赤く染まった頬

林海

第1話 赤く染まった頬

「おばあ」

 昨日まで、孫娘のひろはこの婆のことをそう呼んでいた。

 なのに、今日は「おばばさま」と来た。

 子供の成長はつくづく速い。


 とはいえ、その行動まではまだ変わらない。

 この婆の膝の上で、お気に入りの三つ折れ人形(着せかえ人形)を抱いている。

 いつまでこの膝の上で遊んでくれるのか、その思いが切なくもあり、楽しみでもある。


 六畳一間の長屋は日当たりも悪く、冬の1日を過ごすには辛い。小さな炭火を置き、鉄瓶から湯気が立っているものの、到底暖かいとはいい難い。

 だが、この部屋で、自分の息子であるこの孫娘の父親と、その妻を加えた4人で暮らしている。

 浪人である息子は仕官は叶わなかったものの、ようやく武士として恥ずかしくない生計たつきの元を得た。

 その妻も、外でよく働いてくれた上に家事でも手を抜かず、姑として口を出すことなどなにもありはせぬ。むしろ、そうやって夫婦共に働くことで、この婆に孫を抱く機会を作ってくれているのだから、ありがたいことこの上ない。

 もはや食い詰め浪人と町人から辱められるどころか、仕官できずとも近藤家の名が軽んじられることはあるまい。


 息子はそろそろこの長屋から引越し、江戸郊外の寮にでも住まないかと提案してきている。

 私は足が悪く、長い距離を歩くことはできぬ。

 それを思ってのことだ。

 郊外の寮であれば風呂のある物件もあり、通いの下男でも使えば湯屋まで歩く必要もない。

 だが、私はその返答を渋っている。


 理由はある。

 息子夫婦、いや、特に息子には秘さねばならぬ理由があるのだ。

 自分が育てたとはいえ、息子はあまりに堅物だ。この長屋の住人にも迷惑をかけたことがあるらしいし、平地に乱を起こしたことも一度や二度ではない。だからこそ信用もされているし、今も町人から尊敬される役職を得ているのではあるが、その堅さがこの身に向くとなれば憂鬱にもなる。

 とつおいつ考えていると、孫娘がつぃと立ち上がった。


 どうやら、そろそろ時間なのだろう。

 長屋の引き戸が開く。

 そこには、寒さに赤く染まった頬の子供が5人。

「師匠、今日もよろしくお願いいたします」

「よしよし、お上がり」

 子供たちは神妙な面持ちで絞った手ぬぐいで足を綺麗に拭うと、私の前に並んで座る。あかぎれだらけの手なのに、本当にいい子たちなのだ。

 孫娘も三つ折れ人形を部屋の片隅に置いて、きちんと正座した。

 私は、部屋の中のたった一つの箪笥の奥から、巻いた紙を取り出して、全員に配る。

 さすがに人数分の本は買えない。だから、数日分ごとにこの婆が学ぶべきものを筆写しているのだ。


「子曰く、故きを温めて新しきを知る」

「しのたまわく、ふるきをあたためてあたらしきをしる」

「子曰く、義を見て為さざるは、勇なきなり」

「しのたまわく、ぎをみてなさざるは、ゆうなきなり」

 私が読む後を追い、子供たちが唱和する。孫娘も、一番歳下ながら、見慣れぬ文字に目を凝らしている。

 こうやって文字を覚え、最低限の読みができるようになったら、次は書くことを教える。

 書けるようになったら、次は算盤だ。


 未だ、町人たちは文字が読めない者が多い。

 それでもさすがは江戸で、越後よりはましだが、それでもましと言うに過ぎない程度だ。この子たちは10歳を超えれば、職人や商家に奉公に出て働き出す。そのときに、読めて書けて算盤が弾ければ、より良い奉公先に拾ってもらえるだろう。

