第17話 高嶺の花と奏でた音色
放課後。
担任に提出物を運んでほしいと頼まれて、祐馬は職員室に足を運んでいた。
部活に所属していないのと、学校では比較的真面目な祐馬はこの手の仕事に駆り出されることが多い。
祐馬も断る理由はないので大抵の頼み事は引き受けている。頼む側も、静かであまり目立たないがお願いすれば文句言わず聞いてくれる祐馬は頼みやすいと思っているのだろう。
見方によってはただいいように利用されているかもしれないが、そこはある程度の信頼と信用はされているのだと良いように捉えるようにしている。
頼まれていた提出物を担任の机の上に置いて、軽く言葉を交わした後「失礼しました」と職員室を出た。
教室に戻ると、運動部の大きくて野太い声が窓越しから聞こえてくる。
最近は雪も降らなくなり外も少しずつ暖かくなってきて屋外で部活動を再開する部活動も増えてきた。木々に咲く桜の蕾が始めていたことを思い出し、春の訪れを感じながら鞄を担いで、祐馬は廊下を歩き出す。
生徒玄関に向かおうと階段を降りようと一歩踏み出そうとした直前、ピアノの音が聞こえた。
部活動の掛け声とは全く異質な、調律された旋律は澄み切った音色を校内に響かせていた。
放課後に突然音楽室のピアノが鳴り始めたとか、よくありがちな話を信じる者がこれを聞いていれば背筋が凍り慄いているのかもしれない。
祐馬はお化けや心霊現象は全く信用はしておらず、今起きている現象も誰かが弾いているのだろうと思っている。
それに今誰が弾いているのか、祐馬はなんとなく分かるような気がして、階段を降りようとしていた足を音楽室へと向ける。
近づくたびに耳朶を打つ鍵盤の音が大きく聞こえる。扉は少し開いていたので、祐馬は顔だけ音楽室に出して様子を伺うと、ピアノ椅子に腰を下ろしていた麻里花が美しい音色を奏でていた。
ちょうど一曲弾き終えたのか、閉じていた瞼をゆっくりと開けると、顔を覗かせていた祐馬と目が合って「あっ」と目を丸くして声を漏らす。
「まだお帰りになっていなかったのですね。どうしてここに?」
「頼まれごと終わって帰ろうと思ったらピアノの音が聞こえてさ。来てみたら扉開いてたからちょっと中を様子見してたら……って感じ」
「それはお疲れ様です」
「どーも。てか、ここのピアノって勝手に使っていいもんなの?」
「先生が特別に許可を出してくださっているので」
その程度のお願いなら学校側だって了承するだろう。学園の所有するグランドピアノは最高峰ブランドの代物だが、麻里花なら万が一にも壊す心配はない。
「音楽室、入られてはどうですか?そんなところにいては声も聞こえづらいでしょう」
「それじゃあ遠慮なく」
顔だけ覗かせていた祐馬は音楽室に足を踏み入れて、麻里花のいるグランドピアノの近くまで歩み寄った。
「いつから習ってたんだ?」
「小さい頃から……興味を持ったのは三歳くらいからで四歳から本格的に」
「へぇ。さっきも聴いてて思ったけど、めちゃくちゃ上手いよな」
「そうですね。コンクールで全国優勝したくらいには上手だと思いますよ」
「できるじゃなくて実際にしたのかよ。ピアノまでも一流の腕前かい」
まるで当たり前と言わんばかりに、涼しげな顔でさらりと口にしたので、祐馬は驚きを通り越して笑ってしまう。ここまで来ると、麻里花にできないことなんてないと本気で思ってしまうほどの才女っぷりを見せつけられた。
変に謙遜されるよりはこのくらい言ってもらった方が清々しさを感じるし、聞いている方も素直に凄いと思うことができる。
「今も放課後にたまに弾いているんです」
目を少し柔らかくさせた麻里花は鍵盤を撫でる。慈しむように触れる指先からは優しさが滲み出ていた。
祐馬はたまに、という単語に反応して、一つ尋ねてみた。
「……ってことはもうピアノに本腰は入れていないのか?」
「えぇ。元々中学までと決めていましたし、それなりに費用だってかかりますから。」
「まぁ衣装代とか遠征費とか色々あるだろうけど、雨宮家なら楽勝だったり――」
