第10話 高嶺の花と雨の夜

 バイトを終えた祐馬は帰り道を歩いていた。

 時刻は七時を過ぎているので、往来する人の姿はほとんどなく時々自動車や自転車が通り過ぎるくらい。


 頭部に感じた僅かな冷たさに、祐馬は天を仰ぐ。漆黒に染まっている空からはポツポツと水滴が地面に落ちて、祐馬の身体を濡らしていく。


「最悪だな」


 天気予報では今日は雨は降らないと言ってたので傘は持ってきていない。のんびりした足取りを少し早くして、祐馬は自宅へと急ぐ。


 小雨がいよいよ本格的に強い雨へと変わっていき、祐馬の早足に勢いがつき始めて走り出す。


 どんどん強まっていく雨の中、ひとまず雨が落ち着くまで待つしかないと判断して、近くの屋根の付いたバス停を見つけ、そこに避難した祐馬は大きな息を吐いて呼吸を整える。


「……一条くん?」


 街灯が少ないのと息が切れていたこともあって先客がいたことに気がついていなくて、祐馬が後ろを振り向くと、バス停のベンチにちょこんと腰掛けていた麻里花が訊ねるような声を発していた。


「なんでいるんだよ」

「いたら何かまずかったですか?」

「違う。なんでこんな時間に外にいるんだって話。危ないだろ」

「危ないってまだ七時を回ったくらいでしょう。それと見ての通り買い物帰りです」


 麻里花が座る隣の席にはエコバッグが置かれており、大根の葉が飛び出るように顔を覗かせていた。


「帰宅途中で雨に打たれまして。それで雨宿りをしていたというわけです」


 麻里花の手元には傘は見当たらない。

 祐馬同様、今日は傘は不要だと思ったのだろう。

 くしゅん、と小さくくしゃみした麻里花の髪や羽織っていた白のロングコートは水分を含ませている。祐馬よりも早くバス停で雨を凌いでいたのだから、麻里花の方が雨に打たれていた時間は長いはずだ。寒さからか身体も少し震えているように見えて、手に小さく息を吐きかけた。


「これ使えよ」


 祐馬は鞄から取り出したタオルを差し出す。

 麻里花はタオルを受け取る素振りを見せず、祐馬を見つめて目を瞬きさせていた。


「言っておくけど未使用でちゃんと洗濯だってしてあるからな」

「そういうわけではなくて。一条くんだって濡れてるではないですか。わたしのことはいいですから早く拭かないと風邪をひきますよ」

「俺はハンカチあるからいい。それに雨宮もそのままだと風邪ひいちまうだろ」


 受け取らなかったのはタオルが既に使ったことを気にしているのではなくて、祐馬のことを思ってのことだったらしい。

 いいから受け取れと半ば強引渡すような形で、麻里花にタオルを手に取らせた。


「ありがとうございます」

「おう」


 小さくお礼を言うと、タオルで濡れた髪や肌を拭き始めた。

 雨で濡れてしっとりとした黒髪。肌に付着した一筋の水滴が首筋を伝う。それを拭き取る麻里花が祐馬の目には少し色っぽく映ってしまい、くるりと背を向けて取り出したハンカチで拭う。


「ところで一条くんこそ何故この時間に制服で歩いていたのですか?」

「バイトしてたから。ほら。前のお礼にカフェのチケットあげただろ。あそこで働いてんだよ」

「なるほど。お礼という名目で渡して新規客を引き込んで売り上げを伸ばす。中々の策士ですね」

「策士って……ただの善意だっつの」


 綺麗な顎に手を当てて納得したように小さく頷く麻里花に祐馬は苦笑を浮かべながら否定する。口ではそう言いつつも、結果的にそのような形となってしまうので強く言い返すまでとはいけなかった。


「拭き終わったなら貰うよ」

 

 髪の水気を拭き取えてタオルを綺麗に折りたたんでいたので祐馬は手を前に伸ばす。しかし麻里花は首を横に振った。


「いえ。洗濯してお返しします」

「別に気にしなくてもいいのに」

「こういうのは借りる前と同等の状態でお返しするのが筋だと思うので」

「義理堅いこった」


 借りっぱなしは嫌ということだろう。

 祐馬も受けた恩は仇で返すのではなく返したいと思う人間なので気持ちは分からなくもない。小さく畳んだタオルをキュッと握りしめていたので、祐馬もその手を引っ込めた。


「雨、少し止んだか?」


 ポツポツと屋根を叩く雨音が弱くなって、顔を覗かせる。あれだけ強かった雨の勢いは、今はかなり落ち着いている。


「帰るなら今のうちですね」

「だな」


 麻里花は立ち上がり、エコバッグを腕にかけて歩き出す。続いて祐馬も彼女から少し離れた位置で歩を進めた。


「なんで一緒に歩いているのですか?」

「女の子一人で夜道を歩くのは危ないだろ。家も一緒なんだから送ってく」  


 祐馬の歩幅は麻里花に合わせて小さくいつもよりゆっくりとした速度で歩いている。


「わたしに合わせる必要なんてありません。先に帰ってもいいのですよ。一応武道の心得はあるので」

「そういう問題じゃない。一人は危ないって言ってんだ」


 一人でも大丈夫と口にする麻里花に、祐馬は心配とほんの少しの怒気を込めて伝える。

 最近は色々と物騒で、そのようなニュースをよく見かける。祐馬たちが暮らすこの地域は治安が良いとは思う。だが夜道は何が潜んでいるか分からない。麻里花のような誰もが目を引く美人なら尚更危険だ。そんなとき誰かが近くにいればそんなことをされることだってないだろう。


「別に無理に話なんてしなくてもいいよ。人避け程度にいるかかしだと思ってくれればいいから。それに俺はそんなことするつもりなんてないし、仮に雨宮に変なことをしようものならそれこそ武道の心得の使えばいいだろ。見ての通りそんな心得は何も持ってないんだから、そんな奴は一捻りだろ」


 それに学校ではまともな繋がりがないとはいえ、縁があってマンションの隣人になったのだ。麻里花の身に何かあれば祐馬も目覚めが悪かった。


「……それではお願いしてもいいですか?」

「おう」


 麻里花はしばらく考えるように沈黙を続けて、やがて口を開く。祐馬もその言葉に首を縦に振った。

 街灯と住宅街の灯りだけが照らす静まり返った夜道の中、祐馬と麻里花はお互い黙りこくって帰り道を歩いていた。


 別に沈黙が気まずいと思うことはない。

 下手に喋って変に気まずくなるよりはよほどマシだし気が楽だと思っていた。


 その後も特に言葉を交わすことはなく、祐馬たちはそのままマンションへと戻り自分たちの部屋へと戻っていく。


 扉を開ける直前、「一条くん」と声がかけられて首を横に向ける。


「送っていただいてありがとうございました。それとタオルも」

「あぁ。風邪ひかないように身体温めろよ」

「一条くんも。おやすみなさい」

「おやすみ」


 最後に挨拶を交わして、お互いの部屋の玄関の扉を開けた。

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