第17話 川村鮫子
(アタシはダサい奴が心底嫌いだ……)
川村鮫子はそんな風に思っている。
だから自分の名前は嫌いだった。
なんだよ鮫子って、女の子にこんなだせえ名前つけるなよ。
小さい頃に蒸発した父親が当時、鮫映画にハマっていたからつけたらしい。
そんな理由でつけるな、と思うし、母親も止めろよと心底思う。
でも、自分の『ダサい』ところはそれだけじゃなかった。
最初に自分がいわゆる『馬鹿』だと気づいたのは小学校の計算テストの時だったと思う。
「川村さん、あんまり落ち込まないでね。勉強だけが人の魅力じゃないから」
百点中三十点。
周りの他の子は百点を取っている子も沢山いたし、ほとんどの子は七十点以上だった。
そして学年が進んで内容が簡単ではなくなってくると、授業を聞いても分からないところが増えていく。
次は体育の授業中。
跳び箱を飛ぼうとした時、自分だけ最初の高さを飛ぶことができなかった。
「えー、河原そんなのも飛べねえのー?」
「運動音痴のうんちだー。やーい、うんちー」
男子にそう言われながら何度再挑戦しても足と手がチグハグに動いてしまい飛び越すことができない。他の種目も軒並み下手クソなのだ。
……自分は頭が悪くて運動神経も悪い。
いわゆる『低スペック』というやつだったのだと今ならそう表現する。
しかも家は貧乏でいつも同じ服を着ていた。
そんな人間は小学生からすれば、いじめの絶好のターゲットである。
学校で何か失敗すれば大勢で揶揄われ、話しかけても無視され、モノを隠されたりもした。
そんないじめは小学校の面子がそのまま同じ学校に入った中学でも続いたのだ。
何よりそんな状況をどうにもできない自分が嫌だった。
そんな自分を心底『ダサい』と思った。
(……だから、アタシは高校で自分を守る術を考えた)
学校は同じ中学の人間が行かない少し遠いところを受けた。
さらに髪を脱色し、肌を黒く焼き、派手なネイルと化粧をし、制服も丈の短いものに改造した。そして気の強そうな攻撃的な口調で話すようにする。
そうすることでスクールカーストでは高い集団に潜り込んだ。
いわゆる高校デビューというやつである。
それによって不良のレッテルを貼られた代わりに、川村は周囲の人間から恐れられバカにされることは少なくなくなったのである。
……あの日までは。
『違う。このヒロインは可愛いんだ。君がなんと言って貶そうとこのヒロインが可愛いことは絶対だ』
影山とか言う、スクールカースト底辺の陰キャに言い負かされ。
『鮫子、ちょっとダサいよ』
カーストトップの森アリサにそう嗜められた。
そのやりとりは学校全体で半ば伝説のようになってしまい、どこか周囲の人間は自分のことを恐れなくなった。
むしろ『影山に言い負かされた人間』として笑われるようになってしまったのである。
(クソ……ありえない。マジ最悪)
川村はあの日以降、影山と言う名前を聞くたびにそんな気分になる高校生活を過ごしていた。
□□
「なあ、聞いてるのかあ、川村」
場所は廊下。
川村の前に立っているのは担任教師である。
「前回のテストまででほとんどの教科で赤点とってるだろ……一年の時は補修や課題でなんとか誤魔化したが……お前、このままだと今年は本当に進級できなくなるぞ?」
「……うるさいな」
川村は顔を向けつつそう呟いた。
「お前が勉強苦手なのは分かるけど、困るんだよなあ。留年者とか出すと主任から色々と言われるしさあ」
担任教師は頭を書きながらそう言う。
あまり教育に熱心でないタイプの教師で、基本は川村のような不良っぽい生徒も放っておいてくれるのだが、この件に関してはそうはいかないようである。
(……うっせえな。授業分かんねえんだから仕方ねえだろ)
川村は内心でそう呟きつつ、教師の話を聞き流していた。
その時。
ーーまた川村さん怒られてるぜ。
ーーこの前、数学で0点とってたぜ。俺マジの0点、高校入ってから初めて見たわ。
廊下を通りかかった男子のそんな声が聞こえてきた。
「……っ!!」
ギロリとマスカラのついた目で睨みつける。
……しかし。
ーーやべ、聞かれてたかな?
