第三章『真冬の聖霊降臨祭』


夜空に浮かぶ青白い月が、壊れた屋根の穴から室内を照らしている。

 夜の七時五十分。周辺の森に生息する梟の鳴き声が聞こえてきた。

 中央にもたれ掛かった瓦礫の山、最奥に弾け飛んだ炭の跡、周囲に吹き飛んだデスクが散乱する研究室。

 月明かりと瓦礫の影を被りながら、ミシェルは携帯端末を忙しなく操作していた。

 黒焦げの椅子は落ちているが、自分がどれだけ華奢でもその体重を支え切れるか不明な為、ミシェルは地べたに座っている。

「『魔力操作による低酸素状態の予防と外側構膨張の同時解消の成功』医療への魔法的介入?『電極技巧による浮腫の排除』これは、精製したクローンへの処置?」

 辺りには全焼はしていない書物が放射線状に並べられている。

 タイトルや著作者名の一部が読める程度だが、無いよりマシと棟を引っ掻き回して集めた物たちだ。

「連邦と帝国……『虚血性脳症を防ぐ論証』連邦側が謎に引き下がったあれだっけ?」

 内容の緻密さというより、謎に紐付けられている単語を目次から探すように、遺伝子工学関連、帝国とブリヤートのここ最近起きた悶着を精査していく。

 そちらを口に出して処理しながら、ミシェルの脳内は先程ハッカーに開いてもらったカード内の情報をなぞっていた。

 一面に広がる漆黒の渦。

 何を表しているのか、何が導き出されるかも、不明。ただ新企画主任とされる者が書いた事だけが判明している。

 見ているだけで、不安になってくる絵面だ。頭の奥からチリチリと焦げ尽きていくような感覚に苛まれる。

 これを書いた人物は気が触れていたのでは?とその精神状態を疑ってしまうくらいには。

 渦巻きの中には、所々に横文字が記されている。塗り潰されてしまっている字が殆どだが、辛うじて解読出来たものもあった。

 ——ハンプティ・ダンプティ——

 塀の上の卵が、何故クローン技術を研究する施設から見つかるのか?ミシェルは床に置いたパソコンを睨みつけ、やがて溜息を吐く。

「だぁ〜〜〜めだぁ。どういう意味なんだコレ」

 背後にあるデスクの引き出しに背中を預け、端末から顔を離す。

 共和国、ないしはバイカル生化学研究所が隠す魔女を暴き、帝国侵攻の理由を見つけ、前線で今も戦うオリヴィエ達に真実を届けなければならないのに。

魔女に関わる書物がこれだけあるのだから、研究所がただクローン技術のみを扱ってきた訳ではないのは明白なのに。

 掴み掛けた魔女の尻尾が幻覚だったような焦燥感を、ミシェルは首を横に振って払う。

 長時間ブルーライトを浴びた目を解し、アナログの書物を手元に寄せる。

『フルスクラッチ臓器技術から####』『####の人工胎盤』『前成説の否定』燃やされた学術書を撫でながら、もう一度、冷静になって技術情報の謎を解こうとした。その時。

 スコンと、一件の通知が入る。

「‼︎」

 がばりと飛び起きて、端末の画面に食い入り、チャットルームを開く。

【O:大変なことになった】

 面倒になったの次がこれなので、状況が悪くなっていることに歯噛みする。

【M:周りに人いないから音声通話でも大丈夫だよ】

【O:鼓膜がイカれてやがるから、何言われても聞こえねぇよ。あのクソデカ蓄音機、敵に回したら厄介だぜ】

 音響兵器……敵性の箒星グラビティアなのか、歩兵による物なのか、その場にいないミシェルが聞き返そうとして、

【O:いや俺たちよりもヤバいのは、こっちの箒星グラビティアが撃墜されたことだ】

「え……」

 体感温度が一気に下がり、指先が画面の文字盤の前で止まる。

【O:だからお前は逃げろ】

 矢継ぎ早に投げかけられた爆弾に、ミシェルは呼吸も忘れて返信する。

【M:何言ってるの⁉︎】

【O:帝国の侵攻は止められなかった。ここからウラン・ウデまで五千キロはあるだろうが、悠長な事も言ってられねぇ】

 この研究所が、ここの観光地が、この共和国が、戦場になる可能性を突きつけられる。

【O:お前はインターン制度でうちに来た、正規の軍所属の人間じゃない。だからそれは敵前逃亡には当てはまらない】

【M:そうだけど、そうじゃなくて】

【O:そもそもお前はトラップセラーの都合で巻き込まれただけだろ】

 相手の言葉を止められない。動揺で文字を打ち間違えては消してを繰り返すせいで、そこから回復するより早く、相手からのメッセージが流れていく。

【O:何も知らないまま、知らないフリして、頼みの魔女様が墜ちた事だけ伝えりゃ共和国だって対応してくれる筈だ】

【M:ちょっと待って】

【O:だから逃げろ。お前を責める奴なんて居ない。居たら俺に言え】

【M:ねぇってば!】

 それきり、返信は来なかった。

 既読マークが付いているので、会話中に不測の事態に陥った訳ではないのだろう。

 それも推測しただけ。殆どのチャットが一方的に押しつけられてしまった。

 文面から、心配してくれているのは伝わってくる。

 逆にそれ以外の全部が打ち切られて、端末の向こう側がこれからどうするのかは不明瞭だ。

 変化のなくなった画面を眺めて、ミシェルはふと、そこに書かれた一言を口から溢す。

「蓄音機?」

 ミシェルの頭の中で、何かが引っ掛かり、中心へと寄せられていく。

 それは今まで調べていた単語と、これまでも蓄えていた既存の知識たちで、暗がりからそっと顔を出してくる。

 しかし、指示を無視してまで、これ以上の調査を続行することは——

 

『お前がやってるのは鋼の格子を外してその手を汚してまで花びらを掬いとる行為だ』

 

 ——偽善、奇行、余計なお世話、人はそれを異端と呼ぶ。どうせ力不足なら、最初から関わるなと忌避する。

 いつか言われた言葉を思い出して、俯き拳を握り締めた。

 だから言われた通り、何も知らないままでいれば良い。無知は罪だが愚か者を装うのは処世術の一つだ。そうやって身を守れと、守って貰えと言われたのなら尚更だ。

 見て見ぬフリをして、耳を閉じて悲鳴を遮断して、このまま通り過ぎてしまえばいい。戦に巻き込まれない為なら、それも許される。

 けれど、そうだとしても。

 冷気を肺に吸い込んで、空を見上げて、ちらほらと舞い散る白い斑点を、視界に入れる。

 雪が再び降り始めていた。星空を、分厚い鼠色の雲が覆い尽くしながら。

 

  ◇◆◇◆

 

