第5話 日野進次郎4

 数日が経過した。

 日野はその間も特に変わることなく部活動に励んでいた。

 ナイスボール!!

 おらー、最後まで飛びつけー!!

 もう一本ー!!

 と、ジリジリと照りつける日差しの中、野球部員たちが白球を追いかけている。

 もちろん日野もそんな中にいるのだが、どうにも心ここに在らずだなと自分でも感じている。

 影山に自分の絵を見せたあの日から、やはり影山の言葉が耳を離れないのだ。



『これは、素晴らしい絵だよ!!』

『ん? だってプロの漫画家を目指すんでしょ?』

『もしそうなら僕の目を見て言ってくれ。自分は『野球を愛している』と、『漫画よりも野球が好きだと』!!』



 いいのだろうか?

 俺はこれでいいのだろうか?

 そんな考えが野球をやっていると浮かんでくる。

 野球の練習が面白いと思ったことはない。

 もちろん試合に勝てば嬉しいが、ものすごく嬉しいかと言われるとそうだと言い切れない。

 野球をやっている時は、ほとんどが辛い時間だ。

 それはそうだろう。やりたくてやっていることではないのだから。

 逆に絵を書いている時は……楽しい。

 もちろん、絵だって上手くいかずに辛い時がある。

 でも、自分の中ではそれも含めて楽しいと言えてしまうのだ。

(じゃあ……やめるか? 野球を。やめて漫画家目指しますって言うか?)

 いくらなんでも……それは言えない気がした。

 ここまでやってきて、これだけ周囲に期待されて、プロのスカウトの目にもとまっているのに?

 無理だ。それは無理だ。

 第一家族に、親父になんて言えばいいんだ。

 あまり裕福じゃない中で時間も金もかけてくれてきたんだ。ぶっ飛ばされるぞ間違いなく。

(でも……じゃあこの先、上手くプロ野球選手になれたとしたら……ずっと続けることになる。野球を……少なくとも引退するまではずっと……)

 それを想像すると……怖かった。

 自分のこの先の人生が本当にやりたいことじゃないことで埋め尽くされるのは……怖かった。

「……俺は……どうしたら」



 おい!! 日野!!



 チームメイトのそう叫ぶ声が聞こえてきた。

「……え?」

 次の瞬間。

 右手に鈍い痛みが走った。

 ノックのボールが右手を直撃したのである。

 スピードの乗った硬球だ。もちろん何事も無しとはいかなかった。



   □□



「ヒビが入ってますね……折れてないのは幸いでしたが」

「……そうですか。ではやはりしばらく投げるのは?」

「ええ。まあ右ピッチャーですから、右手の中指は大事な部分です。万が一にも癖になるようなことがあってはいけませんから、完治するまで絶対安静にしてください」

「分かりました。日野は将来のある選手ですから。徹底させます」

 普段グランドで厳しく大きな声を出している監督が、医者と神妙な様子でそんなことを話していた。

「……」

 一方、日野はギプスの嵌められた右手を黙ったまま見つめていた。



 病院を出ると監督はウィンドブレーカーのポケットに手を入れ、電子タバコを取り出しながら言う。

「……確かにかなり早いゴロで多少イレギュラーしたが、普段なら絶対に取れるくらいのボールだったろ?」

「……はい」

 その通りだ。普段だったらあんなものは百回やって百回取れる。

「この数日、どうも集中できていなかったようだしな」

「……」

 バレていたのか。

 と日野は思った。

 さすがはこの地方では名の知れた名監督の一人である。

「なあ日野……」

 怒られるだろうか?

 と思ったが。

「今週は部活を休んで家でゆっくりしてみたらどうだ?」

 そんなことを言ってきたのである。

「……え?」

 それは、気の抜けた練習をして怪我をした罰で謹慎ということだろうか?

 そんな風に考えたが、監督はあくまで優しい口調だった。

「お前くらいの時期はな、何かでどうしても思い悩んでしまうときがある。忙しく部活ばかりやっていると、どうしてもそれに向き合って考える余裕がなかったりもするものだ。どうせ、一ヶ月以上は投げられないんだから今週くらいは休め」

「……いいんですか?」

 頷く監督。

「その代わり、一週間でちゃんと立て直してこいよ。週明けてまだグダグダやってるようなら、今度はそんなものを忘れくらいきつい練習させるからな」

「そ、それは恐ろしいですね……」

 すでに、うちの高校は高校生ができるレベルとしては限界くらいに厳しくて長い練習をしているのだが……それ以上となると想像もつかない。

「それから……まあ話しにくいだろうが、相談したいことがあれば相談しろ。それも高校生のお前たちを預かる監督の仕事だからな」

「……はい」

 日野学校の野球部は、時代錯誤なんじゃないかと思うような長時間のスパルタ練習をする。でも考えてみればそのことについて、生徒や保護者からのクレームが来たのは聞いたことがない。