ーーまあ、いいでしょ。事実だし。
男子たちは特にビビることもなく、その場を歩いて去って行った。
(……チッ、前はこんなんじゃなかったのに)
さっきの二人は、スクールカーストの上位にはひっくり返ってもならないであろう地味な男子の二人組だ。
今までだったら川村が睨めば、恐れ慄いていたし、そもそもコソコソとこちらの頭の悪さをバカにするような発言もしなかっただろう。
……あの日までは。
『影山に言い負かされた人間』として見られるようになってしまってからだ。
すでに学年が上がって二年生。
影山とは違うクラスになったのだが、その呪いは健在だった。
「マジで最悪……」
川村はそう呟いたのだった。
□□
しかしながら実際に留年がリアルな話となってくると、川村としてもなんとかせざるを得ない。
正直勉強は嫌いだし苦手だが、なんとか次のテストである程度は挽回しなくては。
そう思って授業を聞くのだが……。
「……あーだめ、全然分かんねえわ」
当たり前だがほとんどの教科は、前までにやったことを前提に次の単元をやるのである。特に数学なんかは一度ついていけなくなるとかなりキツイ。
(……これダメだ。聞くだけ無駄。念仏にしか聞こえない)
そんなこと思っていたら。
ブー、とスマホに着信が入る。
今のクラスで主につるんでいる人間たちで作ったグループラインである。
川村はすぐにスクリーンセイバーを解除してメッセージを見る。
『緊急速報、田島とヒロミ別れる』
ふんだんに絵文字のあしらわれた、そんなメッセージだった。
『マジ? めっちゃいい感じだったじゃん?』
すぐに返事を返す川村。
今は授業に集中するべきだと教師は言うかもしれないが、川村としてはこちらの方が優先順位は高い。
グループ内でノリのいいやつだと思われておくのは大事だ。
(ダサいことやってんな……アタシ……)
他人に媚びてしがみついて。
でも自分のように、勉強も運動も得意ではない人間はコミュニケーションでしがみつかなくては、トップグループにいる権利を得られない。
その後、この話題は他のメンバーも入ってきてしまい、数学の授業中ずっと隠れてメッセージのやりとりをすることになってしまった。
□□
「あー、マジでどうしよ……」
結局、数学の授業中に何一つ理解することができなかった。
メッセージをしながらとはいえ理解できるように耳を傾けてみたのだが……。
こうして授業が終わった後、教科書を読み返しても全く理解できない。
(……つか一年の頃から意味分かんなかったつーの。二年になって余計に難しくなったのにわかるけねーじゃん)
そんなことを考えていると。
「あれ? 川村お勉強中? 珍しいねー」
そう言って同じグループの女子が話しかけてきた。
「川村が勉強してんの? おいおい今日は屋内練習に変更かな?」
そう言って男子の一人が外を眺めると、笑いが起こる。
二年になった川村が所属しているのは、このスポーツ推薦でサッカー部のエースの男子、田島をトップに置いたグループだった。
森アリサの時は熱心に勉強をする人間も何人かグループにいたが、こちらのグループはよりノリ重視というか、あまり真剣に勉強する人間は少なかった。
「いや、別に勉強してたわけじゃねえし。ボーとして、気づいたら授業終わってただけだし」
川村は急いで教科書を閉じる。
「なんだそりゃ、お前らしいな。じゃあ早く飯食おうぜ。朝練あったから俺腹減っちまったよ」
□□
そうしてグループのメンツでの昼食が始まる。
皆は親が作ったであろう色とりどりのお弁当。
川村は六個入りの菓子パンと牛乳である。
(かっこ悪い……)
たぶん、こうして昼ごはんを一緒に広げる度に、「ああ、川村の家は貧乏なんだろうな」と思われているんだろうなと思う。
「そうそう、それでさっきのメッセージの話だけどさ〜」
「それマジ!! やばくね!?」
話の中心となるのはサッカー部のエース田島と、その彼女……こちらは女子バスケ部のキャプテンだった。
彼や彼女の話に対して、周りはリアクションをとる。
そんなノリである。
「ほんとそれなー」
川村もそのノリを乱さないように、とにかく相槌をうつ。
最初のうちは自分で何か面白いことを言おうとしたが、話がまとまらずオチも上手くつけれず空気を悪くしたので、もうそちらは諦めた。
次々に話題を変えて話を回していく二人。
しかもちゃんと面白い。
スポーツ推薦の二人はもちろんそれほど勉強の成績がいいわけではないのだが、地頭の良さみたいなものは感じざるをえない。
そもそも二人とも授業中に部活で疲れて居眠りをしていても、自分と違って赤点を取っていないのである。
(……いいな、私なんかとは出来が違う)
正直、そう思わざるをえなかった。
「……ああそういえばだけどさ。さっきすれ違ってさ例のやつ」
田島が言う。
「あの小説家目指してるって噂の……そう『影様』!!」
その言葉にビクリと川村の体が無意識に反応した。
しかし、田嶋は気づかずに言う。
「初めて間近で見たけどほんと目立たねえ陰キャって感じなのな。あれがクラス全員の前で啖呵切ったって考えると面白えわ」
「……ねえ、ジュン。その話題は」
「ん?」
彼女に耳打ちされ、ようやくこちらの方に気づく。
(影山……くそ、あいつ!!)