 そして、奉公先で一番きつい丁稚奉公の期間が短くなれば、それがこの子たちの命を救うことだってあるかもしれない。


 もう一つ、これは足の悪いこの婆の手前勝手な思いではあるが、他人ひとからお荷物ではなく、必要としてもらえるのはまことにありがたい。

 もっとも、息子は「いい加減、隠居としておとなしくしていてくれ」と私に意見するのは間違いない。「老母を働かせるのは体面に関わる」とも言うだろう。

 だが、隠居と祀り上げられて、何一つさせて貰えないのは苦行以外の何物でもない。だがそれを、息子は決してわかってはくれぬであろう。


 ここは、人情は厚くとも貧乏長屋にすぎぬ。

 謝礼は辞退し、本はこの婆が筆写して与えるにしても、子供たちの親は学問用の墨と硯、筆に紙を贖うのは相当に大変だろう。算盤はさらに高価だ。

 それでも、この婆が話を持ちかけたとき、どの親も一も二もなく用意すると約束してくれた。ただ、さすがに今日明日は無理だということもあって、それも読みを優先している理由だ。


 この子たちは、親に大切にされている。

 でも、貧乏長屋に住む親が子供にしてやれることは限られているし、なにをしてやれば子供がよりよく生きていけるかもわかっていない。

 この婆だけが、限られたものとはいえ、ここで学問の光を灯すことができる。

 だから、息子にはなにも言わせぬようにと、隠れてこのようなことを始めたのだ。


 唱和する子供たちの顔の、寒さから赤く染まった頬が別の理由で紅潮する。

「裏長屋から出たところのあの大きな看板、あれには『くすり』と書いてあったのかっ!」

「隣の店に書いてあるのは、『おしろい』だった!」

 そう、町のあちこちにある模様が、意味のある文字というものに変わっていく興奮。子供たちのこの初心に触れるとき、私はここでこのまま骨を埋めてもいいとさえ思う。

 郊外の寮に引っ込むなど、冗談ではない。息子たち親子こそ、水入らずで暮せばよいのだ。


 子供たちの声が高まっていく。知るということは、果てしなく楽しいことなのだ。静かになどしていられるはずがない。

 それでも、きちんと行儀は守らせている。この辺りの加減も、私としてはとても楽しい。



 不意に引き戸が、がらりと開けられた。

「……四郎」

 息子だ。

 今日は1日、隅田川を調べると言って出ていったのではなかったか。なぜ、この時間に戻ってきたのか?


「母上、なにをしておいでか?」

 上り框に仁王立ちで、息子が問う。

「食うに困らぬものは渡してあるはず。

 なのに、なにをなさっておいでか?

 これは、それがしとしても面目が立たず」

 答えられぬ私に、息子は重ねて問うてくる。


「道楽じゃ」

 追い詰められた私は、そう答えた。

「道楽ということは、無報酬でこのようなことを?」

「そうじゃ。

 ゆえに、この母の行いに対し、そなたに口を出されるいわれはない」

 苦し紛れに、私はそう言い放つ。

 

「だとすれば、幼くともこの子たちは客でありまするぞ。団子の一つくらいは用意してやるのがよろしくはござりませぬか?」

「はっ!?」

 我が息子ながら、あまりの不意打ちになにを言っているのかわからぬ。


「先ほどは、『面目が立たず』と申したではないか?」

「申しましたが、なにか?」

 そこまで話して、子供たちの視線が集中していることに気がつく。


「四郎、この子たちにもう少し教えるゆえ、それが終わって後でよかろうや?」

「構いませぬ。

 では、少し外を歩いてまいりましょう」

 そう言って息子は、丁寧に戸を閉めると姿を消した。


 子供たちが、不安そうな眼差しを向けてくる。

 この子たちが行儀が良いのは、皆一度は息子に叱られた経験があるからというのもある。だから、息子はこの子たちに怖がられているし、その母の言うことだからと、この婆の言葉も素直に聞いてくれているというのもあるかもしれない。