 もう九年も前の出来事を、燃え盛る屋敷の夢を、見た気がした。

自分を助けた使用人メイドが処分されてから、オリヴィエの父親へ向けた反抗心は顕著になった。

 本来であればその実力とリシュリューのブランドにてトラップセラー内で出世コースを進めた筈の彼は、それを蹴って海外派遣統括局の一般入隊試験を受け末席に加わった。

 父親の意向に従ったら、そのやり方を認めることになりそうで。やり方を認めてしまえば、使用人の処分も正しかったと認めるようなのが、無性に嫌で。

 自分を助けた魔女に悪者の烙印を押したくない。オリヴィエは己の戦う理由を再認識する。

 瞼の裏に溶けて消える使用人の姿と入れ替わるように、オリヴィエの意識は浮上する。

 オリヴィエが瞼をうっすら開けると、自分の太腿が見えた。視界は暗いが、突き刺す外気が無いため室内に居ると判断出来る。

 腰を落ち着けている姿勢に、椅子に座らされていると理解する。

 辺りを見回そうとすれば、頭が鈍痛を思い出して眉を顰める。耳鳴りが居残っており、吐き気すら催している。

 夢見の悪さが全身へ緊張として伝わるのも相まって、理性を頭へ巡らせること自体が億劫になってしまう。

 せめて自分の状況を確認する為に身を捩ろうとして、手首が、足が、胴体が、縛られているのに気づく。動けるのは首回りだけだ。

「思ったより早く気づいたな」

 野太い声がした正面に顔を向けたらあのゴリラが居た。

「ぎゃああぁあああぁぁぁああ‼︎‼︎」

 訂正。オリヴィエの身長より頭一つ分デカいレオンハルトが立っていた。

「自己紹介はしておこうか。先陣開城大隊……まぁ要するに先遣隊の指揮を取っている、レオンハルト・フリューリングだ」

 スカーレットに教えられるまで気付かなかったが、その名前はオリヴィエも噂で聞いたことがある。

 極夜の帝国が所有するサウィンに、恐ろしく強い軍人が居ると。

 一人で一個師団並みの戦術価値を持つ怪物。剛腕無双。曰く、剣を振らせたら終わりとも。

 第四の帝国が誇る軍事的特記戦力の一角。生ける伝説レオンハルト・フリューリング。

 叫んだせいで脇腹に激痛が響いて、身を強ばらせる。

 目の前の巨漢が動いたわけではない。装備に隠れて見えないが、痛みの種類から酷い青痣が浮かんでいるのだろう。

 身に覚えはないが心当たりはある。スノーモービルの運転中に気絶したのだ。大方、放り出された先の針葉樹に胴体をぶつけたのだと察せる。

「お前さん達、皆んな開口一番それなんだよな。流石に傷付くぞ」

 肩をすくめて苦笑するレオンハルトが、室内電灯のスイッチを付ける。二人以外何も置かれていない、殺風景な灰白色の長方形が広がっていた。

「達って、他の奴らも居るのか⁉︎つうか何処だよここ!」

「心配なのは分かるが、そうがっつかさんな。ちゃんと説明の義務は果たすさ」

 きゃんきゃん吠えるオリヴィエを宥めて、レオンハルトは腕を組む。

「お互いの斥候がかち合ったんだ。戦況が拮抗していたから俺が前に出た。それで全員捕縛して、俺たちの拠点の方が近かったからな、ここに収容した。あぁ、脳震盪で昏倒してもらっただけだから安心しろ」

「殺さなかったのか」

「殺さず済むならそれに越したことは無いだろ?」

 そしてオリヴィエを指差す。

「因みにお前さんはシンプルに音響外傷。それから目の前で事故に遭われた時は肝が冷えた」

「なりの割に繊細なんだな」

 下手に優しさと表現したくないが、敵の筈なのに、トラップセラーに対して配慮しているように見える。話していると調子が狂ってしまう。

「お前さんと同じ理由で無力化された奴らもここに運んだ。部屋が窮屈になっちまったんで、お前さんだけ別の部屋に入れさせてもらった」

 どこまで本当かは分からない。仲間が捕まっただろうことは、身をもって知ったレオンハルトの剛力とグランギニョールのスピーカー兵器からしておかしくないが、オリヴィエが疑っている事は他にある。

 囚われた仲間の存在、即ち自分以外の情報の漏洩源を示唆しつつ、独り監禁された敵に対し『先に話した方を助ける』と提案する。

 尋問のやり方としては珍しくは……

「ここまでの説明は済んだな?ここからの取り引きといこう。捕虜になる事に頷けば、適切な治療を施そう。拘束はするが、ブリヤートに陣取る第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークを制圧次第、解放するつもりだ」

 このまま大人しくしていれば出してあげるよと言われた。何やら知らない組織の名前が上がった筈なのに、そのことは一旦脇に置いてしまう。

「は?……え、この状況で尋問も拷問もしねぇの⁉︎」

「拷問は条約違反だぞ?大体——」

 レオンハルトは首を傾げ、顎髭を撫でながら。

「——トラップセラーは、何も知らずに利用されていたんだろう?」

 憐れみを含んだ視線がオリヴィエに突き刺さる。お前達から聞ける情報は何も無いと突きつけられた。

 当然といえば当然。第七空挺舞台はグランギニョール討伐と帝国の目的を探る為に遣わされたに過ぎない。

 帝国のサウィンと共和国の研究所間で起きている争いに於いて、トラップセラーは蚊帳の外に居る。

「そうだな、なんも分かってねぇよ。テメェらは何の為に何の情報を盗んだ?ブリヤートの魔女は何者だ⁉︎」

 縄を軋ませながら前のめりになった結果、再び脇腹の痣に痛みを主張されて怯んでしまう。

 その呻きをレオンハルトは呆れた顔で見ながら、灰色の頭をがしがしと掻く。

「がっつくなって言っただろう?……俺たちの目的はクローン精製の技術情報とそれにより複製された魔女だ」

「人を騙すのが下手くそってのは本当なんだな。複製体は魔女にならねぇことくらい知ってるぞ。説明の義務を果たすって言っただろ」

 縛られた格好のまま、声音を低くしてレオンハルトを睨み上げる。

「……駄目だ。それに、これは知る者が増えるほど。お前さん達だけの問題じゃないんだよ」

 すっと、ゼニスブルーの目が剣呑になり眉が顰められた。

「ふざけんなよ!こっちはとっくに巻き込まれてんだぞ⁉︎仮に俺たちが諦めても上が納得する訳ねぇだろ!」

 蚊帳の外で関係は無い。否、利用された以上関わりは出来てしまっている。それを黙って見過ごすことは許されないだろう。

「……捕虜になる気は?」

 それでも、これ以上教えるつもりはないと示された。

「首を横に振ったら殺すのか?」

「だから殺さないって言ってるだろ。そも、うちのお嬢さんが健在なんだぞ?ここから戦況をひっくり返すつもりなのか?」

 諦めようとしない若さと青さに、いっそ羨望すら含んだ余裕を持って部屋を出ていくレオンハルトの背中へ、オリヴィエは背後で縛られた右手の中指を立てながら吐き捨てた。

「はぁ〜〜〜??ウチの魔女様が撃ち落としますが〜?……いや無事か分かんねぇけど。マジで外の状況が入ってこねぇけど!スノーラビットはどうなった⁉︎」

 

  ◇◆◇◆

 

 木々が左右に薙ぎ倒された森林の一角、積雪の白を裂くように抉れた、地面の先。

 半身が消失し、配線が剥き出しになったスノーラビットの本体が倒れている。

 雪兎に直撃したのは、隕石の衝突による影響を調べる実験。衝突の威力を火薬とヘリウムを用いて再現する装置が、兵器に転用された姿——超速空気砲ライトガスガンから発射された砲弾だ。

