第32話 高嶺の花と出来立ての料理
「ただいまー」
バイトから帰宅した祐馬は靴を揃えてネクタイを緩める。キッチンからはいい匂いが香ってきて、祐馬の鼻をくすぐる。
(母さんの料理ってこんな匂いだったか?……まぁいいや)
菜穂の作る料理の匂いがいつもと少し違うことに少し違和感を覚えたが、美味しそうな香りには変わりない。その香りに釣られるかのように祐馬はリビングへと導かれる。
「あー。腹減ったー。母さん今日の飯は……」
「今日はお味噌汁と肉じゃがと豚バラのニラ玉炒めですよ」
その一声はキッチンから聞こえた。
明らかに菜穂の声ではなかったが、とんでもない聞き間違いをしたと思い込みながらキッチンへと振り向く。
「おかえりなさい。一条くん」
いつも菜穂が立っているキッチンには、拝むのが二度目となるエプロン姿の麻里花がいて「た、ただいま。雨宮」と状況が飲み込めないまま返事をした。
☆ ★ ☆
「――それで母さんに頼まれて、雨宮が飯を作ったってことか?」
「そういうことです」
制服から私服に着替えた祐馬は食卓について、麻里花から事の経緯を聞いていた。
仕事のトラブルが原因で帰りが遅くなるらしく、料理ができない祐馬はインスタントか外食で済ませると考えた菜穂は、親バカを発揮して麻里花に調理器具と冷蔵庫にあるものは勝手になんでも使っていいからとお願いしたらしく、麻里花はそれを引き受けたという流れだ。
「つーか、どうやってこの家に入ったんだよ」
今まで気づかなかったが、祐馬よりも早く麻里花が一条家に入っていたことは、ホラー以外の何物でもない。以前のようにオーナーに鍵を借りたと言えば納得はできるが、なんと事情を報告すれば貸してくれるのだろうか。
「これです」
麻里花がポケットからハンカチを取り出して開くと、淡い銀色の輝きを鍵が入っていた。
「えーっと……これは?」
「スペアキーです」
「なぜに雨宮が?」
「菜穂さんが何かあったときのために持っておいて欲しいと言われまして」
「あ、はい」
どうしてそういう経緯になったのか、なんとなく想像ができたので無駄な詮索はせず静かに事実を受け入れた。
「菜穂さん、一条くんに連絡したけど返事が来ないって怒ってましたよ」
「嘘。うわっ本当だ。めっちゃ電話きてる。気づかなかった」
マナーモードにしっぱなしにしていたのと、バイトから帰るとき一度もスマホを開いていなかったせいか、スマホを取り出すとホーム画面に菜穂からの電話やら連絡やらが怒涛の勢いで届いていた。これは帰ってきたらガミガミ言われるかもなと、祐馬は苦笑を浮かべずにはいられなかった。
「それはそれとして、雨宮もわざわざありがとうな。助かったよ。あと色々とごめん」
「いえ。夕食を食べる場所が変わるだけで、大した支障はありませんから」
「いただきます」
手を合わせると、祐馬は味噌汁を啜る。
味噌と白菜と大根、薬味のねぎの染み込んだ出汁が絶妙に調和していて、疲れた身体の芯から温めてくれて染み渡る。祐馬はホッと一息をついた。
「お口に合いましたか?」
「合う合う。めっちゃ合う」
麻里花の問いかけに頷いた祐馬は、続いて豚バラのニラ玉炒めを口にする。ニラの食欲をそそるような香りとジューシーな豚バラに卵が見事なバランスで、思わず白米にも手が伸びてしまう。食べれば食べるほど食欲が掻き立てられるような気がして、食事のペースが上がっていく。
「そんなに焦らなくてもいいと思うのですけど」
「美味いからこうなっちまうだけ……ゴホッゴホッ!」
「だから忠告したのに……はいお茶です」
コップを差し出された祐馬は注がれていた麦茶をあっという間に飲み干して、口元を拭う。
「さ、サンキュ」
「急がなくても夕飯は逃げませんからゆっくり食べてください」
「あっす」
注意を素直に受け止めた祐馬は、メインの肉じゃがに箸を伸ばして一口。柔らかく仕上げられた牛もも肉と砂糖や調理酒などで作られた甘い出汁に染み込んだじゃがいもやにんじんが口の中でほろほろと解けていく。
麻里花のお裾分けも十分美味いが作りたては別格で、ほっぺたが落ちそうなくらいなほどだ。
「あー。うっま……」
もっと気の利いた感想を言うべきなのだろう。
だけど今は『美味い』の一言しか言えないくらいに語彙力が壊滅的な状態だ。
「美味しそうに食べますね」
「美味いものは美味く食べないと料理にも雨宮にも失礼だろ」
料理ができない祐馬にとって料理を作ってくれる人の存在はありがたい。出されたものは残さず食べきることが祐馬のできる感謝の表しだと思っている。最近はちゃんと言葉にもして伝えるようにもしている。
素直な感想を口に出した祐馬は盛り付けられた夕食を食べ進めていった。
「……そう言ってもらえたなら作り甲斐がありました」
幸福そうな表情で噛み締めるように頬張る祐馬を目の前で眺めていた麻里花は、どこか嬉しそうに微笑んで呟いて、箸を進めた。
☆ ★ ☆
「ご馳走様。美味かったよ」
「お粗末さまでした。こちらも美味しく食べてくれたのなら良かったです」
夕食を食べ終えると、祐馬は食器、麻里花は調理器具を洗っていた。菜穂の分の夕食は皿に盛り付けて冷蔵庫へと眠らせている。
「……誰かと一緒に食べるご飯って美味しいですよね」
まな板を洗い終えた麻里花がふと、そんなことを呟いて、祐馬も洗い物の手を止める。
「そっか。一人暮らしだから家だと基本一人だもんな。でも一人暮らしならではの利点みたいなものもあるだろ?」
「もちろん一人で食べるのも静かで落ち着くなんて利点もありますけどね。でもやっぱり寂しいですよ」
雨宮家の大体の話を聞く限りだと、あまり家族仲は良くないと見える。麻里花は家族仲というものに憧れというか、普通が欲しいのだ。
「まぁなんだ。雨宮さえ良かったら今度は母さんと三人でまた飯でもどうだ?」
菜穂が麻里花のことを好いているのは見て分かるし、祐馬も麻里花のことは嫌いではない。麻里花がいいというのであれば、またそういう機会があってもいいと思った。
「そんなこと言って、一条くんは食べる専門ですよね」
「違ぇし。ちゃんと手伝うわ」
心外だと言わんばかりに祐馬は言い返すと、麻里花は薄く微笑んで洗剤をスポンジに付けて、鍋を洗い始めた。
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