 そして、この婆にさえ息子の言いたいことがわからないのだから、この子たちにわかるはずもない。さぞや不安であろう。


「明日も心配せず来るのじゃぞ」

 私のこの言葉で、子供たちはようやくぎこちなく笑った。

 なんとしても、私は自分の意を通すつもりだった。



 その夜、息子より嫁のひさが帰る方が早かった。

 私は迷ったものの、昼間の顛末を久に話してみることにした。

「わがそくの言うこととはいえ、この婆には意味がわからぬ」

 そう話す私に、久はくすくすと笑った。


「四郎様は、この長屋の方たちに恩義がございます」

「恩義とな?」

「御義母はは上をおいて、仕官のために四郎様は出府なさいました。

 煕が歩ける歳になり、私たちもそのあとを追って出府いたしました。その後、方々に四郎様を探して江戸で私たち母子は迷いましたが、四郎様からお声掛けいただけることはありませなんだ」

「四郎が?

 なんとむごい……」

 いくらなんでそれはなかろう。


 たしかに、江戸に不慣れな者にとって長屋の一間を探し当てるのは難しかろう。とはいえ、江戸に入るには関所もあるし、日本橋のような誰もが知っている待ち合わせ場所もある。本来なら、地方から出府した者同士が会うのは、そう難しいことではないはずなのだ。


「妻と娘が越前にて暮らせず、出府するしかなかったと言うのに、四郎め、なにゆえそのような……」

「私たち母子はなんとか生計の道を見つけているのに、未だ仕官できぬ身の不甲斐なさに合わせる顔がないと。

 それを三日三晩説得し、私めと煕がいる場所までわざわざ逃さぬように同行して下さったのが、この長屋の面々でございます。

 四郎様は体面のためになにも仰られませぬが、ここの長屋の方たちには深謝の意を抱いていらっしゃられるのでございましょう」

「……なるほどの。

 たが、それだけではこの婆に合点がいかぬことがある。

 四郎は、武士の体面を保とうとしていたのではなかったか?

 なにゆえ……」

 武士のというか、男の体面というものもあっただろう。下らぬことかもしれぬが、「合わせる顔がない」などと言うのは、それ以外の何ものでもない。

 なのになぜ、この婆が子供に学問を教えるということとはいえ、働くことを止めなんだか?

「道楽」という一言で納得したとも思えぬ。


「四郎様はすでにそのようなこと、お考えではありませぬ」

「なんと?」

「そもそも四郎様が体面にこだわったのは、かつて藩の重責を担っていたからこそ。

 殿からいとまをたまわった以上、すでにそこに縛られてはおりませぬ。そもそも、武士の妻たるこのひさが、外で働けているのがそのあかし

「一時は、『四郎と久は離縁するしかないか』とこの婆も思ったものだが……」

「四郎様も、考えるところがおありだったのでございましょう。

 嫁として愚考いたしまするに、これからは御義母上もご存分に道楽に励まれるのがよろしからずや、と」

「……久、そなたは過ぎたる嫁よのう。

 ならばこの婆も、存分にいたしましょうぞ」

 私はそう言って、さらに思う。


 もしも久の言うことが正しければ、帰ってきた四郎はこの母になにも言うまい。さすれば、こちらからもなにも言うまい。好きにさせてもらおうではないか。


 − − − − −



「師匠、今日もよろしくお願いいたします」

「よしよし、お上がり」

 私はそう言って、子供たちの真っ赤に染まった頬を我が手で温めてやる。

 孫はたどたどしい手付きで、お茶を淹れている。


 今までは遠慮があった。

 だが、もはや好きなようにするのだ。

 炭もたくさん熾し、ここにいる間くらい温かく過ごさせてやろうではないか。

 再び子供たちの頬が赤く染まるのは、知識を得た興奮のときでよいのだ。



 − − − − − − − − − −


あとがき


単独でもイケますがw、連載中の「時空系公務員の受難」の外伝でもあります。

年寄りには甲斐が必要なのです。

ありがとうございます。

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赤く染まった頬 林海 @komirin

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