 全壊を免れたのは、スノーラビットが棺の砲台……個別ユニットを有する形態だったのに他ならない。

 砲撃が当たる間際に展開した、重力結界ドレスコードを施された五つ分の盾は、その分厚さで単純威力最強の弾を減衰させる事に成功していた。

 そこまでしてもなお、大破よりの中破。戦闘続行は不可能に近い損傷具合だ。

 盾に使った棺は破れたように損壊し、恐らく同じ手はもう使えない。

 そもそもパラメトリックスピーカーによる不可視の牽制を掻い潜れたのは、棺が無人だからだ。有人である本機が動けないのでは意味が無い。

 本機の内部は、暗闇に包まれていた。

 外周を映していた画面はひび割れ、外からの圧力でひしゃげたコクピットは二回り程狭くなっている。

 黒づくめの魔女が、その闇に溶けてしまいそうに倒れていた。

 空調設備も壊れ、段々と気温が下がっていき、頭から流れる血の生暖かさが際立ち始める。

 破壊された計器から不規則に火花が散る音で、ゆっくりと瞼を押し上げた。

 ぼやけて見える操縦室内に、誰かの声が響く。

『こちらポイントブラボー!スノーラビット!応答せよ!生きてるなら返事をしてくれ‼︎』

 箒星グラビティアのスピーカーは壊れている。声の出所は個人で持ち込んだインカムからだ。

「あたま、きんきんするから、おとして」

 声量をと言い足す気力は無い。どれだけ自分の身を魔法でコーティングしていても、骨の軋みと内臓を直接袋叩きにされたような痛みが体中を押さえつけていた。

 左足の感覚も無い。折れている。

『臨時偵察班からの伝令だ。無人ドローンの観測結果、空気清浄器の通気口が押し潰されている。酸素が無くなる前にマスクを確保してくれ』

 自分の真横に倒れている椅子の側面を、重い指で引っ掻く。

 開けられた引き出しの医療キットから、バラバラと小型の酸素マスクが溢れ出す。

「あ……視覚がまずい。一個しかはいってないはずなのに、沢山にみえる」

『っ!ポイントフォクストロット、治療班の——』

『こちら整備基地!すんませんそれ予備を補充の際に桁をミスりました!』

『紛らわし真似をするな馬鹿者!』

 くらくらと感じる眩暈と、鼓膜を叩いてくる応酬が小さな空間を占領する。

 頭痛が吐き気を連れてくるので、ユスティーニはマスクを付けながら顔を顰める。

「ぐらん、ぎにょる、は?」

『後退した。重力解析装置が生きていれば追跡可能だが、恐らく何処かにサウィンの基地がある筈だ。万全の状態で共和国に攻め入るつもりだろう』

 少しでも不調を吐き出して楽になろうと努めるユスティーニの隣で、状況報告がインカムから流れていく。

『こちら医療班!サウィンの強襲部隊が接近中!スノーラビットに近づけません!』

『ポイントエコー、その拠点はもう使い物にならない放棄しろ。そのまま医療班と合流、敵の捕縛に当たれ!日も沈み切っているから注意しろ』

『こちらポイントデルタ、無事な機材の回収完了。これより装填作業に入ります…本当に食い止められるんですか⁉︎』

『持ち堪えろ!ここを落とされたら本当に負けるぞ!』

 負ける。スノーラビットの撃墜により、戦況は圧倒的不利に傾いた。

 グランギニョールが無造作に放った超音波でどれだけの味方がやられたのか分からない。

 前線付近に居たオリヴィエを含めた斥候班はただでは済まなかっただろう。

 そのグランギニョールがこちらを脅威と捉えなくなっても、サウィンの強襲部隊による追撃は進んでいる。

 自分が、動かなければ……そう体に鞭を打とうとするのに、ユスティーニの意識は再び溶け始める。

『スノーラビット?意識を保て!おい貴様らもっと声量を上げろ!』

 血が、足りなくなってきていた。

 はくはくと口を動かして返事をしようとしても、声とならずに消えてしまう。それがもどかしくて、下唇を思い切り噛んだ。顎の力だけで現実に齧り付いて、意識の落下を防ぐ。

 暗がりが、漆黒の闇がユスティーニの意識を引きずり落としす為に覆い被さってくる。

(負けない。守らなきゃ……なら、きっとそうする……!)

 歪む視界で暗闇を睨みつけながら、彼女は引き出しの医療キットに手を突っ込んだ。

 

  ◇◆◇◆

 

 先遣隊の拠点は、漆黒の飛空艇に収容されていた大小八十程の軍用車両で構成している。

 コンテナから取り出された機材で作られた即席の整備基地には、そのトラックを空路でここまで移送してきたグランギニョールがメンテナンスを受けていた。

 その他についてはコンテナそのものを部屋として活用しているのが殆どで、捕虜用の営倉も存在する。

 現在、前線実働部隊の虜囚(仮)がぶち込まれている営倉には、扉の外で二人の兵士が見張りをしていた。

「今回の作戦、意外と長丁場になりそうだってのに、もうこんなに捕虜溜め込んどいて大丈夫なんかね」

 黒髭の生えた監視に振られた話を、金髪の若い相方は端末を眺めたまま返答する。

「進軍中に帝国の増援も追い付くって話、聞いてなかったのか?まぁそうでなくとも、あいつらが降伏を受け入れなければ、結局処理することになるだろうし」

「おっかねぇ、おっかねぇ。中の奴らに聞こえないようにしろよ」

 笑って肩をすくめながら、黒髭の監視は煙草の箱を振りだす。

「おい煙草はやめろ。匂いが付いたらこの先どうするんだ」

「どうせ俺たちは後方待機だろ。それに今回はあのフリューリング少佐も居るんだから大丈夫だって」

 中々着火しないライターを何度も打つ黒髭男に、金髪の男は嘆息を吐く。

「どうにも、急な投入だったらしいな——」

 金髪の監視は全てを言い終わる前に、扉の隙間から伸びた手に口を塞がれ営倉の中に引き摺り込まれる。

「ふぅん。あぁこのライター駄目だ。なぁ火ぃ貸してくれよ」

 口に挟んでいた煙草を手に取り、相方の方を振り返った男の眉間に銃口が突きつけられた。

「いいぜ。銃火器チャカで構わねぇよな?」

 自分の捕まっていた牢屋で金髪を締め落としたオリヴィエは、そのまま拝借した小銃を黒髭に押し付ける。

「おまっ、どうやって⁉︎」

「喋らなくていいぞーお礼は仲間の捕まってる部屋を教えてくれるだけでいいんだ。なぁ?」

 オリヴィエ=フーベルト・リシュリュー。対異教徒及び最終神秘補助機関の発足当時に武勲を挙げ続けたとある偉人を祖先に持つお家柄。あらゆる恨みを買う家系の嫡男様が幼少期から拉致監禁された回数は両手足の指では数え切れない。

 幼い頃はメイドが下手人を千切っては投げ千切っては投げ、オリヴィエ少年の押し込められた部屋の壁をぶち抜き助けに来てくれていたが、彼女が処分されてからは自力で脱出を図っていた。

「生ける伝説と同じ戦場に居るからって油断してんじゃねーぞ」

 自分の力で縄抜けなんて当たり前。リシュリュー家のデフォルト。褒められる事でもない。褒めてくれたメイドも居ない。

 先遣隊側は知る由もないのだが、捕まえた相手が少しだけ悪かった。

 

 