祐馬の声はここで途切れた。途切らせてしまった。
初めて顔を合わせて言葉を交わした時に一瞬覗かせた、普段学校で明るく振る舞う麻里花と本当に同一人物と思わせてしまうくらいに、悲しい顔をしていたから。宝石のように輝く水色の双眸は、霧がかかったように曇らせている。
「あまり迷惑はかけたくありませんので」
「そうか」
触れてほしくない部分だったのか、麻里花は暗い表情でしばらく閉じていた口を開いて、祐馬は頷いた。
これ以上踏み込むのは、祐馬にとっても麻里花にとっても良くないことは目に見えている。
「……でもピアノは好きですよ。こうして弾いてると楽しいですし、いい息抜きにもなりますから」
「まぁ好きなものは趣味程度で楽しむってのが一番楽しいだろうからな」
そう言った麻里花の瞳は失っていた光を取り戻していた。
「なぁ。最近の曲も弾けたりするの?」
「まぁわたしが知ってるようなものであれば」
「それじゃあ一つリクエストしてもいいか?好きなアーティストの曲なんだけどさ――」
「――それならわたしも知ってるので弾けますよ」
要望を伝えると、麻里花も了承して小さな吐息を漏らしたあと鍵盤を叩く。
麻里花の奏でる音色は、間近で聴けば淀みがなく聞き心地が良くて、いくらでも聴けそうなくらいで、コンクールで全国優勝したというのも納得できるものだった。
ピアノを弾いている麻里花もこの場を楽しんでいるようだった。その様子を見ているからこそ、さっきの憂いの表情がより一層際立たせていた。
☆ ★ ☆
音楽室を後にして麻里花が借りていた鍵を返しに向かっていた頃には、茜色だった空がすっかり漆黒に染まっていた。
校内に生徒の姿はもうほとんどなく、あとは体育館や屋外で活動している生徒たちくらいだろう。そんな人気のない正面玄関で、外履きに履き替えた祐馬は帰路には着かず、立っていた。
しばらく待っていると、向こうから麻里花の影が見えてきた。近づいてきた麻里花が祐馬に気がつく。
「待ってなくても良かったのに……」
「何回も言わせんな。夜は危ないんだから。それに別にいいだろ。どうせ場所一緒なんだし。嫌ならこのまま帰るけどさ」
「そうとは言っていないでしょう」
生徒玄関前だが、誰もいない安心感からかマンションで過ごしているときの麻里花で祐馬に接する。祐馬としてはそっちの方が多く見ているのでしっくりきた。
「雨宮。ほれ」
麻里花が靴を履き替えたところで、祐馬はすぐそこにある自販機で買っておいたココアを麻里花に差し出した。
「何が好きか分からなかったからとりあえず温かいココアにしておいた」
「わたしに?」
「わたし以外にここに誰がいるよ」
いいからほれ、と半ば無理やり麻里花にココアを手渡す。「ありがとうございます」と困惑しながらも受け取った。
「いくらでした?返します」
「いいよ。これは俺のおごりだ。バイトで稼いでるし」
「でも……」
「じゃあそれは今日の鑑賞代ってことで」
麻里花は鞄にしまっていた財布を取り出そうとしたところで、祐馬はそれを制する。
誰かに奢ってもらうことに慣れていないのか、若干困惑したように狼狽える麻里花だったが、いいから受け取れと、最後に言うと麻里花は小さく頷いた。
生徒玄関を出ると麻里花はココアを握りしめる力を強くしながら白い吐息をこぼした。
祐馬も手が冷えないようにブレザーのポケットに手を突っ込みながらふと空を見上げると、「おぉ」と声を上げる。不思議そうに祐馬を見つめる麻里花も釣られるように顔を上げると、水色の瞳を輝かせた。
黒に染まった空にいくつもの星が金色の輝きを放っていた。そんな美しい夜空を隣には高嶺の花の麻里花と見られる日が来るなんて思ってもいなかった。
「綺麗ですね」
「そうだな」
麻里花の一言に祐馬も首肯して、夜空に輝く星々を見上げながら、二人は帰り道を歩いた。
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