第14話 災難と高嶺の花の手助け
運がツイていない日は誰にでも必ずあることだ。
ほんの小さな不幸がずっと続くこともあれば、たった一度、とんでもない厄災に巻き込まれたりすることだってある。不幸の大小については個人によって受け取り方に差はあるが、とにかくツイていない日はとことんツイていないのだ。
自分に運気が向いているのかは、その身に降りかかった出来事で判断することしかできない。
だとすれば今日の祐馬の運気は最悪で、今の状況は後者に当てはまった。
☆ ★ ☆
「ツイてねぇ……」
弱々しく言葉を吐いた祐馬は、制服から雫を滴らせていた。
それは突然のことだった。降りしきる雨の中いつもの帰り道を歩いていると、背後から走ってきた大型トラックが水溜りを走行して、その水飛沫が祐馬に降りかかったのだ。突然の出来事だったので傘で身を守ることもできなかった。
幸いにも鞄に被害はなかったが、祐馬の髪と制服は濡れている。水飛沫には泥も混じっていて、純白のブレザーと灰色のズボンには茶色の汚れが染み付いていた。
なんとも酷い有り様で周りからの視線がもの凄く気になるところなのだが、ありがたいことに祐馬の周辺には誰の姿もない。
天候のせいでこうなってしまい、天候のおかげでその姿を誰にも見られないという、喜ぶべきか悲しむべきか複雑な心境となっていた。
吹き抜ける冷たい風が冷えた身体に突き刺さり、祐馬は身体を震わせながら寒さに耐えるようにして、帰路を辿った。
着いた頃には、水飛沫によるものか殴りつけてくる雨によるものか分からないくらいに全身から水滴が零れ落ちている。
エントランスに入れば冷たい空気から遮断された空間が祐馬を出迎えてくれて、冷えた身体を少しばかり温めてくれる。
「どうされたのですか。それ」
鈴のなったような声がする。
誰とは言っていないが、自分であることは明白だし、聞き馴染み始めた声だ。
そちらに目を向けると、黒髪の天使――ではなく、黒髪の少女がエレベーターのすぐ近くに立っていた。驚いたように目を開いて祐馬を見ていた。制服姿で水滴がついた傘を畳んでいたことから、麻里花もちょうど今帰宅してきたようだ。
温い空間のエントランスがあまりにも心地良く天国と思ってしまったので、麻里花がまるで天使と錯覚してしまうほどに。
「どうって……見ての通りだけど」
「傘はさされてたんですよね。なのにどうして全身びしょ濡れで泥が付いてるんですか」
「トラックに水かけられた」
「それは災難でしたね」
「全くだ」
麻里花は同情するような声音と面持ちを見せて、祐馬も頷きながら頬に伝う雫を制服で拭う。
ポタポタと服から滴る水滴で床を濡らしながら、ちょうど着いたエレベーターに乗り込む。
「早く身体温めないと駄目ですよ」
「あぁ。んじゃな」
エレベーターを降りて別れる直前、麻里花にそう声をかけられた。
制服の洗濯は、シャワーを浴びて綺麗さっぱりになったからあとでやることにするとして、祐馬は家鍵を取り出そうとした。
「……あれ?」
鞄を漁っていた祐馬が引き攣った表情を見せる。鍵が見当たらないのだ。もう一度鞄の中を確認しながら、今日家を出る前の出来事を遡ると「あっ」と声を漏らした。
普段は祐馬が家を最後に出るのだが、今日は都合で遅めの時間に家を出るとのことだったので、鍵は菜穂に任せて学校に向かった。だから今頃鍵はカウンターの上にポツンと放置されているはずだ。
水飛沫をかけられるだけでなく、家鍵まで忘れるなんてなんともツイていない……家鍵に関してはただ確認不足なのだが。
浅いため息を吐いたあと、祐馬は再びエレベーターへと足を向ける。
「どちらへ?」
「オーナーさんのとこ。家鍵忘れたからスペアキー貸してもらおうかと……」
そう言うと、「へっくしっ!」盛大にくしゃみをして、祐馬は思い切り鼻を啜りながら人差し指で鼻を擦った。全身には鳥肌が立っていて、再度鼻にむず痒さを覚えて、祐馬は「ぶへっくしょん!」とくしゃみを炸裂させた。
「……もし良かったらうちのシャワー使いますか?」
スッと歩み寄ってくると、麻里花は整った顔立ちに心配げな色を滲ませながら提案してきた。
「その様子だと思ったよりもだいぶ身体が冷えているでしょうから。鍵を無くしたわけではないのですから身体を温めてからでもいいと思いますよ。それにその格好で行くつもりですか?」
確かにびしょ濡れの泥まみれの制服姿で来られたら何事かと心配されるだろう。祐馬もそんな格好で人前になんて行きたくないし見られたくもない。
そうせざるを得ない状況だった中で麻里花の提案は非常にありがたいのだが、だけどそれ以上に思うことがあって――
「……雨宮は異性の同級生を家に上げるのは何の抵抗もない人なのか?」
「まさか。一条くんは隣人で他の方よりは知っている方ですし、状況が状況なので特別にです。それにあなたは別に変なことをする人ではないと思ってます」
「どうも」
「それに変なことをしてたとしても警察に突き出すだけですし」
「しねぇよそんなこと」