「魔女狩り同士の戦いなんて前代未聞だ」

 営倉の内部にて、事情を聞かされた斥候班の一人が唸る。

 オリヴィエが銃で脅しをかけた見張り諸共、滑り込んだ先の営倉には、十人程の縛られた隊員達が居た。

 奪った軍用ナイフで彼らの縄を切ったオリヴィエは、現在先遣隊の軍服に頭を通している最中だ。

 鬱屈とぼやかれた内容に、その場にいる全員が心中で頷く。

 どちらも罪を犯した魔女を屠ることが仕事の筈であり、本来ぶつかり合う相手ではない。

 他国の警官同士が発砲し合ってると例えれば分かりやすいか。

「そうは言ってもこのまま撤収すんのか反撃すべきなのか、どれが正解かも分かってねぇんだし、何も知らないまま戦犯になってからじゃ遅いだろ」

 渋みのある濃い青の迷彩服に袖を通しながら、オリヴィエは眉間に皺を寄せる。

「やっぱり本部や司令部とは連絡取りたいよね。あと身を守る物も必要だし」

 しゃがみ込んでいる隊員が、見ぐるみを剥がされ拘束され、床に転がった見張りを突っつきながら補足する。

 捕まった時点で、防具を除いた軍用装備は没収されている。武器や通信機、書類情報も手元に残っていない。

 そう、改めて認識したことで、オリヴィエは自分の掌をまじまじと見つめて、握って開いてを繰り返す。そして、

「そうだアタッシュケースも無ぇ‼︎」

 技術情報のはいった銀色のケースが無いのを思い出して頭を抱える。

 その様子を見ていた隊員達が、顔を見合わせてから。

「じゃあオリヴィエが取り返しに行くってことで」

「俺たちどんな見た目してるか分からんし」

「お前が奪われたんならお前が奪い返さないとな」

「見張りへの擬態は俺がやっとくから」

 最後の一人には綺麗な笑顔でサムズアップされ、私憤にぷるぷる震えるも、己の過失である事実は覆らない。

「我々に残された時間は有限だ。いつでも動けるように回復しておくから頼んだぞ」

 偵察に出ていた斥候班はこれで全員ではない。オリヴィエと共にポイントH《ホテル》近辺で超音波の餌食になった者達も合わせれば、まだ何処かに囚われている可能性が高い。

 行方知れずの仲間の安否確認、司令部との通信手段、及び没収された装備に準ずる武器の確保、何より技術情報が帝国に渡るのを阻止しなくてはならなかった。

「了解。タイムリミットは帝国の増援が追い付くまでか…」

 見張りが持っていた端末の待ち受けは十七時二十分と表記されている。

 見た目だけなら立派な帝国兵になったオリヴィエは、急いで営倉から外へ降り立った。

 

 

「お前こんな所でウロウロして何してるんだ?」

 電算室を探していたオリヴィエに、サウィンの兵士が声をかけてきた。

 心臓が跳ね上がる。

 とっくに日が落ちた雪原に、並べられたコンテナが作った夜道。営倉の付近と比べると人通りも多い。

(どうする?喋ればボロが出そうだが、ノーヒントで目的地を探してたら夜が明けちまう)

 オリヴィエが確保した際、アタッシュケースは厳重にロックされており、技術情報の規格については不明だった。

 もしも、というより高い確率で半導体メモリ等の電子データであれば、専用機材さえあれば帝国に送信されてしまう。

 なのでコンピュータを扱う電算室が、ケースが運び込まれる場所として最有力候補なのだ。

「おい黙ってどうした?」

 喋らなくてもボロが出る状況だと思い直す。

 ここから怪しまれずに電算室の位置を聞き出さなければならない。

(いや待てこれは何言っても疑われないか⁉︎サウィンの内部事情なんて知らないんだ共通の話題だって……共通?)

 共通認識。頭の中で咀嚼したキーワードが、オリヴィエの脳内に閃きをもたらす。

 訝しげにこちらを覗き込む兵士に、オリヴィエは眉を下げて嗟嘆した。

「グランギニョールが吹っ飛ばしかけた技術情報あっただろ?それを咎められたのに対して、どうせ大丈夫だったんだからその証拠を持って来いって言われちまってな」

 兵士はオリヴィエの言い訳に合点がいったのか、険しい顔つきを解く。

「あぁ、彼女かぁ。実力があるのは結構なんだが、あの態度は軟化して欲しいな」

(サンキュー!グランギニョール。お前が家出先でもプライド高くて助かった!)

 グランギニョールはトラップセラーに所属していた時から、何かとつけて人を顎で使うことが多かった。

 格下の相手をわざわざ痛ぶる残逆な趣味を持つお嬢様との共同任務の際は、木端微塵に破壊された敵機から目的の物を押収するのは毎度の事。

 注意すれば、任務成功のラインは守っていると、その物的証拠を持って来させたことが何度もある。あとジュースもパシらされる。

 一度ペットボトルに下剤を入れた馬鹿が居たが、口に含んだ瞬間吐き捨てられた。

 その後圧殺されかかった馬鹿のフォローと、グランギニョールのご機嫌取りに奔走したのはオリヴィエたちだ。

 それ以来、無理をしてまであの魔女に突っかかる奴は居なかった。

「俺も言われたことあるし、フリューリング少佐に対しても同じような態度だから、見ていてヒヤヒヤするよ」

「お互い、苦労してるな」

 スン、と光の無い疲れた目で遠くを見る敵兵に、うっかり境遇を重ねて同情してしまう。

「それで、例の押収物って何処に運ばれたんだっけか?」

「それなら最北の電算室だよ。解析チームが使ってるから、早く行ってこい」

 苦労談義で警戒心が解けたのか、兵士は快く教えてくれた。言葉の節に、魔女様を待たせると怖いもんなという気遣いが見える。

 オリヴィエは礼を言って、最北に位置するコンテナの列に向かう。

 言われた通り、電算室は直ぐに見つかった。

 大型のコンピューターを使うと膨大な熱が発生する。だからその熱を効率的に外へ排出する室外機が、羽を回している。

 扉をノックすれば、やや間を置いて寝癖のついた眼鏡の男が顔を出す。先程と同じ説明をすれば、納得したのかあっさり入室を許可された。

 まだ、サウィンの同僚を装っておく。室内に入り扉を閉めてから、全員黙らせる為に。

 ——……少しだけ、罪悪感が腹の内に溜まっている。何だかとても殺り辛い。

(いや、もしかしたら研究所が百パー悪くてサウィンが正義のヒーローです。なんてオチもあり得るんだ。取り返しのつかない行動は控えた方が良い。うん)

 オリヴィエが敵兵を手にかけるのは、生かした結果味方に被害が及ぶからだ。この拠点に居る彼らが仲間を害さないのならば、オリヴィエも必要以上に血を見たくはなかった。

「どうしたんすか?寒いんで早く入って下さい」

「あぁ、悪いな」

 自分への言い訳を終えて、急かしてくる解析チームの隊員に迎え入れられて、電算室の内部を見渡す。人員の数と配置、通信機や武器との距離、それらを確認して、扉を閉めた。

 その後約一分間の室内事情は、ここでは割愛しよう。

 

 