 それはこの監督の人間性によるところが大きいのかも知れない。

 日野はそんな風に思ったのだった。



   □□



 翌日。

 学校に行くとクラスメイトたちから驚かれた。

「うお!? どうしたのよその手!?」

 お調子者の山田も、最初見た時は本気で心配した様子でそんなことを言ってきた。

「一ヶ月くらいで治る怪我だからそんなに心配する必要ないよ」

 とそんなことを言いつつも、同時に「ああ、俺ってやっぱり野球の人って認識なんだな」と思った。

 普通の人が手にギプスをつけて登校したところで、ここまでの騒ぎにはならないだろう。

 そう考えると、自分のクラス内でのこの「野球部のエースのすげーやつ」という立場は、野球をやめてしまえば消えてなくなるのだろう。

 そうなった時、自分はどんな風に周りから見られるのだろうか。

 それは……少し怖い気がする。

 何者でもなくなるのだから。少なくとも、無条件で人から見上げてもらえるようなステータスが無くなり、侮られる対象として見られることもあるかも知れない。

「それよりも、部活動休みもらっちゃったわ。ゆっくりさせてもらうぜ」

「あー、そうなんだー。よかったじゃん。入学してから土日もほとんど部活だったもんなー」

 山田とそんなことを話しつつ、自分の席に座った時。

 日野はあることに気づいた。

「あれ? 今日影山まだ来てないんだな」

 いつもならこの時間には教室に来て本を読んでいるか、ノートに小説を書いているのだが……。

「そうだなあ。なんかあの端っこの席で影山がなんかやってねえと、違和感あるよなあ」

 山田がそんなことを言った。

 ちょっと前までは、空気のような扱いをされていたのに、わずか一週間ほどで影山が机で何かに真剣に向き合っている光景はクラスの定番の風景になっていたのである。

 その時、窓を開けた生徒が自分の席に戻ろうとした時に、影山の机に体をぶつけた。

「おっと」

 その生徒は、少しふらついただけで気づかずそのまま歩いて行ったが、ぶつかった拍子に影山の机から何かが滑り落ちた。

「なんか落ちたな、なんだろ?」

 そう言って、山田が落ちたものを拾うと……それは影山の普段小説を書いているノートだった。

「おお、こりゃ大事なものだな」

「そうだな。ちゃんと戻しとかないと」

 日野はそう言ったが、山田はそのノートを見つめて何やら考えると。

「あでも、その前に読ませてもらおっと」

「え? おいおいそれは……さすがに黙って読むのは良くないんじゃないか?」

「そうか? アイツなら気にしないんじゃない?」

「それは……あ、うん。そうかもな」

 むしろ頼めば、喜んで読ませてくれそうだ。

「いやあ、実際ありがてえんだよねー。これなら授業中も堂々と読んでられるじゃん?」

「授業中は授業聞けよ。そんなんなだから追試まみれなんだよ山田は」



 そして、一時限目の授業がスタートすると、山田は開始十分ほどで早速授業に飽きたのか、影山のノートを取り出して読み始めた。

(……ほんとに読んじゃってるよ)

 さっきは、影山なら気にしないと考えたが、それでもやはり許可を取ってからの方がよかったのではないかなどと思う。

 だが同時に。

「……実際どうなんだろうな。影山の小説」

 どうしても日野も気になってしまうのだ、

 あの男が。

 あれほど情熱的にライトノベルへの愛を語った影山が、一体どんな作品を書くのかを。

 一時限目が終わった時に日野が尋ねる。

「どうだった? 影山の小説」

「うーん」

 山田の反応は微妙なものだった。

「俺が小説とか初めて読むからなのか分からねえけど、読みにくいんだよな。色々と情報ゴチャついててさ」

「そうなんだ」

 まあ、情熱があるからと言って天才的なセンスがあるとは限らない、ということだろうか。

 実際、野球でも日野よりも野球が好きな人は同年代に沢山いた。

 しかし、どうしても才能の壁、センスの壁というものはある。

「まあでも、なんかすげえよな」

 山田はしみじみとそう言った。

「すごい?」

「ああ、先の方もちらっと見たけどこれ多分ちゃんと完結してるみたいでさ。自分と同い年の人間が作品一本書ききってるんだぜ?」

 なるほど、言われてみれば。

 自分もオリジナルの漫画を書いたことはあるが、せいぜい読切の長さである。

 大体ライトノベルなら一冊十万文字、ストーリー量では漫画の二、三巻分に相当するのだ。

 連載をそこまで続けられる漫画家は一握り、ほとんどは読み切りしか書いたことがないと考えると、それが凄いことなのは確かに間違いないなと思う。

「それに……」

「それに?」

 山田はなんと表現したらいいか、迷っている感じで言う。

「なんか……なんかある気がするんだよな。この小説。だから……うん、もうちょい読んでみるわ」

 そう言って山田はその後も授業中、ずっと影山の作品を読んでいた。

 ライトノベルを一冊読むというのは、その作品の分量にもよるが慣れてる人で大体二時間〜三時間ほど。山田のような小説を読み慣れてない人が読むとなれば倍以上時間がかかることもある。

 二、三時限目の山田は、やや途中で集中力が切れながら読んでいる感じだった。

 変化が現れたのは四時限目。

 山田は教師に対する偽装と警戒のために時々顔を上げることすら忘れて、真剣にノートを見ていた。

 食い入るように、吸い込まれるように。

 そして……。

 つー、と。

 気がつけば一筋、その瞳から涙が溢れていたのである。



「……いや、なんだろなんかさ」

 昼休みに、一緒に昼食を食べながら山田は影山の作品の感想を言う。

「正直、途中まで読みにくくてしょうがなかったんだけど……いやまあ、それはずっと変わらなかったんだけどさ」

 山田は手に持った、影山のノートを見て。

「……なんかすごかった。最後の方が特に」

 そう言ったのだ。

 ざっくりとした言葉だったが、それが本心から出た言葉であることは間違いないだろう。

「いやまあ、それにしても最後まで読みにくくてしょうがねえんだけだどさ」

「……なあ、俺にもそれ貸してくんないか?」

「ん? ああお前漫画とか好きだもんな。終わったら影山の机戻しとけよ」

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