同級生の家で社会的に抹殺されそうなことをする勇気なんてないし、そんなことをする気もない。
だが現段階の評価は悪くないものといえる。ただし私生活の祐馬も麻里花は見ているので、だらしのない隣人の同級生程度の認識だろう。
「じゃあ……悪い。お言葉に甘えてさせてもらうわ」
でも最低限の信頼は得ているという表れだと思った。それすらなければ家にすら上げてもらえなかっただろう。申し訳なさげに眉を下げる祐馬に麻里花も小さく頷いて扉を開く。
「どうぞ」
「お邪魔します」
女子の家に上がるなんて経験はこれまでなかったので、少し緊張した面持ちで家に入る。靴下も既に濡れていたので、玄関に上がる前に靴下は脱いでズボンの裾も折った。
「靴下と下着は洗濯機に。制服は脱衣所にそのまま置いといてください。とりあえず水気を取らなければいけませんから……それにしてもそれにしても厄介な汚れですね……」
水分と泥が染み込んだ制服を、麻里花は目を細めながら厄介そうに見つめる。
「シャワー貸してくれるだけでも十分ありがたいんだけど。別に制服はそのままでもいいし……」
「一条くんにやれといってもやらないしできないでしょうから菜穂さんに任せるでしょう」
「なぜ分かる」
「私生活の一条くんを見れば分かります」
祐馬は料理を除いた掃除、洗濯などの家事はできないわけではないが、今回のような泥が付着したときの処理方法は知らない。麻里花の言う通り、菜穂が帰ってくるまで放置していただろう。
祐馬のいずれは家を出て一人暮らしする日が来るかもしれない。そうなったら一人で家事をこなさないといけない日が来るわけだが、祐馬の性格上面倒臭いと放り投げるのが目に見えている。
それを言葉を交わして間もない麻里花に見透かされているなんて思わなかった。
「それとシャンプーやボディソープは使いたければ使ってください。タオルは後で置いておきますから」
「うす」
そう言い残して、麻里花は脱衣所を出た。
いつもより冷えた吐息を漏らした祐馬は、せっせと衣服を脱いで浴室へと向かう。
「あー。生き返るー……」
蛇口を捻るとシャワーからお湯が降り注ぎ、祐馬の頭部と冷えた身体に染み渡って気の抜けた声が漏れた。
使っていいとは言っていたけれど、実際に使うとなると少し抵抗というか本当に使用してもいいのかと自分自身に問いかけてしまう。
散々悩んだ挙句、結局使わせてもらうことにした。
☆ ★ ☆
浴室から出た祐馬は置いてあったバスタオルに手を伸ばす。一条家とは違う柔軟剤の香りが、ふわりと祐馬の鼻腔に広がる。麻里花が返してきたフェイスタオルのときと同じ爽やかな優しい香りだ。
シャンプーもボディーソープも普段とは違う女性物を使用したので、いつもより肌がすべすべで甘い香りがして、少しドギマギしていた。
身体を拭き終えればとりあえず体操服に着替える。雨にも濡れていないし汗はかいていないので、その場しのぎには十分使える。下着はまだ洗濯中だったので、その下は何も履いていないので、変な感覚に襲われている。
タイマーには五分と表示されていたので、もうすぐ洗濯し終えるのだろう。
「上がりました?」
「あぁ」
コンコン、とノックする音と共に声がする。
小さく返事をするとそのドアがゆっくりと開かれた。
「シャワーサンキューな」
「どういたしまして。あと一条くんにはこれを」
そう言うと麻里花は祐馬に向けて手を伸ばす。
その手には銀色の鍵が握られていて、祐馬の手に差し出した。
「一条くんがシャワーを浴びている間にオーナーさんと話はつけておきました。鍵は開けたらすぐに返しにきて欲しいとのことです。それと制服の水気は拭き取ってドライヤーで乾かしておきました」
「分かった」
「それと汚れは制服が乾いた後にブラシでこすってください」
「すげ。なんでもできるのな」
「……なんでもできるようにならないといけなかったので」
弱々しく答えるその姿は初めて言葉を交わしたあの面影と重なった。その言い振りは雨宮家で何かあったかのようにも聞こえる。
「そうか」
何かあったとしても祐馬が突っ込んでいい話ではない。誰にも触れたくないことだってあるだろう。もちろん祐馬にだってある。だからそう答える以外なかった。
制服と洗濯物を受け取って、祐馬は玄関へと向かう。麻里花はお見送りで一緒についてきていた。
「雨宮。色々と助かった」
「はい」
「それと……もしかしたらまた迷惑かけることがあるかもだけど、これからもよろしく」
「一番はそんなことがないことですけど。あとどうしたんですか改まって」
「いいだろ別に。こんなこと言ったって。隣人なんだから」
大きく目を開いた麻里花が驚いたように訊ねてきて、口を滑らせてしまったことを後悔しながら、祐馬はムッと顔を顰めて視線を逸らす。
「でも……そうですね。これからもよろしくお願いします」
学校で見せる笑顔とは違う、力感のない自然体な表情は、祐馬の心臓をトクンと鳴らせた。
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