「クソ、もう絶対ぜってぇ捕まらねぇ、もう二度とこんなミスしねぇ。何が悲しくて一日に二回も野郎を抱きしめなきゃならねぇんだ」

 最後の一人の首を背後から腕で締めながら、オリヴィエは怨嗟の念を絞り出す。

 電算室の中は、殺風景だった営倉に比べ壁際と中央にデスクトップパソコンが並び、四隅に大型の外部ハードウェアが鎮座している。

 床のそこかしこには、デスクや折り畳み椅子の脚を縫って配線がもたれ掛かっていた。

 意図的なのか、空調設備を使わずとも暖かい。

 技術情報の入っていた空のアタッシュケースを見つけたので、腕による拘束を解く。

 中身は何処か?足元に崩れ落ちる敵は気に留めず、辺りを見回す。

 ふと目に入ったのは、一機の小型端末だ。隣にインカムも置いてある。何だか妙に見覚えがあるというか、手に馴染む形をしているそれは、

「俺のじゃねぇか⁉︎」

 オリヴィエが使用し、サウィンに捕らえられてからは没収されていた通信機一式だった。

「やべぇ無線の傍受に利用されてやがる⁉︎」

 慌てて端末を拾い上げ、待ち受けのパスコードを打ち込む。

 開いた画面には、研究所に居るインターン生とのチャットルームが広がっている。

「——……何だ?これ」

 そこに綴られていたやり取りに、オリヴィエは釘付けになる。

 無線の傍受を危惧した時よりも、やけに形を帯びた不安が胸の内に抉り込む。

 取り急ぎ、通信相手であるミシェルへ連絡を入れる。

 三度目のコールの後、そのインターン生はやや控えめに「もしもし?」と通話を繋げた。

 まるで悪戯がバレた子供のような声音がオリヴィエに届く。

「!おい学生無事か?今何処に居る⁉︎」

『えっ、こっちも何か大変な事になるの⁉︎……あ、いやまだ、バイカルの生化研究所に居るけど……』

 今までのやり取りで感じた快活さと生意気な様子はなりを潜めて吃っている。

 オリヴィエが違和感に首を傾げて、次の言葉を紡ぐのが遅れた間に、ミシェルが切り出す。

『あんたには逃げろって言われたけどさ、もう少しで何か答えが、形になりそうなんだ。これは、きっと命令無視に、なるんだろうけど』

「お前」

 しどろもどろだった理由に合点が入ったオリヴィエへ、追って切に訴えてくる。

『大学がインターン先にトラップセラーを紹介したのは、自分が申請した時に、魔女を助ける仕事がしたいって言ったからなんだ』

 ミシェルはオリヴィエが送ったことになっているメッセージを、真に受け止めて、考えて、その上で己の意志を宣言する。

『魔女を助けるあんた達を助けたい。その戦場が、五千キロ先の出来事だとしても、今そこで起きてる戦いも、ここに残ってる問題も、放って逃げられない。見捨てられない』

 顔が見えない筈の学生が、真っ直ぐに自分を見つめていた。

 オリヴィエは……——

 オリヴィエはある筈のない瞳から背けた視線を、デスク上に置かれた一台のパソコンに向ける。

「……つまり逃げろっつっても、テコでも動かねぇつもりなんだな?」

『うん。あと少しだけ、時間が欲しい』

 パソコンの画面に浮かぶ文字列は、ハードウェアに付けられたUSBメモリの記録だ。

 飲みかけの飲料水が入った紙コップは、先程までこの画面を開く為にセキュリティを解いていたハッカーの物だろうか。

 オリヴィエは熟考の末、長い息を吐いた。

「そこまで言うなら、研究所が隠してる秘密も帝国の狙いも、いい加減俺たちが戦う理由をはっきりさせようや。サウィンが盗んだ技術情報が目の前にあるんだが、聞くか?」

 口角を無理やりにでも上げて、不敵な笑みを作り出す。

『願ったり叶ったり過ぎる!』

 弾んだ声音だけで、どんな表情をしているのか手に取るように分かって、オリヴィエは思わず苦笑した。

「俺だけが読んでも専門用語ばっかで意味が分からねぇし。お前なら拾えるもんもあるだろ」

 さっそく端末を持ってない方の手をマウスに添え、画面を覗き込む。左下の時間表記を見れば、斥候班と別れて二十分が経過していた。

 そうして通話に注意が向けられていた結果、オリヴィエは聞き逃す。

 電算室の扉が、少しだけ開いたことに。

 床に倒れ伏した先遣隊の隊員たちはまだ目覚めていない。

 外部から、扉の隙間から、サイレンサー付きの銃口が、狙いを定めてくる……そして。

「page6、人工血液の劣化停止成功に伴う挫滅症候群の克服?」

 オリヴィエが最初の一行を読み上げた刹那。室内に向けて、一発の銃弾が放たれた。

 

  ◇◆◇◆

 

「どうせ雑兵ザコも虫の息だろ?何で一旦引かなきゃなんねーんだよ」

 立て付けられた照明に照らされるサウィンの整備基地には、グランギニョールが駐機していた。

 重機が交換用の部品を運び、リフターのバスケットに乗った整備士が細部の補修を行なっている。棚柱に掛けられたアナログ時計の長針が六時過ぎを差した。

 箒星グラビティアを支える鉄の支柱の天辺に座った魔女が、地べたでクリップボードや電子パネルを片手に相談し合っている整備士たちを見下ろす。

「お前さんが一切消耗してなければ良かったが、本番前に息切れを起こしたらまずいだろ?」

 下から見上げているのはレオンハルトだ。

「あんな鉄クズ相手に息切れ起こす訳ねーだろーが馬鹿にしてんの?」

「慣れない主砲まで撃ち込んでか?」

 魔女は舌打ちで返してそっぽを向く。大型重機が、焼き切れた副砲の代わりを運んできた。

「分かっていると思うが俺たちの本命は第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミーク、及びそこを擁護する者たちだ。の引き渡しを向こうが認めなければ、交戦は避けられない」

 だからこそ、と咳払いをしてからレオンハルトは、自前の水筒のストローを加えた魔女を見上げ直す。

「ヴィットーリア。お前さんには言っておくべきことがある」

「作戦中に名前で呼ぶなよ。てかおっさんにファーストネームで呼ばれるの自体キショいっつうの」

「大鴉の構成員が待機していた廃墟を砲撃したな」

 第七空挺舞台がポイントホテルと呼称していた廃墟が更地となった件を、レオンハルトは静かに諌める。

「例のケースって金庫並みなんだろー?なら中身も無事だって。今から見てこいよ」

「電算室になら用があってもう行ったさ。確認もした。俺が言いたいのはそこじゃないって分かるだろ」

「どうせトラップセラーあいつらに殺されてたじゃん」

 ストローを噛みながら、ヴィットーリアはつまらなそうに吐き捨てた。

 死傷者の運び出しは既に完了している。死因を調査すれば、致命傷を与えたのがどちらだったのかもすぐに分かるだろう。

「それでも味方の生存者が居る地点への攻撃は認められない」

「じゃあ何?間抜けにもあいつらにスパイが捕まって、情報が漏れてアタシたちの目的もバレた方が良かったワケ?」

 芝居がかった大袈裟な声音で、さすが獅子王太っ腹とでも皮肉りそうに笑うヴィットーリアを、レオンハルトが一喝する。

「最悪の場合を考慮するまではいい。だがそうだとしても、口封じに殺すことは許さない!お前の判断は尚早だった。これ以上は庇い切れないぞ!」

「うるせー!甘ちゃんシルバーバックに庇われる必要なんて——」

 

 ヴィットーリアが腹立って顔を歪めたその時、地響きがサウィンの拠点に届く。

 

 誰もがその音の方を向けば、森の鳥たちが一斉に飛び立っていくのが見えた。

 背後のグランギニョール本体が、その原因を警告として鳴らす。

重力解析装置グラビティアナライザーに反応あり!東二十キロメートルに重力波が発生しました!」

 計器のメンテナンスをしていた整備士の報告に、にやりと嗤ったのはヴィットーリアだ。

「なぁんだ、あの魔女、生きてたんだぁ。もう一度嬲り殺しにしてやるよ」

 楽しげに立ち上がり、水筒を近くのバスケットに乗っていた整備兵へ適当に放り投げる。

 自らの重力を操作し浮上、そのまま反応のあった方角へ飛翔する。

「こらっ!ヴィットーリア、指示を待て!」

 無線機を掴んだレオンハルトの視界、夕闇の空に、一本の影がこちらへ向けて飛んでくる。

 それを目視しながらも、レオンハルトは避ける素振りを見せない。そして……

 鈍い衝突音と共に、巨漢の真横へ大きな針葉樹が突き刺さる。

『次、名前呼んだら当てる』

 整備基地内の隊員たちは一瞬身を強ばらせるが、レオンハルトの表情に翳りが見えないのを窺い、迅速な作業へ戻っていく。

 この場の主任がスノーラビットの再稼働を通信機で報告しているのを確認し、レオンハルトは後頭部を乱暴に掻いた。

「まったく。騒がせて悪かったなお前たち、俺も歳を取ったかな。三五はおっさんか」

「さぁね。ああいうのは結局、年上なら皆んなおっさんだから」

 突然背後へ降って湧いた女性の気配こえに、レオンハルトは意識を転じて振り向く。

 緋色の裏地が目立つ、よれた黒スーツの女性だった。

 たなびくビターチョコ色をした髪の合間、フォレストグリーンの眠たげな瞳が細められる。

「お兄さん少し遊んでくれない?」

 照明の光と影の狭間で、連邦保安局のスカーレットが妖艶に微笑んだ。

 整備基地の警護をしていた隊員たちが咄嗟に小銃を構える。スカーレットが手榴弾を手の平に転がす。レオンハルトが背負った大剣の柄を掴む。

整備場ここじゃあ何処にも弾けないね」

 重要な機材や丸腰の整備士たちを背後にするレオンハルトの眼前へ、今度は無回転のまま手榴弾が放り投げられた。

 一度ひとたび夜の帳を引き裂くように、爆炎がサウィンの基地を照らす。

 煙が晴れた先には、大剣を盾にしたレオンハルトが刺すような視線を向けている。

 それを一身に浴びながらも微笑みを絶やさないスカーレットだったが、警護の銃撃が始まると、後ろに停められていた車両のボンネットへ乗り上げルーフを足場に、コンテナの屋根まで回避を取り、そのまま闇夜に紛れてしまう。

