第4話 日野進次郎3
「ただいまー」
影山の川村への語りを聞いたその日の夜。
日野はいつも通り夜遅くまで部活動をやってから帰宅した。
ガラガラとスライド式の戸を開ける。
強盗が本気で体当たりすれば簡単に壊れそうな薄い玄関扉である。
築何年かは聞いたことはなかったが、日野の家はかなりの古家である。ところどころガラスはガムテープとダンボールで補修してあった。
防虫剤と土の匂いと水槽の金魚の水っぽい匂いのする玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。
「おう、進次郎。今日もしっかりやってきたか?」
居間では父親が発泡酒で晩酌をしながら野球中継を見ていた。
テレビの横にテレビよりも大事そうに飾ってあるのは、ミスタープロ野球、長嶋茂雄のサイン入りバットである。父親は長嶋本人からサインを書いてもらったこのバットを「我が家の家宝」として、大事に飾ってあるのだ。
「サボろうと思ってもサボれないよ、監督が厳しいの親父も知ってるだろ?」
「ははは、それもそうだな。お前がプロ野球選手になったら、監督にもお礼に行かないとだなあ」
「……そうだね」
日野はなんとも言えない返事をした。
「あら進次郎おかえりなさい。ご飯できてるわよー。未来のプロ野球選手がお腹空かせてたらいけないもの」
母親が台所の方から出てきて、嬉しそうにそんなことを言ってくる。
今日も食卓には栄養学には基づかないかもしれないが、体に良さそうでちゃんと美味しく作られた料理が並ぶだろう。
スポーツ選手はしっかり食べるのが大事、ということで毎晩六品目以上の料理を作ってくれている。
「先に風呂入るよ」
進次郎はそう言って居間を後にし、廊下を進んで自分の部屋に入った。
「……はあ」
エナメルのスポーツバッグと野球道具を床に置いて、制服のままベッドに寝転がってため息をつく。
そのため息は部活動で疲れたから出たものではなかった。
日野の頭を今埋め尽くしているのは、今日の影山の姿とその言葉だった。
「……凄いよな、アイツ」
『誰がなんと言おうと、この先それを言う人が世界中で僕だけになったとしても……僕は言い続けるよ……『ライトノベルは素晴らしい』と』
凄まじい決意だった、凄まじい覚悟だった、燃え盛るような隻眼の瞳が今でもこちらを見つめているかのように感じる。
そして何より……愛を感じた。
自分の夢に、自分の目指すものに対する強烈な「好きだ」という気持ち。
「……」
日野はベッドから起き上がると、自分の机の引き出しの一番下を開けた。
そこに入っていたのは大量のスケッチブック。
そこには、漫画の模写や自分が書いた背景やキャラクターたち。机の一番大きい引き出しにも入り切らない。これでも本当にうまく描けたと思ったお気に入りの絵以外は処分している。
ちなみに、部屋にある大きな本棚にはお気に入りの漫画がいっぱいに並んでいる。
きっかけは父親が買ってきた野球漫画だった。
物心着いた時から野球一色で、野球以外のことをしていると「そんな暇があったらバットを振れ!!」と怒鳴られて過ごしてきたが、代わりに野球に関することでは父親は非常に寛容だった。
そんなわけで、小学生の頃、スーパーの書店コーナーでなんとなく読みたくなった漫画をねだってみたら、「野球漫画ならよし」ということでなんとその場で全巻六十三巻を買ってくれたのである。
夢中になってその夜漫画をよんでいこう、日野は漫画にハマった。
そして読むだけでは満足できず、いつしか自分でも書いてみるようになっていったわけである。
ちなみに、漫画を書いていることは家族には内緒だった。
弟二人と母親はもしかしたら気がついているかもしれないが……。
少なくとも父親には内緒である。たぶん、漫画を読むのが唯一の趣味、くらいに思っているのだろう。
まあ、実際他のことやる時間とか無いし。
「……ああ、これは自分でも上手く書けたんだよな」
野球漬けの日々の合間に睡眠時間を削ってコツコツと書いた自分の絵を一枚一枚見ながら、そんなことを呟く。
「……」
そして、しばらく悩んだあとスケッチブックの一つを手に取り、エナメルバッグの中に入れたのだった。
□□
翌日。
やはり、影山は今日も自分の席に座って黙々と小説を書いていた。
(相変わらず凄い集中力だなあ)
しかし影山と言えどさすがに人間だろう。
三限が終わると自分の席を立った。おそらくトイレに行くのだろう。
「……よし」
日野も席を立つと、影山が向かったトイレと同じトイレに入った。
そして影山の隣の便座に立ち、用を足すフリをしながら声をかける。
「……なあ、影山」
「ん?」
そう言ってこちらを振り返った影山は、こうしてなんでもない時に見ると至って普通の……いやむしろ普通よりも存在感の薄く、暗そうなただの小柄な男子である。
「ライトノベル書いてるんだよね?」
「うん、書いてる。来月締切の新人賞に出すんだ」
影山はなんの躊躇もなくそう言った。
自分の力を、自分の作ったものの評価を試される場に出ようというのに、全く恐れていない。
「……やっぱり凄いな、影山は」
「それで、どうしたの?」
「ああ、いや実は俺も漫画書いててさ。忙しいところ悪いけど、よければ昼休み見てくれないか?」