今の自分はもの凄く露骨に嫌な顔をしていることだろう。
せっかく楽しく会話をしていたのに、そんなことをすれば空気が悪くなることは分かっている。
だけど、どうしようもなく思い出してしまう。
周囲の影山を凄いと持ち上げる視線と、それに言い負かされた自分を見る哀れみの視線。そしてそこから感じるようになった、周囲からの嘲笑と嘲。
どれこもこれもイラついてしょうがない。
「あー、川村この話題嫌な感じ? すまん」
申し訳なさそうにそう言ってくる田嶋。
「いや、うん。まあそうだけど……」
そうじゃない。
あいつの話題が嫌なのはもちろんそうなのだけど、ここは笑って空気を戻さなくちゃ!!
グループになんとかしがみついてるだけの自分が、中心の田嶋が謝ってるのにそんな態度取ったら「こいつ何様?」って思われてしまう。
「あー、でまあ、そのまま美術室に忘れた道具取りにいったんだけど、その時に氷川のカツラがズレててさー」
しかし、川村がグルグルと考えているうちに話題は変わってしまっていた。
□□
(あーもう、またやらかした!!)
放課後。
川村は一人帰り道を歩きながら頭を掻きむしる。
また影山の話題になった時に露骨に不機嫌な態度を取ってしまった。
去年、森アリサのグループにいた時も、同じようなことを何度もやってしまい、最終的には腫れ物扱いというか「絡みにくいやつ」みたいな雰囲気になっていたのだ。
(……今度、なんかで印象を良くしなないと)
でも、どうすればいいのだろう?
自分には人を楽しませられる会話の上手さもないし、何か奢るお金もないし、勉強教えたりとかもできないし……。
「ああそうだ、勉強。勉強もやんなきゃ」
留年はさすがに困る。
影山に言い負けたどころの騒ぎじゃなく見下されるしバカにされるし揶揄われるだろう。
それは嫌だ。
川村は自宅に着く。
古びたアパートの二階が彼女と母親の二人で住む家だった。
玄関を開けると、まだ母親は帰ってきていないのか一人。
それに少しホッとしつつ、靴を脱いで家に上がると、そのまま自室に向った。
他のことをしだすと勉強をする気が無くなりそうなので、すぐにバッグから教科書を取り出して勉強を始める。
……しかし。
「あーだめ。やっぱり何書いてあるか分からない」
今度は教科書を最初から読み直したのだが、全然理解できなかった。
そもそも分からなかったから授業についていけなくなったのである。ちょっとやる気を起こして読み直したからといって、急に分かるようになっているなんて都合のいいことなんか起きたりはしない。
「はあ……」
川村は机に突っ伏した。
やっぱり自分には勉強は無理だ。元々向いてない。
何かのネットニュースで見たが、勉強できるかどうかは遺伝の影響が大きいらしい。
ならもう答えは出ているじゃないか。
向いてないのだ。明らかに。
じゃあ何なら向いているのかと言えば……特に他のものが得意というわけではなかった。
頭も良くないし、運動も苦手だし、音楽や美術もダメ……そもそも、頭が悪くて不器用というのは何をするにも向いてないということになるんじゃないだろうか?