「ご無事ですか⁉︎隊長!」

「あぁ、こっちは問題無いが、」

 駆け寄って来た警護の隊員の真横に、レオンハルトは大剣を振り下ろす。隊員が何事かと疑問を呈するより早く、大剣の腹に銃弾が当たる。

「……誘われているな」

 スカーレットが消えたコンテナの先を見据えたまま、レオンハルトは腕輪型の通信機を口元へ添える。

「侵入者を発見!整備場への襲撃を確認、現在C3区画に潜伏中、該当区の防衛小隊は至急捕獲にあたれ」

 警報が鳴り響き、大型の照明が作る光の柱がいくつも基地内を詮索していく。

『第二防衛小隊、現場へ到着しました』

『こちらD4区画、人影を発見!』

『移動外科病棟にて侵入者の動きが有る可能性が。病棟の警護も強化します』

「第一と第四は持ち場の見張りを強化、相手のペースに呑まれないように。整備基地及びグランギニョールには決して触れさせるな。向こうが一人とは限らないぞ」

 Sound Onlyの画面が表示された通信機から部下の報告を聞きながら、方々へ指示を出す。

 スカーレットは照明による追跡を躱し、隊員たちの警備をいなし、まるで気まぐれな猫のように防衛小隊を翻弄し、基地内の逃走を続けた。

 結局、レオンハルトが彼女を追い詰めたのは、時計の短針が二回りした後だった。

 コンテナで縁取られた一本道、防衛小隊を控えたレオンハルトの前に、スカーレットは長髪を北風に乗せて立っている。

 女性にしては長く強張った指が二丁の短機関銃を握っていた。

「こちらを引っ掻き回すのも、ここまでだ」

「残念。貴方が出張って来たということは、グランギニョールの整備も終わった頃かな」

 コンテナ脇に忍ばせた伏兵たちの銃口がスカーレットへ集中する。

「お前さんが何をしようとしていたのかは、捕まえてからきっちり聞かせて貰おう」

「聞くも何も、それを知っているから、侵攻にまで踏み込んだんだろうに」

 スカーレットは己に向けられた敵意の視線を、どこ吹く風と受け流し、困ったように笑う。

 その発言の含みに、レオンハルトは彼女を共和国、ないしは連邦の人間と判断する。

 トラップセラーの隊員と行動を共にしていたのは目撃したが、どうも毛色が違っていた。

「正気か?」

 第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークの思惑を知るレオンハルトはそう短く問い、直ぐに訂正を図った。

「いや、うちの陛下が目を付けたんだ正気なんだろう。だが本気でを行うつもりか?」

「本気も本気さ。アリスちゃんは大真面目に奇蹟を…いや呪いを科学に落とし込み、正気のまま常識を狂わせる」

 フォローする身にもなって欲しいよね、と今度は本当に疲れたように肩をすくめる。その素振りが伏兵を刺激した。

「銃を置いて両手を挙げろ!」

 伏兵——防衛隊員の怒声にスカーレットは目を細め、小綺麗な形の口を開く。

「やっぱり、調査の基本は現場への足運びだよね。逃げながらでもそれ位は出来なきゃ」

 彼女が持つ短機関銃の銃口は、左右のコンテナへ無造作に向けられている。一人を除きその場の誰もが、そう油断した。

 もしこの場にオリヴィエが居たのならば、スカーレットの真意に気付いただろう。

 彼は見ていたのだから……初めて会った時、彼女は廊下の角から歩いて姿を現した。つまり彼女と、彼女が撃ち落とした諜報員の銃は直線上にない。どうしても壁が邪魔をしてしまう。

 ならばどうやって?

 ここにオリヴィエが居ない以上、それにいち早く気付いた一人は戦場で二十年の経験値を得た男だけだ。

「第四は退避しろ!」

 レオンハルトからの咄嗟の指示に、一瞬防衛隊員たちが虚をつかれた、その瞬間。

 スカーレットは短機関銃——貫通力が弱い銃弾をコンテナに向けてばら撒く。

 発射角、着弾の角度、コンテナの材質、拠点の気温、己がここに立った時に配置されるであろう敵の位置、あらゆる要素が計算された跳弾が射線を描く。

 網目のように跳ぶ鉛玉に牽制される者、被弾し銃を落とす者たちの中で、大剣で背後の部下を守った男が一歩踏み込む。

 振り上げられた大剣によって抉られた大地が、敵を捕らえる土砂となってスカーレットへ迫る。後方へ跳躍して躱しながらも、彼女の視線はレオンハルトから離れない。

 大剣は刃の側面から蒸気を発している。

(どうしてアレでこんな芸当を実現出来るんだか)

 両手を広げ、着地するより先に引き金を引く。たった一人、ただの一点から、跳弾が男への十字砲火を可能にする。

 レオンハルトは己を狙う凶弾も、部下へ届く流れ弾も、捉えられる限りの全てを大剣と防護服でいなす。

 弾ける火花の中で見たのは、スカーレットが再びコンテナの上へ軽やかに身を翻した姿だ。

「援護を頼む」

 控えさせた部下たちに一言告げ、彼もまたコンテナの上へ一足飛びに登った。

 照明がスポットライトのように二人だけを照らす。

「曲芸ってのは驚いて貰えると微笑ましいものだよね」

 舞台の上でスカーレットが、弾を打ち尽くした短機関銃を捨てていた。

 このスレンダーな体躯にどれだけの武器が内包されているのか、カージナルレッドの内ポケットから新たな拳銃を取り出す。

 味方であるレオンハルトに当たる可能性があるならば、防衛隊員からの援護射撃も飛んでこない。しかしその為には、射撃位置を変えられる前に、男の懐に潜り込む必要があった。

「まったく、面倒な役割を受け持ってしまったよ」

 こめかみを指で叩きながら、スカーレットの注意は大剣に向く。ここはコンテナ、つまりサウィンの物資の上だ。先程までのような威力で飛ぶ斬撃を放つことは——

 大剣がスカーレット目掛けて振り下ろされた。

 物資が壊れることも厭わない姿勢に引き攣った笑みを浮かべながら、咄嗟に回避して見たのは、軋んだ音と共に大きく凹んだコンテナの姿。レオンハルトは返す刀で侵入者を横薙ぎにしようと大剣を振い直す。

 上体を反らし薄皮一枚の差で脅威をやり過ごしたスカーレットは、そのままの勢いでレオンハルトの横面に蹴りを入れる。

 籠手でガードされた足首を捻り、袖に忍ばせていた発煙弾を叩きつけ、引っ掛けた足へ力を込めてレオンハルトの背後へ舞う。

 それを捕らえようとレオンハルトが振り返った瞬間、発煙弾が白煙を噴き出した。

 煙に紛れて一発鉛玉をぶち込む。当たらなくても構わない。ただ、

「ちょこまかと!」

 撹乱してくるスカーレットに痺れを切らしたレオンハルトの一閃が旋風を巻き起こし、煙幕を振り払う。放熱の蒸気を撒きながら捉えたのは、一閃を回避する為にコンテナから宙へ身を投げた女だった。

