第24話 高嶺の花の小さな笑顔
春休みが始まってからというものの過ごし方に変化があったわけではなく、蓮司のライブを見に行ったくらい。あとは課題や二年生になるに向けての予習をしたりゲームしたりバイトをこなしたりと、普段の休みと何も変わらない日常を過ごしている。
日曜日なので菜穂も仕事は休みなのだが、一時間半ほど前に買い物に出かけたので今は自宅におらず祐馬一人で留守番している。
春休み期間、自宅警備員と化していた祐馬は家でできることは全てやり尽くしゲームも飽き始めていて、とりわけやりたいことがあるわけでもないので、ヘッドホンしながら教科書に目を通してはペラペラとページをめくっていた。
それも集中力が途切れてしまい、教科書を机に置くと大きな欠伸をしながらリクライニングチェアに背もたれを倒して、時計に視線を向ける。時計の針は十二時を回っていてお昼どきの時間帯だ。
「母さん。遅いな」
菜穂は買い物に出かけてから一時間ほどで帰ってくるのだが、今日は既に三十分も遅れている。
お腹の虫が空腹を訴えており早く帰ってこないかなと考えていると、手元に置いてあったスマホが震えた。
「分かりましたよっと」
確認すると『玄関の扉開けて』と菜穂からの一通の連絡が入っていて、つけていたヘッドホンを首にかけると椅子から立ち上がり玄関に向かった。
菜穂はマイバックに入る限りの食材と調理料を詰め込んでいるので非常に重く、帰ってくる時は祐馬に玄関の扉を開けさせてはキッチンまで運ばせている。
日頃から料理を作ってもらっているので、祐馬に文句を言う権利はない。言えばその日のご飯は抜きにされてしまうからだ。
「ただいまー」
玄関の扉を開けば、能天気な声で帰宅したことを告げた菜穂の頬はこれでもかと緩んでいた。何かいいことでもあったのかと思えば、菜穂の隣に一つの人影があることに気がつく。
それを見た瞬間、菜穂の機嫌が異常にいい理由に納得したのと同時に、何故だかとても嫌な予感がした。
菜穂の隣には私服姿の麻里花がいて、その光景が祐馬にとてつもない既視感を与える。
「……経緯を聞いてもいいか?」
そう言って祐馬は困惑した目を菜穂に向けた。
ある程度の説明を受けなければ、突然のこの状況に祐馬も理解することができない。
「母さん買い物していた帰り道に偶然麻里花ちゃんと出会しちゃって色々話してたの。そしたらなに。わたしがいない日にご飯作ってもらって、決まった日に麻里花ちゃんのおにぎり食べてるんだって?」
「ま、まぁ。そうっすけど」
どういった経緯でその話に繋がったのかは知らないが、紛れもない事実なので祐馬は首肯する。
菜穂は笑みは笑みでも嬉しいことがあった笑みから揶揄うようなニヤニヤとした笑みへと変えて、マイバックを祐馬に手渡した。
「ははーん。なんで祐馬がその日にいつもより少し機嫌がいいのか分かったわ」
「もうその話はいいから。それよりも話がすり替わってる気がするんだが」
「重要な話よ。麻里花ちゃんにお礼しないといけないじゃない。なんで言わなかったのよ」
「いや。そのお返しってのは……」
「菜穂さん。わたしがしたくてやったことですから。それに彼からは感謝の言葉と贈り物はいただいていますし……」
「わたしが良くないのよ。だから今日はわたしが麻里花ちゃんにご飯を振る舞ってあげようと思ってね」
麻里花が間に入って菜穂に説明するが、納得する様子ではない。祐馬も言いたいことはあったのだが、これ以上変に刺激をしてとばっちりを受けるのはごめんだったので口を塞いだ。
「いえ。わたしは別に……」
「遠慮しないで。それにみんなで食べた方がご飯も美味しいでしょ。だから上がって」
最初は断っていた麻里花だが、菜穂の圧力に押し負けてしまい、結局祐馬の自宅に上がることになった。
「ご飯できるまでくつろいでて」
「ありがとうございます」
「祐馬。麻里花ちゃん部屋に案内してあげて。ご飯できたら呼ぶから」
「はいはい」
麻里花に微笑みかけて祐馬にはいつも通りの口調で話しかけたあと、食材をせっせと整理して早速調理にとりかかった。
麻里花は愛想も良いので菜穂からも好かれるのは納得いくのだが、実の息子に話しかけたときのトーンの差はなんなのだと、内心不服を覚えながら麻里花を部屋に案内した。
「まぁ適当にその椅子に座っててくれ」
「し、失礼します」
蓮司が遊びに訪れる時は大抵ベットに座っているのだが、麻里花をそんなところに座らせるわけにもいかず祐馬はリクライニングチェアを指差せば、麻里花はゆっくり椅子に腰を下ろした。
「別にそんな気を張らなくてもいいぞ」
「どうしても気は張っちゃいますよ。異性の同級生のご自宅に上がることは何度かありますけど、自室に入るなんて初めてなんですから」
「まぁ気持ちは分かるけどさ。好きなようにしててくれ」
「はい」
表情はまだ固く緊張した面持ちのまま、麻里花は祐馬の自室に見渡す。別に見られて恥ずかしいものはなく、逆になさすぎるので見ていてもなにも面白くない気がするのだが。
