬉しかった気がする」
そう……。
今となってはもう意味のないことなのかもしれないが……確かにあの時、この教室での出来事は素晴らしい思い出だった。
「あの想い出があればさ……俺もプロ野球で頑張れる気がするよ……ありがとうな、影山」
心からの感謝を込めて、日野は影山に頭を下げた。
「……」
それに対し影山は。
「……」
「……影山?」
黙って、じっとこちらの方を見ていた。
「どうしたんだ?」
影山はスッと立ち上がる。
そして先ほど作品を取り出したバッグに手を入れた。
「日野くん」
そして中から一通の手紙を取り出すと、日野の前に立つと真っ直ぐこちらを見る。
久しぶりに日野の熱量を持った瞳に見つめられて背筋が伸びる。
「日野進次郎くん」
「お、おう」
「今読んでもらった作品はさ、主人公とヒロインが『自分の夢』を追う話なんだ。自分が囚われていたしがらみから解放されて、自由に夢を追いかける話なんだ」
「そうだったな」
「それに感動して涙を流した君に……これを渡すよ」
そう言って影山は手紙をこちらに渡してくる。
(なんの手紙だ……っ!?)
差出人を見た瞬間、日野は目を見開いた。
宛名は『日野進次郎』つまり自分宛、そして差出人はなんと日野の尊敬する超人気漫画家……今まで一番作品を模写した相手だった。
日野は何かに突き動かされるように中身を確認する。
『拝啓、日野進次郎くん。返事をするのはこれが初めてですね。こういう返事はしているとキリがないので原則しないことにしているのですが、この二年間アナタの絵を見させてもらいました。凄くいい絵だと思います、私は好きです。そして毎回のように漫画に対する熱い情熱を込めた手紙を添えてくれましたね』
「なんだよこれ……知らないぞ……」
「実さ……日野くんの家が紙類のゴミを出すゴミ捨て場さ……僕の通学路の傍なんだ」
影山はイタズラの成功した子供のように笑って言う。
「日野くんさ、絵を描いてるの隠してるみたいだから仕舞いきれなくなると捨ててるでしょ? だからゴミ捨て場をいつも確認していい絵があったら、その漫画家さんに送ってたんだ。手紙と一緒に。手紙の内容の方は日野くんをイメージして僕が描いたんだけどね」
(……そんなことやってたのかよ)
確かに宛名は日野宛になっているが、住所は別のところになっていた。たぶん影山の住所なのだろう。
日野は驚きすぎてすでに何が何だか分からなくっているが、手紙の続きを読んだ時そんなレベルではないほどの混乱することになる。
『そこで提案なのですが、卒業したら私のアシスタントとして働きませんか?』
「……!!」
『ちょうど新しく人を雇おうと思っていたところで、日野くんの画力ならトレーニングはいるかもしれませんがやれないことはないと思います。それにアシスタントたちも僕も歳をとってきたのでそろそろ若いフレッシュな人材を……いや、そんなのは後からの理由づけですね。私はアナタの絵を見て、そこから感じる漫画への情熱を見て「こんな人と仕事をしたい」と思ったんです』
そして最後に、仕事場の住所と連絡先が記されていた。
「……」
日野はその場に固まってしまう。理解が全く追いつかない。
待て。
待ってくれ。
なんだこの状況は?
俺は今何を読んだんだ?
「日野くん」
そう言われて顔を上げると影山がこちらを見ていた。
そして真っ直ぐな確信の籠った瞳で。
「もう一度言う。『君は漫画家になるべきだ』」
力強く、あの日と同じようにそう言うのだ。
「……いや、そんな、困るよ。だって俺、もうドラフトかかってるんだぞ? どれだけの人に迷惑かけて裏切ることになるんだよ」
「それでも『君は漫画家になるべきだ』」
影山は繰り返す。
「だって君は、今日までずっと部屋に隠しておけなくなるくらい絵を描き続けていたじゃないか。野球で忙しくて疲れているはずなのに……諦めたと自分で思っていたはずなのに」
「……」
そう、影山の言う通りだった。
「ああ……そうだった。諦めたのに、もう別の道で行くと決めたのに、気がついたら絵を描いてた。明日試合で早く寝なきゃいけないのに、夜更かしして仕上げた絵を見て充実した気分になってた……なあ、聞いてくれよ影山」
日野は誰にも言っていなかった、いや、日野を野球の人として見ている人たちには言えるはずのない思いを曝け出す。
「最後の夏の甲子園のマウンド、一点差九回裏ツーアウト満塁、ここで抑えれば勝ち撃たれたら負け。俺さ、その時何考えてたと思う?」
グッと血が滲むほどに拳を握る。
「『家にある描きかけの絵』のこと考えてたんだよ……結局逆転の長打喰らってサヨナラ負け、甲子園にいけずに三年間終わったんだ……皆んな泣いてた、悔しさで。でも俺は全然泣けなかった。なんなら『次はもう試合ないんだ、あの描きかけの絵を書き進められるな』って安心してたんだ……なんだよこれ、振り切ったはずなのに……諦めたはずなのに……」
どうしても振り切れないのだ。
どうしても漫画のことを考えてしまうのだ。
なんだ俺は、なんてどうしようもない人間なんだ……。
「なら……どうするべきかは君の魂が知っているはずだ」
影山はそう言って肩を叩くと、そのままパソコンと作品の紙束をバッグにしまって教室を出ていく。
最後に振り返って一言。
「『人は他人の期待に応える人生ではなく、自分自身の期待に応える人生を生きるべきだ』……自分を愛してあげてよ日野進次郎くん」
そう言ったのだった。
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