 空中で身動きの取れない侵入者へ決着の追撃を振り下ろそうとして……違和感に気付く。

 大剣の動作が、ぎこちない。

「随分とロマン溢れる兵装じゃないか」

 着地したスカーレットがコンテナの下から見上げてくる。

「ブレード型杭打ち機?正式な名前は知らないけど……杭を突出、射出する機構が混合したタイプの」

 北風にその身を浸しながら、女は説明を続けた。

「物体にぶつけた瞬間、突出が機能して本来以上の威力で吹き飛ばす。手の届く場に何も無かろうと、射出を使って疑似的な波状攻撃を可能とさせている。そんなところかな?」

「ここまで早く対処されるのは驚いたな。連邦の保安官ってのは全員そうなのか?」

 レオンハルトが一瞥したのは、連邦の公式装備を検索しても出てこない発煙弾だ。

「そうそう、皆んな私より凄いよ(誰もここに来れなかったけど)目の荒い粉が採用されててね。少量でも根詰まりを起こす。杭打ち機が放熱の為に排気と吸気を行った際に、取り込まさせて貰ったよ。これ以上無理に作動させれば、壊れちゃうんじゃない?」

 飛ぶ斬撃を、封じる。広範囲における理不尽な遠距離攻撃を打つリスクを高めた。

「何でそんな物、実戦投下したんだか。貴方の膂力じゃなきゃ振ることも出来ないだろうし、貴方にしたって扱い辛いだろうに」

 小首を傾げるスカーレットへ向けて、同じようにレオンハルトも首を傾げた。まるで、何故そこまで推理出来て、その理由が分からないのか?とでも言うように。

「何でってそりゃあ——」

 風が、止む。

「——使い易いってことは、殺せ易いってことだろ?」

 スカーレットに向けて吹いていた追い風が、ぴたりと止んだ。

「配電盤のブレーカーにしろ通常兵器の条約にしろ、安全装置をごてごてとくっ付け無害化させて、人間社会に、文明に馴染ませる必要がある」

 ここまで余裕の笑みを崩さなかったスカーレットの顔から、すっと表情が消える。

「俺にとってのそれが、コイツだって話さ」

 剣を振らせたら終わり。その意味を正しく理解した時には、既に怪物おとこは眼前に迫っていた。

「だからまぁ、使わない方が合理的ってお前さんの見立ては当たっているな」

 杭打ち機を利用しない一撃に、スカーレットは跳弾の軌道さえ計算する頭を回す暇も無く、薙ぎ払われた。

 

  ◇◆◇◆

 

『人工血液の劣化停止成功に伴う挫滅症候群の克服?』

 雪が本降りになってきた八時四十分。

 電話口から聞こえてきた技術情報の内容に、ミシェルは「え……」と失意を零す。

 予想外の言葉だったからではない。推測して、外れて欲しいと期待した真実だったからだ。

「ちょっと、待って」

 端末を耳に押し付けたまま、ミシェルは自前のノートパソコンを操作する。

 本当は、オリヴィエが連絡を入れてくるまでに一つの仮説が出来ていた。

 けれどもそれは、余りに荒唐無稽で、本来なら机上の空論にすら満たないもので、それこそお伽話の魔法が無ければ実現し得ない筈だった。

 しかし、オリヴィエからの情報提供は、それが可能であると後押しする。

(やっぱり、そういうことなんだ)

 急ぎオリヴィエに知らせなければと、視線をパソコンの画面から前へと戻し……異物を視界に捉えた。

 先程まで研究室には居なかった、白と黒の四足歩行の獣。

「オオカミ、じゃないな?……犬?」

 シベリアンハスキーだ。わふっ、と凛々しい顔付きで吠えられる。

(何で?取り敢えず、狼と対処は同じで良いのかな?)

 ミシェルが目線を逸らして後退った、刹那。

「グルゥアァァァ‼︎」

 低い唸り声と共に飛び掛かられる。

「うわぁぁぁぁぁ⁉︎」

 慌てて身を翻し、中央の瓦礫へ回り込む。遮蔽を生かして距離を作る。直線上で追いかけられたら秒と持たない。

「あれぇえ⁉︎間違えた⁉︎狼と一緒じゃなかった?初手の印象間違えた‼︎」

 崩れた壁から保管室へ走る。幸い、初めて来た時に蹴り開けた扉はそのままだった。

 背後から爪が床を蹴る音が急き立ててくる中、ミシェルは廊下に飛び出して別の部屋へ転がり込み、自分でも驚く速さでもって扉を背中で閉め押さえる。

 唯一持ち出せた端末へ、野犬の扱いについて助言を求めた。

「どうしよう犬に食われる!」

 謎技術の一端を伝えた相手が突然犬に襲われていたら、通信相手もさぞ驚くだろう。

 この数十秒で何があったのかと。しかし、返事は無い。

「もしもし?……何かあったの⁉︎」

 端末からは沈黙しか返ってこない。

 後ろの扉からはハスキーの鳴き声が攻めてくる。

 逃げ込んだ部屋は荷物の積まれた倉庫のようだったが、火事の影響で所々崩壊していた。

 棚や床に並べられた黒炭と化した段ボールに囲まれ、寒さで悴む指を握る。圧迫感はあるのに、部屋の心許なさが悪寒となって腹の内から迫り上がってくる。

 このままでは遅かれ早かれ犬の晩ごはんになってしまう。

「お願いだから返事をして、せめてこれだけは伝えないと」

 縋るように端末を両手で包む。

「このままじゃ本当に大戦が始まってもおかしくないんだよ!」

 

 

 そのシベリアンハスキーは、実際には獰猛な唸り声をあげず狩りに来た。

 一度逃げられた相手だ。静かに確実に、匂いを辿った先に居る獲物を追い詰める。

 赤紫の目立つダウンジャケットの上から、容赦なく牙と爪を突き立てた。

 暫く食い千切らんと噛みつき続け……違和感を覚える。

 悲鳴がない。肉の感触もしてこない。

 固まった死体ではなく、生きた獲物を相手にしていた筈だ。不思議に思って一度相手から離れてみると……

 それは、ミシェルの匂いが付いたダウンジャケットを巻かれたダンボール箱だ。

 図られた。そう理解した瞬間、ハスキーは頭上に向かって遠吠えを上げた。

 

 

 ミシェルは崩れた壁から研究所の外へ転がり出て脱出していた。

 倉庫にあった鉄製の大きなシャベルを手に、雪降る森の夜道を走る。

 背後からハスキーの咆哮が一つ、二つ三つと聞こえてきた。

「そうだよね群れで行動するよね一匹狼は異端の肩書きだもの!」

 ジャケットを脱いだことで、ミシェルの体は再び凍土の冷気に晒される。

 呼吸をするだけで喉が裂けそうになり、白い吐息が頬で水滴に変わり気化熱が逃げていき、数十歩走れば忽ち足の指の感覚が消えていく。

 それでも震える体に鞭を打ち、躓きかけながらもミシェルは暗い森を駆け抜ける。

 目指す行き先はただ一つ。魔女の居る場所へ。

 

 

 横殴りの吹雪が、宵闇を薙いでいた。

 曇天すら見えない暗晦の空と、足元を覆い隠す新雪が、視界一杯に広がっている。

 サイズの大きい白衣をはためかせるその背に、獣の敵意がぶつけられる。

「探しましたよ。随分手間取らせてくれるお方だ」

 軍靴が積雪を踏み固める音が近づいて来た。

「研究所を脱けて直ぐ、狙いは凍死なのでは?と思いましたよ。わざと一時間も手間取ったの間違いじゃないですか?」

 無造作に纏められた金髪を乱しながら、理工生は振り返る

 視線の先にはシベリアンハスキーを四頭引き連れ、銀髪をたなびかせる黒づくめの軍服が、折り畳み杖を立てている。

 ミシェルとニカンドロフ。広大な雪原に、二人が対峙した。

 まるでそれを待っていたかのように、風の音が鳴りを潜めていく。

「トラップセラーが奮闘してくれたことで、我々は国境沿いへの軍備を完了させられました。本当に感謝しています。ここからは我々の戦い、被害が増える前に撤退して頂いて構いません……ただし、貴方はいけない」