「お部屋、綺麗にされてるんですね」
「まぁそれなりには。意外だったか?」
「正直に言えば。男の人はそういうのはもっと大雑把というかズボラだと思ってました」
祐馬の自室は殺風景な部屋だが、その分清潔感は保とうと努力はしている。普段自分が過ごす空間を汚くしたくないので、こまめな掃除は欠かさないようにしているのだ。
「まぁその分面白みのない部屋なんだけど」
「男の子の部屋がどんなものなのかは分からないですけど、物で溢れかえっているよりは一条くんの部屋のようなスッキリとしている方がわたしは好きですよ」
「そりゃどうも」
☆ ★ ☆
菜穂に呼ばれて食卓に向かえば、菜穂が腕を奮って作ったカルボナーラとサラダとスープがずらりと並べられていた。麻里花がいることでいつもよりも気合いを入れて作ったことがよく分かる。
「「いただきます」」
「はい。召し上がれ」
手を合わせた祐馬は早速カルボナーラを食べ始める。麻里花もスプーンを手に取ってスープを掬った後、二回ほど息を吹きかけて口に運んだ。
「ん。とても美味しいです」
「良かった。まだまだたくさんあるから食べてね」
一口食べた麻里花の口元が緩み味の感想を伝えると、菜穂は顔を輝かせて嬉しそうに笑顔を浮かべた。
祐馬と菜穂がお裾分けでいただいている麻里花の手料理を気に入っているのと同じように、麻里花も菜穂の手料理は気に入っているようだった。
お互いに料理上手なので、次第にそう言った話に発展していくのはなんら不思議ではなく、おすすめの調味料や調理器具の話を始めた。
当然、その話についていけるわけのない祐馬は一人で静かに食べていて聞き手に徹している。
麻里花も基本は菜穂の話を笑みを浮かべ相槌を浮かべながら聞いていて、時折り自己主張しすぎないように適度な距離感と丁寧な言葉遣いで話していた。
ある程度話し終えたところで、菜穂が急に話が方向転換し始めた。
「麻里花ちゃん。祐馬の朝ごはん使ってくれてありがとうね。大変でしょう」
「いえ。自分のお弁当を作る流れでやっていますから」
「祐馬ったら言っても言っても朝ごはんよりもギリギリまで寝てたいーなんて言うから。それでね。ちゃんと『美味しかった』とかお礼の言葉とか言ってる?」
「あ、はい。学校終わってから入れ物返してもらうときに言ってもらっていますけど……」
麻里花の言葉を聞いた菜穂はなぜかホッと肩を撫で下ろすかのように吐息する。
「祐馬って普段のご飯のときとか『美味しい』とかあまり言わないのよ。こっちは仕事から帰ってきて疲れてても祐馬のためにご飯作ってあげてるっていうのに」
「い、いやいや。美味いっていつも言ってるだろ」
「本当に言ってる?」
「言ってると思うぞ……多分」
「でも今日は一度も聞いていないような気がするんだよねー」
ぐっと祐馬は言葉を詰まらせた。
この昼食中、一度も美味しいと言っていないのは確かだ。カルボナーラの最後の一口を食べた菜穂は「あーあ」と口にしたあと、
「寂しいなぁー。息子のためにいつも美味しい料理作ってると思っているのに言ってもらえないのって寂しいなぁー」
「あー!ごめんごめん!確かに言ってないよ!このカルボナーラめっちゃ美味いよ!サラダとスープもめっちゃ美味い!」
「なんか言わされているように聞こえるなー。母さん悲しいなー」
「言わされてねぇ!てかそれじゃあ何言っても無理じゃねぇか!」
次々と口に頬張って食べ進めて感想を述べる祐馬だったが、菜穂は変わらず悲しみに満ちた作り顔のままだった。
「……ふふっ」
その声に、祐馬と菜穂は耳を傾けて視線を向ける。麻里花が口元を隠して、小さな笑い声を上げていた。
「お二人ってとても仲がいいんですね」
「まぁそうね。世間一般の家族よりは仲が良い自信はあるわ」
麻里花の褒め言葉に菜穂は嬉しそうに便乗する。祐馬は残りの料理を食べ進めた。
☆ ★ ☆
昼食を食べ終えて、祐馬は麻里花を見送るため玄関前まで訪れていた。
「今日はありがとうございました」
「おう。まぁ俺は何もしてないけど。ていうかこっちこそありがとうな。母さんの相手とか色々と」
「そんなことありませんよ。楽しかったですし。本当に家族仲がいいんですね」
「別に普通だよ普通」
麻里花は羨ましげに言葉を漏らした。
仲は悪くないと思うが、菜穂が必要以上にちょっかいをかけてくるところが直して欲しい部分ではある。だが嫌いというわけではないしそれも含めて自分の母親なのだと思っている。
「それでは今日はこれで」
「おう」
「春休みだからってダラダラしてはいけませんよ」
「はいはい分かってるよ」
まるで親のようなことを言う麻里花だが、その表情は柔らかく笑っているようにも見える。
出会って一ヶ月と少し。祐馬は自分だけと思っているが、一生相容れない存在と思っていた高嶺の花との距離が、ほんの少しだけ縮まったような気がした。
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