第2話 日野進次郎

 担任教師が気まぐれで企画した授業での出来事だった。

「皆、高校一年の夏休みも終わっていよいよ二学期だ。ここで改めて『自分の将来の夢』についての授業をやろうと思う」

 そんなことを教師は宣言し、全員に『私の将来の夢は〜』と描かれた紙が配られたのである。

 当時高校一年生の日野進次郎は、自分の机にも配られたその紙を少し複雑な気分で見つめた。

(……将来の夢、か)

「夢ねえ……何描きゃいんだよ。俺っち夢追えるほどなんかの才能あるわけじゃねえしな〜」

 隣の席に座る友人の山田が、シャーペンを鼻の下に挟みながらそんなことを言った。

「お前はいいよな〜日野〜、書くこと決まってるからさ〜」

 山田がおどけた声でそんなことを言ってくる。

「まあ……そうだな。普通の人よりはやること決まってるよ」

「けっ、未来のプロ選手様はいいねえ。今のうちにサインボール貰っとこうかなあ。あとでネットオークションとかで売ったらしばらく遊んで暮らせるかもしれねえし」

 そう言って頭の後ろで手を組んで背もたれに寄りかかる山田。

「いやいや、選手のサインボールじゃそんなに高くは売れないよ。せいぜい数万円くらいで。物凄い伝説的な選手ならもっといくだろうけどね」

 日野は苦笑いしながら、自分の紙に『プロ野球選手』と書いた。

『プロ野球選手』。

 これまでの人生、ずっとそれを目指してやってきた目標だった。

 日野はそんな自分の将来の目標を、少し複雑な表情で見つめるのだった。


 そして、全員が紙を埋めたのを担任が確認したら、発表の時間である。

 そこでクラスの皆から発表される夢の内容は……なんというか、それは夢と言っていいのか分からないものが大半だった。

 まずそもそも公務員系が一番多い。教師、地方事務員、警察官、消防士。ちなみに医者を目指すような学力の人間は、校舎から別の特進クラスに行かないといけない。

 他にも女子なら看護師や美容師、保育士。

 男子ならシステムエンジニアや実家の店を次ぐ、などが入っていたりと差はあったが、なんというか皆「どうしてもそれになりたい」というモノを言っているわけではなくて「なんとなく食いっぱぐれなそうで、それらしい仕事」を言っているという感じがした。

 まあだが、それは仕方ないことなのかもしれない。

 と日野は思う。

 これから経済が伸びてどんどん生活も良くなっていく。そんなことを思える時代や国に生まれれば『夢』というのは誰でも持てるのだろう。

 しかし、ありがたいことにすでに日本は経済的に豊かになってしまっている。

 日野の家はクラスの中でも貧乏な部類に入るが、それでも明日食べるモノに困るようなことはない。

 だからこそ、贅沢な話だが……『夢』というモノを皆が見るには、今の社会は成熟しきってしまっているのかもしれない。

 そんな状態なので。

「僕の夢は、プロ野球選手です。物心ついた時から父親と毎日練習して来ました。実現すればそれが報われます。だからこれからも気を抜かずに練習に打ち込んで行こうと思います」

 と日野が発表した時には、周囲から拍手が上がり、自然と尊敬のこもった目を向けられることになった。

 確かに、この中では実に夢らしい夢だなと自分自身でも思うし、クラスの皆んなも日野が一年にしてすでに野球部のエースで、毎日泥に塗れて部活をしていることは知っているのだ。

