第3話 高嶺の花とご近所さん

 顔を合わせてから数秒が経過したが、祐馬は呆けた表情を浮かべて微動だにすることなくただ固まっていた。


「なんで雨宮……さんがここにいるんだよ……」

「このマンションに引っ越してきたからです。それを言うなら一条さんこそ」

「ここが俺の家だからだよ。一条って名札があるだろう……ん?どうして俺のこと知ってるんだ?」

「どうしても何も高校の同級生だからですよ」

「いやいや。俺ら接点ないだろ」


 学園でお姫様と言われる麻里花のことを知らない生徒はいないが、今まで目立ったことのない祐馬のことを知っている生徒は、蓮司を含めて数える程度しかいない。まさか話したこともない祐馬のことを知っているとは少々驚いていた。


「同級生の名前と顔は全員覚えていますから」

「平然と凄いことを仰られますね」


 とんでもないことを言いのける麻里花に祐馬は苦笑を浮かべる。そのとんでもない記憶力も勉学に活かされているのだろう。


「で、何を渡しに来たって?」

「これです。先ほど菜穂さんにお渡ししたものとは別に用意していたのですが、渡し忘れてしまったので。どうぞ」

 

 麻里花の手を塞いでいた小さな紙袋が差し出され「それはどうもご丁寧に」と祐馬はそれを受け取った。


 ところで、と呟いた麻里花は祐馬に向けていた水色の瞳を顔から胴体へと移っていき最後に足元を見た。

 

「その格好は?」

「見て分かるだろ。寝衣」

「もう十時ですよ」

「さっき起きた」


 今の祐馬の服装は寒さを凌ぐために機能性を重視した上下黒の寝衣だ。


「休みだからって少しだらけすぎではないのですか?」

「いいだろ別に。休みなんだから」


 そう言った祐馬は手で隠しきれないくらいの大きな欠伸をして目を軽く擦る。


「ちなみに昨日は何時頃就寝されたのですか?」

「あー何時だっけかな。確か一時か二時過ぎまでかな」

「何をされて?」

「友達とゲーム」


 昨日から今日の深夜まで蓮司とゲームに熱中していたのが夜更かしの原因だ。時間を忘れてやり込んでしまうゲームは最早魔物とかしか言いようがないのだが、楽しいのだから仕方がない。


「体調崩しても知りませんよ」

「ご心配なく。十分な睡眠時間は確保しているから」

「そんな時間に起床したら明日は間違いなく遅刻してしまいますよ」

「目覚ましかけて無理やりにでも起きるから」


 のほほんとした口調で言う祐馬を見ていた麻里花から呆れ果てたようなため息がこぼれた。

 母親だな、と思っていると「何か?」と目をスッと細めながら訊かれたので「いや何も」と首を横に振りながら、心読まれた?と内心焦っていた。


 麻里花のことだ。夜更かしもせず理想的な生活リズムで日々過ごしているのだろう。寝る前にはヨガとかストイックなことをしていそうなイメージがある。

 というか――


 (なんで引っ越してきたんだ?)


 祐馬の頭の中に浮かんだのはたった一つの疑問だった。

 超大手企業雨宮コーポレーションの社長令嬢ともあろう人がなぜこのマンションに、しかも一人で引っ越してきたのか。


 祐馬たちが暮らしているマンションは2LDKでセキリュティもしっかりしている。高校も歩いて十五分ほどで近くにはスーパーや病院など充実している。やりたいこともやらせて貰っているので生活に不満は持ったことはないし不便とも感じていない。

 だがそれは一般家庭の視点の話であって、麻里花のような上流階級の人間からすれば質素で物足りなさは感じることは間違いない。生活面では雨宮家で過ごしていたときよりも数段落ちることは明白だ。


 主観的には見れば麻里花が一人暮らしをするメリットがあるようには思えない。雨宮家の教育方針で自立できる力を身につけるためと言われればそれまでなのだが。


 祐馬はその疑問を口には出さなかった。

 訊いたところで別にどうこうなるわけではないし、そもそも今日初めて話した男子生徒に話そうとは思わないだろう。


「あら祐馬くん。おはよう」


 顔を向けると女性と五歳くらいの男の子が手を繋いでいた。祐馬と同じ階に住んでいて菜穂とそれなりに付き合いのあるご近所さんだ。


「おはようございます」

「おはようございます。初めまして。今日から引っ越してきた雨宮と申します。ご迷惑をおかけするかもしれませんがこれからよろしくお願い致します」

「わざわざご丁寧に。初めまして。斎藤です。こちらこそよろしくお願いします。ほら。挨拶は」

「こんちわ!」


 女性が促すと、手を繋いでいた小さな男の子はぺこりと頭を下げて元気いっぱいな挨拶をした。


「はい。こんにちは」


 目線に合わせるように膝に手を置いて微笑を浮かべると、男の子は嬉しそうに笑って続いて祐馬を見て、


「ゆーまにーにもこんちわ!」

「こんにちは。今日も元気だな。何かいいことでもあったのか?」

「おかしかってもらったんだ!」

「そうか。良かったな」


 祐馬も表情を柔かなものにすると、「うん!」と男の子は大きく頷く。母親はそんな息子の頭を優しく撫でた。


「それではわたしたちはこれで」

「はい。また後ほどご挨拶に伺わせていただきます」

「ばいばーい!」


 女性は軽く会釈をして少年は無邪気な笑顔で手を振ると、自分の部屋へと向かい歩き出した。


「雨宮……さん?」


 祐馬の問いかけに返事はすぐに返ってこなかった。

 麻里花は二人の後ろ姿をただ黙って見つめていた。お人形のような美しいかんばせを曇らせて、水色の瞳は二人を羨ましげに見つめていた。


「……あっ。すみません。少しボーッとしてしまいました」


 ハッとして申し訳なさそうに答える。

 一瞬覗かせたあの表情は影を消していた。


「いや。別に謝る必要はないんだけど」

「あと無理にさん付けをしなくてもいいですよ。呼びやすいように呼んでください」


 雨宮とさんとの間に若干の間があったことに気がついていた麻里花が一言。いきなり初対面の相手に呼び捨てにするのはマナー的にどうなのかと思いそう呼んだのだが、本人が了承したのなら遠慮なく呼ばせてもらうことにする。


「分かった。これからは雨宮って呼ぶ」

「はい。これからご近所同士よろしくお願いします」

「あぁ、こちらこそよろしく」


 麻里花は最後に軽い会釈だけをして、部屋へと戻っていく。数秒ほどその姿を眺めた祐馬は玄関の扉を閉めた。


 (なんであんな顔してたんだ……)


 学校でも見せたことのない憂いな面持ちを間近で見てしまい多少なりとも動揺していた。振り払おうと首を横に振るが、祐馬の脳裏には麻里花が見せた今にも崩れてしまいそうなあの顔が強く焼き付いていてしばらく離れることはなかった。

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