「……!!」
日野の言葉を聞いて、影山は目を輝かせた。
「いいね!! それは素敵だね日野くん!! 是非見せてもらうよ」
「お、おう……」
そこまで期待されると少し怖くなってしまう。
だがまあ、ここまで来たのだ。
「じゃあ、昼休み四階の空き教室で。昼ごはん食いながら」
そう約束したのだった。
□□
そして昼休み。
「……」
「……どうだ? 影山」
人の滅多に入ってこない空き教室で、日野が渡したスケッチブックを影山はペラペラとめくっていた。
ちなみに机に置かれているのはお互いの昼ごはん。日野はタッパー二つに大盛りのご飯とオカズ、影山はコンビニの菓子パンと野菜ジュースだった。
影山は一言も喋らず、食い入るようにスケッチブックの絵を見ている。
日野は今まで感じたことのない心臓のバクバクを感じていた。
(想像してはいたけど、こんなに緊張するんだな……人に自分の作品を見せるって)
自分の才能や感性、そしてこれまでの苦労をジャッジされるのだ。
果たしてそれが無意味なのかどうか。
こんなに恐ろしいことはない。
(だからこそ、皆んなの前で自分の作品読み上げられて馬鹿にされても全く怯まなかった影山がヤバいんだけど……)
そんなことを考えていると、影山はスケッチブックの最後の一ページをめくり終えてパタンと閉じた。
「ふう……」
そして、一息つく。
次にどんなセリフが飛び出すのか。
非難か賞賛か、それとも当たり障りの無反応か……。
「日野くん……」
ごくりと日野は唾を飲む。
「これは、素晴らしい絵だよ!!」
影山は興奮したようにそう言った。
「ほ、ほんとか!?」
「うん。そもそも単純に上手い。絵について詳しいことは分からないけど、パッと見ただけでその辺のプロの漫画家と全然遜色ないって感じる。センスもあるし、きっと沢山書いてきたんだろうと思う」
「ああ、まあ。八歳くらいから暇さえあれば書いてたし……描くための技術論ならネットでいくらでも調べられるしな」
「なにより、この絵から伝わってくるよ……君の『漫画が大好きだ』って熱い気持ちが……」
「そ、そうか。そりゃ……ありがとな」
まだそれほど影山のことを理解したと言えるほど付き合いがあるわけではないが、少なくともこういうところで嘘を言うことは無いだろうと思える。
だから影山は本音で言っているのだ。
「凄い、凄いなあ。いい絵だ。僕は好きだなあ、凄く好きだ……」
「なんか、すげー嬉しいな、人に自分絵見せたの初めてだったからさ」
「まさか日野くんもプロのクリエーターを目指しているなんて思わなかったなあ。これは強力なライバルが現れたね」
「え?」
「ん? だってプロの漫画家を目指すんでしょ?」
「い、いやいやいや」
日野はブンブンと自分の手を横に振った。
「目指さない目指さない、何言い出すんだよ影山」
日野がそう言うと、影山は改めてスケッチブックの絵を見て不思議そうに言う。
「こんないい絵を描くのにかい? なんで?」
「なんでって……」
日野は理由をいくつも考えたが、上手く言葉にまとまらず、結局口からできたのは。
「そりゃ……俺プロ野球選手になるのが夢だし……ずっとそうだったし、もうスカウトにも目をつけてもらってるしさ……」
そんな言葉だった。
影山の放つ一言一言に比べ、なんとも力ないそんな言葉。
「……」
影山はそんなコチラの様子をじっと見つめる。
「日野くんは……野球が『大好き』なのかい?」
「え? いや……別に嫌いじゃないけど……」
「そうじゃない。僕が聞いているのは『大好き』かどうかだ。野球を『愛している』のかどうかだ」
影山は声を強くして言う。
「もしそうなら僕の目を見て言ってくれ。自分は『野球を愛している』と、『漫画よりも野球が好きだと』!!」
「……」
「さあ……!!」
「……っ!?」
前髪の間から見える、鋭く真っ直ぐな視線がコチラを見ている。
言えなかった。
漫画よりも野球が好きだと、適当に言ってしまってこの場を乗り切ってしまおうという姑息な考えを、この瞳の熱量が許さない。
真実以外を許さない、真っ直ぐな瞳だ。
「……そうだよ。漫画の方が好きだよ俺は。読むのも描くのも最高に楽しい。野球はずっとやらされてきたことだから」
だから日野も本当のところを言うしかなかった。
「でも、そんな単純な話じゃないんだよ……影山……俺にとってプロ野球選手になるってのはさ……」
「……」
影山は黙って聞いている。
「皆んな俺に期待してるんだ。親父もお袋も、監督も、クラスの皆んなも……ずっとそうだった。昔からそういう風になってて、皆んな応援してくれてるんだ……俺が好きかどうかなんて話じゃないだろ、それはもう……」
目の前の男があまりに真っ直ぐだからだろうか。
誰にも話したことのない、親にも話したことのない深いところの話。
それをつい話してしまった。
「だから俺は……漫画家を目指す気はない……」
「そうか……日野くんはそういう風に考えるんだね……」
「ああ」
「……」
「……」
そこで始業の予鈴が鳴り、二人は急いで昼ごはんを胃袋に詰め込んで教室に戻っていったのだった。
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