「……」
川村は自分の姿を部屋にある鏡で見る。
それらしい、イケてる女子高生らしい見た目。それっぽい振る舞い。
そんな中でなんとか見つけた自分を守る武装だ。失えば元のいじめられていた自分に『ダサい』自分に戻ってしまう。
(……だから。今日のあれはほんとダメだった……ちゃんとリア中の陽キャっぽくしなきゃ)
思い出してまた憂鬱な気分になる。
そんなことを考えていると。
「ただいまー」
玄関が空いて母親が帰ってきた。
そのままスタスタと足音をさせて部屋まで入ってくる。
「あら、鮫子。お勉強してるのねえ」
自分を老けさせて、疲れた表情にしたような見た目の母親。
自分の将来の姿がこんな見窄らしいものになるのか思わされて、川村は母親が嫌いだった。
「……そうだよ」
「大丈夫? アナタ一人で勉強して理解できるの? 難しかったら家庭教師の先生を頼んで……」
「うるさいな……そんなお金ないくせに……」
母親の無駄に自分を心配する態度に怒りを覚える。
「てか、旦那に出て行かれたアンタなんかに心配されたくない。自分の心配でもしてれば?」
「お父さんは……そのうち帰ってくるから」
そう言って力なく笑う母親。
そんなわけない。父親は十年以上前に浮気がバレた次の日に家を出ていって、それ以来帰っていないのだ。
そんなことは母親も分かっているはずなのに……。
ありもしない希望にすがる情けない姿を見ていると、むしゃくしゃしてくる。
ダサい。かっこ悪すぎる。
浮気がバレたからってさっさと尻尾巻いて逃げた父親もそうだ。
きっとこんなダサい奴らの遺伝子を継いでるから、私はこんな低スペックなんだろう。
そう思うと無性に腹が立ってきた。
「もういいよ!! 邪魔だから出ていって!!」
カッとなってそう叫んだ。
「うん……じゃあ、無理はしなくていいからね……」
娘に急に怒鳴られて本当に申し訳なさそうに母親は部屋を出ていった。
「少しくらいはなんか言い返そうとしなさいよ!! 親のくせに!! アタシは絶対アンタみたいなヘタレにはならない!!」
夫に逃げられ、寂れたスナックの従業員として安い給料で働いて、日に日に老けてやつれていくだけの人生。そんなのは死んでも嫌だ!!
そう怒りに任せて決意し、川村は教科書に向かい合う。
しかし……。
「あーもう!! 分かんない!! 分かんない!! 分かんない!!」
やっぱり理解できなかった。
当然である。
先ほどと同じことが教科書には書いてあるのだ。怒っているからといって急に分かるようにはならない。
(……やばい。これ、マジで留年? つーか高校卒業できない? てか、グループの皆んなへのリカバリーの方法も考えなきゃ、あーどうしよ思いつかない)
「ああああああもう!!」
思考の許容量を超えてしまい頭を掻きむしる川村。
そのまま机につっぷす。
「……全部影山のせいだ」
そんな言葉が口から出てくる。
アイツに言い負かされてから、高校生活がおかしくなった。
うんそうだ、全部アイツが悪い。
そんな結論に辿り着いた。
「影山のせい……全部アイツのせい……何が夢はライトノベル作家だ馬鹿、失敗しろ……」
影山のあの地味な外見を思い出しながらそんなことを呟いていたからだろうか?
「……ん? あれって?」
ふと、部屋の窓の向こうであるものが目に入ってきた。
川村の部屋は道に面しており、向かい側にはファミレスがある。
そのファミレスの窓側の席に……見覚えのある奴がいたのだ。
「……あいつだ!!」
川村は視力はいい方ではないが度の入ったカラコンをしているため、その姿を見ることができた。
地味すぎて逆に分かりやすい。自分と同じ学校の制服を着ただっさい見た目の男子……影山だった。
川村は立ち上がると部屋を出る。
あの陰キャに文句の一つでも言ってやらなくてはいられない気分だった。
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