第6話 日野進次郎5

 終業のチャイムが鳴った。

 皆が授業を終えた開放感にテンションを上げながら次々に帰宅する中、日野は自分の席に残っていた。

 いつもなら練習に遅れないように真っ先に教室を出る立場なのだが、今週はそれがない。

「放課後の時間が開くって、不思議な気分だな……」

 そんなことを呟きつつ、日野は自分の机の中から影山のノートを取り出した。

「……よし」

 姿勢を直して、椅子に深く腰掛けて、一度気合いを入れてからノートを開く。

 影山が書いているのはエンタメ小説、ライトノベルなのだからそんなに気負わずに読めばいいとわかっているのだが、あの影山が書いたと考えるとなんとなく気合が入ってしまった。

 そして、設定やあらすじが書かれたページを飛ばして早速本文の一行目から読み始める。

「……うんまあ、こりゃ確かに読みにくいな」

 設定もテーマもブレたり途中で変わったりしている。ちょっと読んだだけで設定の破綻や、無理のある話の流れが出てくる。キャラも一貫していなかったり、メインキャラっぽく登場したキャラが、特に脈絡なくいつの間にかいなくなっていたりする。

 なんなら主人公がいつの間にか途中で変わったりもする。

 山田と違い、沢山の漫画を通して物語というものの基本を理解している日野には、この小説を表す明快で同時に単純すぎる言葉があった。

「芸術的に下手くそだ……これ……」

 だが同時に、山田が言っていた何かある気がするというのも分かる。

 下手クソなのは間違いないのだが、なんとも言えぬ勢いを感じるのである。 

 これが僕の作品だ!! これが僕の考える面白さだ!!

 そんな影山の熱量が、あまりにも拙い言葉の並びから伝わってくる気がするのだ。

「読むか……続き」

 放課後の時間はたっぷりある。

 そして、読みにくい文章をなんとか読み進めていき……。

 半分まで読んだ。

「めちゃくちゃだなやっぱり、主人公は嫌いじゃないけど……いや、主人公は最初に視点人物だったやつか?」

 四分の三まで読んだ。

「……ようやく物語が動き出したな。さすがに遅いって」

 そして物語最終盤。

「……」

 日野は一言も喋らず、物語に没頭していた。

 そして読み終わってノートを閉じると。

「ああ……」

 その目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「あら? 君ー、そろそろ終了時刻よー」

 教室を通りかかった中年の女の先生にそう言われて、ハッとして涙を拭った。

「あ、はい。すいません。もう帰ります」

 日野がそう言うと、女教師は「気をつけてねー」と言ってその場を去っていった。

「……」

 日野は改めて影山のノートをじっと見つめる。

「山田の言ってたこと分かったよ……確かにこの小説は最後まで下手だ。読みにくいし、設定もテーマもブレるし、色々と破綻してる」

 ……だが。

「でも……『熱い』」

 そう、熱いのだ。

 出てくるキャラたちが一生懸命で、必死で、最後は気がついたら応援していた。

 その生き様に、全力感に、心を動かされて最後は泣いてしまった。

 まるでそれは影山進という人間の魂の熱量が、文章から伝わってくるような。

 そんな「凄い作品」だった。



「……あれ? 日野くん?」



 その時。

 不意に教室の入り口からまた声が聞こえてきた。

 はっ、と顔を上げると。

「それ、僕のノートだよね?」

 そこにいたのは影山だった。

 今日も平均よりも少し低い背丈に、目にかかった前髪、一見では特に目立つところのない集団にいれば埋没してしまいそうな見た目である。

「あ、ああ……落ちてたのを拾ってな。読ませてもらってたんだ。すまん、嫌だったら謝る」

 影山は予想通り首を横に振った。

「そんなことはないさ。僕は自分の作品を世界中の人に読んでもらいたいんだ。むしろ読んでくれてありがとう」

(さらっと言うなあ。世界中の人に読んでもらいたい……なんて)