 その夢が単なるホラではないことは分かっている。

 ちなみに、お調子者の山田は「ユーチューバーになって、億万長者になって、港区のタワマンに住みまーす」などと言って笑いを取っていた。

「ばーか、お前ができるのなんか迷惑系くらいだろー」

 と他の男子から突っ込まれ。

「醤油差しペロペロしたりしたら、退学だからなー」

 と教師からもいじられていた。

 日野としては、山田は面白いやつで案外ユーチューバーでも上手くいくんじゃないかと思ったりもする。

 億万長者になって港区のタワマンに住めるかは分からないが……。

 とにかく、この時教室中では「夢なんて非現実的なことはガキくさいから、それっぽい将来設計を発表しないとダサい」という雰囲気が漂っていた。

 例外は山田のようにふざけて言ってみるか、日野のようにすでに結果が出ている場合だけだ。



 さて、そんな風に発表が進んでいき、いよいよ最後の一人の番が来た。

 教室の右端の席。教室という空間において最も一目に触れない場所。

 学年が変わるまで席替えはないので、入学した時からずっとそこにいた男子生徒である。

 影山進。

 中肉中背……いや身長は平均よりも低めだろう。

 前髪が顔にかかっておりどうにも暗い印象を受ける。

 日野としてあまり好きな表現ではないが、いわゆる『典型的な陰キャ』というやつだろう。

 休み時間もずっと一人で過ごしており、影山が誰かとまともに話しているところは見たことがなかった。

 このクラスには鉄板のネタがある。

 誰かが黙っていたり、一人でぼーっとしていたりすると「なに影山してんだよ」と言われるのだ。

 あまりにも目立たず存在を誰からも忘れられ、時々思い出されてはあまり良い意味ではないことでネタにされる。

 それが、影山進という男子生徒であった。

 その影山は、ゆっくりと自分の椅子から立ち上がる。

 そして自分の夢を書く紙を手に持ち。



「僕の夢はライトノベル作家です」



 声量は大きくないが、どこかよく通る声で堂々とそう宣言した。

 一瞬の沈黙が教室に訪れる。

 日野も驚いてフリーズしてしまった。

(え? なんて? ライトノベル?)

 日野はスポーツマンだが漫画が好きである。

 だからライトノベルのことも知っていた。

 厳密な定義があるわけではないが、ライトノベルは「表紙や挿絵にアニメ調のイラストを多用している若年層向けの小説」と言ったところだろうか。書店に行けばライトノベルコーナーもあるため、表紙だけは見たことのある人も多いだろう。

 日野自身ライトノベルは読んだことがないが、ライトノベル原作の漫画も多いためそちらの方は読んだことがあった。

 いやそれにしても……だ。急にライトノベル作家になると宣言するとは。いや、らしいと言えばらしいのかもしれないが。

 少なくともクラス全員が見ている前で、堂々と宣言するのが憚られるような夢だ。

 世間一般としてライトノベルは、ティープな萌えオタクのものという認識だし、気持ち悪と言われることだって多い。

 何より業界に詳しくはないが「稼げるのが一握り」の世界だろう。

 つまりしっかりと「夢」であった。

 普段ずっとボッチで、誰とも話さない影山がこの「夢らしい夢を言う空気じゃない状態」で堂々と宣言するとは……イメージとのギャップに頭がついていかない。

 日野と同じ感想だったのか、少しずつざわつき始める教室。

 しかし、影山は一切構わず続ける。

「ライトノベルは素晴らしいものです。ヒロインは可愛く、主人公はかっこよく、バトルは熱く、恋愛は美しく、会話は面白く、笑えて、悲しくて、感動できて、可愛らしい主人公もまたよく、かっこいいヒロインもまたいい。とにかくいい。素晴らしい。人を楽しませるため、感動させるために紡がれたその言葉は人生を豊かにします。そういう作品を作れる人々を僕は『本当に凄い』と思います、心から尊敬します」

 澱みなく、堂々と。

 唖然とする担任教師やクラスメイトを気にせず。

「僕もそういう作品を書いて人々の人生を豊かにしたい。だから僕はライトノベル作家になりたいです……いや、ライトノベル作家になります、絶対になります。絶対絶対絶対になります。そして人々を楽しませ、感動させます」

 そう言い切って、影山は席についた。

「……」

「……」

「……」

 しばしの完全なる静寂がクラス中を包んだ。

 隣の授業の内容が聞き取れるほどである。

「……えっと、うん。お前が読書が好きなのは伝わったぞ影山」

 担任教師がなんとか絞り出したのはそんな言葉だった。

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