 本当に凄い男だ。

「そういえば、影山ってなんでノートに小説書いてるんだ? 普通パソコンとかスマホで書くだろ」

「ああ、授業中に書いても怒られないから。家では読書と書いた分をパソコンで打ち込んでるんだよ」

「ああ、なるほど」

 授業中に読んでいても怒られなくて便利、と山田も言っていたが、それは書く側としても同じことというわけか。

「それで、どうだった?」

 感想を聞かれた日野は素直に答える。

「正直、ライトノベルとしてはどんなだろうと思ったけど『凄かった』よ。熱いな影山の書く小説は」

 日野はノートを影山の方に返しながらそう言った。

「ありがとう、君にそう言ってもらえるなら最高の賞賛だよ」

 ノートを受け取り、嬉しそうにそう言った影山。

「……」

「……どうした?」

 影山は受け取ったノートと、こちらの方を交互に見て何やら考えているようだった。

「あのさ、代わりにって言ったらなんだけど、この前見せてもらったスケッチブック、今持ってたら見せてもらっていいかい?」

「え? ああ、まあ」

 日野は数日前に影山に見せるために持ってきて以来、バッグの中に入れたままだったスケッチブックを影山に渡した。

 影山はそれを前回と同じように一枚一枚じっくりと見てページを捲る。

「……うん、やっぱりそうだ」

 影山は何かを納得したようにそう言うと、こちらの方を見てきた。

「ねえ、日野くん」

 髪の隙間から覗く、真っ直ぐで真剣な瞳。

 誤魔化しを許さないその熱い瞳が、こちらを見つめてくる。

 そして。



「君はやっぱり、漫画家になるべきだと思う」



 そんなことを言ってきたのだ。

 ドキリ、と心臓が脈打った。

「いやいや、この前言っただろ、俺は漫画家を目指す気はないって」

「嘘だよ。それは絶対嘘だ」

 影山は間髪入れずにそう断言してくる。

 少しイラっとした。

「なんでそんなこと分かるんだよ!!」

「この絵が『俺は漫画家になりたい』と言っている!!」

 影山はスケッチブックを開いて、絵をこちらに見せてくる。

 その絵は、日野が初めて自分の絵に自信が持てた、一瞬「俺、ひょっとしてプロになれるんじゃないか?」と思った記憶のある思い出深い一枚だった。

「聞いてくれ日野くん。君の気持ちを全て分かったつもりになる気なんてない。だけど、君がどれだけ漫画が好きで漫画を書くのが好きか……その気持ちはこの絵を見ればわかる」

 そして影山は語り出す。大きな声ではないが、よく通る声で。

「聞いてくれ日野くん。君には色々なしがらみがあるんだろう。色々な人に期待されているんだろう。だけど、君の人生は君のモノだよ。どうしても好きで、どうしようもなく挑戦したいことがあるならそれをやるべきだ」

 圧倒される。何度聞いてもこの情熱には圧倒されてしまう。

「僕は思うんだ。人は他人の期待に応える人生ではなく、自分自身の期待に応える人生を生きるべきだと」

 確信の籠った声で影山はそう言った。

「自分自身の期待に……」

「それに考えてみなよ。プロ野球選手は人数が決まっているはずだ。つまり君がプロになれば誰か一人はプロになれない。その選手が本当に野球が好きで心の底からプロ野球選手になりたかったら? 『本当は他のことがやりたい』君がその人の場所を奪うことになる。それは『野球』そのもの、そして自分と他人の人生に対して不誠実なことだと思わないかい?」

「……それは、考えたことがなかったな。でも言われてみれば、そういうことになる場合も少なからずあるんだろうな」

 プロ野球選手になれるかなれないかの世界では、特に。

「だから、聞いてくれ日野くん。野球部のエースじゃない、期待のドラフト注目選手じゃない、ただ一人の日野進次郎くん」

 影山はグッと右手を握りしめて言う。

「君は漫画家を目指すべきだよ。僕は今、それを確信した」

 その時、沈んでいた太陽が最後の輝きを見せた。

 沈みゆく前の最も赤く輝く夕日。

 燃えるのようなその色に照らされた、影山の熱い瞳はもはや一種の芸術のようで。

 神聖な何かのようで。

 その熱く、真っ直ぐな姿に畏敬の念と憧れを……日野は強く抱いてしまった。

「……俺は」

 日野は何か言おうとしたが言葉が出ない。

 そうしている間に、終了のチャイムが鳴った。

 生徒は校舎にいてはいけない時間である。

「ああ、もう帰らなくちゃね」

 影山は荷物をカバンに詰め込むと、帰って行ったのだった。

「……」

 残された日野は、見回りの教師に追い出されるまで教室の中で一人、立ちすくんでいたのだった。



   □□



 日野はすっかり暗くなった夜道を下校しながら考える。

「人は他人の期待に応える人生ではなく、自分自身の期待に応える人生を生きるべき……」

 影山に言われた言葉を何度も何度も反芻しながら、帰り路を歩いて行く。

 分かっている。

 本当は分かっていたんだ。

 自分が本当になりたいのは漫画家。

 だって、ずっと書いていたんだから。

 野球をやっていない時は本当にずっと漫画を読んで暇さえあれば漫画を書いていたんだ。

 挑戦したいに決まっている。

 野球は嫌いじゃない。でも、プロ野球選手になりたいのは自分じゃない。

 それは周りの人の夢だ。

 周りの人の期待だ。

「そうだよ……俺は……」

 気がつけば、自分の家の玄関の前にいた。

 ガタガタと音を立てる扉を開ける。

 そして、いつも通りの土と金魚の匂い。

「お帰りなさーい。ご飯できてるわよー」

 靴を脱いで上がると、母親が出迎えてくれる。

 今の方を見ると父親がグラブを磨いていた。

 いつもの光景。

 いつも通りの光景。

 もし、自分がそのことを言ったら、この光景もきっと壊れてしまうだろう。

「……俺は」

「どうしたの? 進次郎?」

「それでも……俺は……俺は……っ!!」



   □□



 一年後。



 オラー、ノック最後の一本行くぞー!!



「うっす!!」

 日野は変わらず野球部の練習をしていた。

 学年も二年生に上がり、体も一回り大きくなり球速もMAX145kmまで上がった。

 スカウトたちの目も、いよいよ本格的なものになってきたのを感じる。

(結局……俺は、言い出せなかった)

 野球選手じゃなく、漫画家になりたいと。

 だからこうして、日野は人の期待に応える人生を歩んでいる。

 この頃はそういう生き方でもいいかな……と思えるようになってきた。

 だが同時に。

(ああ、勇気がない人間だな俺は……)

 どうしようもなく、そんな風に思ってしまうのだ。



 ……ちなみに。

 学年が一つ上がって別のクラスになった影山は、たまに教室を通りかかってその姿見てみれば、やっぱりノートに夢中で小説を書いている。

 どうやらまだ結果は出ていないがあの日、影山の作品を読んだ日野は確信している。

 影山はいつかデビューし、その真っ直ぐな情熱を世の中に知らしめるのだと。

 日野はそんな影山の姿を眩しいなと思い、尊敬と羨ましさを込めた目で見つめるのだった。

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