 軍帽の影から鋭い空色の瞳が睨みつけてくる。

 賛辞も配慮も興味が無いと切り捨てた厳かな表情を向けられたミシェルは、シャベルを雪に突き立てた。

「魔女の子供が魔女になるとは限らない。魔法の能否に遺伝子は関係無い」

 薄い唇からすらすらと流れてくる言にも、ニカンドロフは硬い面持ちを崩さない。

「それなのに何故、帝国の諜報員はクローンの研究所から技術情報を盗み出したのか?剰えその研究所を爆破したのか?ずっと疑問だったけど、帝国に取られた技術情報の一文を聞かされて、漸く分かった」

「……スカーレットはしくじったのか」

 霜焼けたミシェルの眼差しに、ニカンドロフはつまらなそうに吐き捨てた。

「蘇生された患者が、死んでいる間に受けた細胞死の影響で再び死亡した。挫滅症候群の実例だ。治療には透析による血液浄化療法が用いられる」

 乱れる金の前髪が、ミシェルの目元を隠す。

「フルスクラッチは一から新しい生命を造る臓器技術、人工胎盤は既存の生命を育てる機材、クローンを造ろうとしている施設にある資料としてはまだ分かる。じゃあ人工血液は?浮腫を減らし外側溝が広がることを防ぐのは、蘇生後脳症を危惧して?最低限、脳と心臓を守れれば良いと?」

 ミシェルは凍りついた睫毛に縁取られた瞳を歪める。

「魔女のクローンは魔女にならない。魔法は魔女本人にしか扱えない。答えは最初から出ていたんだ」

 風の音が、完全に消えた。

 

「だったら死んだ魔女を蘇らせればいい」

 

 死者の蘇生。人類の夢。陳腐で阿保臭いと嗤われる机上の空論。禁忌の技術。

「けれど実際に完成した技術は、蘇生と呼べるものではなかった」

 ニカンドロフの表情に変化が表れた。犬の餌を見る目が、人間を見るものへと変わる。

「蘇生ではなく再生。失った未来を与えるんじゃなくて、一度得た過去のやり直しをさせる」

 ミシェルはポケットから出した端末のメモを、ニカンドロフの方へ向ける。

「ハンプティ・ダンプティ、即ち宇宙卵は世界が一つの卵の中に広がっている、転じて一つの卵の中に世界が収まっていることを指す」

 写真に撮った渦巻きの絵を見せるミシェルの声は、段々と低くなっていく。

「前成説は遺伝現象の存在から説得力を失った」

 卵の中にその生物が産む子孫の情報が全て記録されているという仮説は、番が違えば生まれてくる子供も変わることから否定された。

「けれど、この卵というのを一個人で完結させたら?既にその肉体が得た成長課程の記録を、死を生誕と直結させてサイクルにしたら?」

 端末を握る力が無意識のうちに強くなっていく。

「記録の終わった身体。死体を、聞き終わった音楽をまた初めから聞き直すように再生する」

 ニカンドロフは反論を挟まない。ただミシェルの論を、甘んじて受け止めている。

「つまりこの技術で再生された死者は、生前と同じように成長し、生前と同じタイミングで同じ箇所に怪我をし、生前と同じ瞬間同じ病に罹り、生前と同じ死因を再演する」

 病死した者はどれだけ最高の医療設備と医師と最新の療法を以てしても、同じ病で死ぬ。銃殺斬殺された者は例え核兵器に耐えるシェルターに匿っても、細胞が傷を再現し裂けて死ぬ。

 聞き手にも曲自身にも、音色を変える手段は無いのだから。

「永遠の命と言えば夢のようだけど、これで再生された体には未来も希望も無い。ただひたすらに過去の再演をさせられる肉の檻へ、精神たましいを半永久的に閉じ込める技術。死者の蘇生なんて呼べるもんか。けど、魔女に魔法を使わせるだけなら、それで充分だった……——」

 いっそ恐ろしいまでに凪いだ目で、ニカンドロフを睨みつけた。

 

「——死因記録再生体レコードプレイヤー。帝国が盗んだ技術情報であり、諜報員が見つけて産まれる前に終わらせてあげるしかなかった魔女の正体であり、あんたが作った第五次世界大戦の火種だよ」

 

 研究所の保管室で見つけた、黒焦げの柔らかな物質は、脆く崩れ足元で水風船のように破裂したあれは何だったのか。

 諜報員が研究所を爆破してまで消し去りたかったものは、己の不祥事でも被検体でもなく、研究成果その者だった。

「命を狙われてるこの現状が答えだ。第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークのアリスターシャ・ニカンドロフ」

 銀世界と同じだけ冷たい表情で、ミシェルは推理を終える。沈黙を通したニカンドロフは一つ、長い溜息を吐く。そして、

「私の理論にこの短時間で追いつくとは、やはり貴様自身のことを早く調べるべきだったな。魔導工科大学の問題児ミシェル・ローラン」

 ニカンドロフの心象が凍り付いていく。

 敬語が外れて本性が垣間見えた筈なのに、まるで分厚い氷の武装を纏うように、絶対零度の眼差しが学生を威圧する。

 対するミシェルは物怖じすることなく追撃に入った。

「これが新兵器開発に組み込まれた技術だっていうなら、再生した魔女の人格も意見も無視して兵器に搭載させるつもり?」

「それに何か問題が?」

 どさりと、どこかで白い雪が潰れる音がした。雪原を囲う木々の枝から、重みに耐えかねて落ちたのだろう。

 トロイツァ・セミーク。別名聖霊降臨祭は、ルサーリナヤと呼ばれる変死した女性の霊が、水辺から生者の世界である陸へ上がってくる週間だ。

 バイカル生化研究所を使い、死んだ魔女の再生体ルサーリナヤを製造し、兵器運用を目論む二十八番目の秘匿計画。それを遂行する為の機関の名前に充てがわれた。

 ニカンドロフが表向きBKCの所属である以上、連邦の人間が編成したのだろう。

 単純に軍事力を高めたかったのか、それとも……

「そんな非人道的兵器が許容される訳がない」

「魔女に人道を適してどうする。人権という概念も無かった時代の死体に、何の権利が存在する?」

 吹雪より硬い、価値観の断絶を見せつけられる。

「魔法による圧倒的な蹂躙を可能とする、自我を持つ厄災。奴等を野放しにしておけば、やがてこの星の人類史は途絶する。二度も同じ過ちを犯さない為に、魔女は人の手で徹底して管理されるべきだ」

 獲物を食い千切らんと待機している軍用犬が可愛く見える程の気迫で、ニカンドロフはミシェルの倫理観を踏みつけた。

「そう、二千年……二千年前だ。魔女が人類に叛逆したから、起こされた大戦により一度地上から文明が消え去ったから、我々の繁栄は停滞せざるを得なくなった!本来であれば、死体を再生し魔女を鋳造するの技術が、二千年後の現代で脅威になる筈もなかったんだ!」

 死者を生者へ戻す当世の天才が、ミシェルの追及を薙ぎ払うように腕を広げる。

「そも、魔女を使い魔女を屠る貴様たちに、我々の計画を非難される謂れはない。ミシェル・ローラン、貴様は何故魔女狩りを名乗る?」

 ニカンドロフは己の正しさを堅く信じたまま、学生へ問い返す。

 険相の視線と冷温が、ミシェルの全身を刺してくる。

「子供の頃の自分にとって、魔女狩りの彼女たちは人間を守ってくれる、テレビの中のヒーローだった」

 氷点下十度を下回る真夜中のウラン・ウデは、着実に線の細い身体を蝕んでいた。指の感覚は殆ど残っていない。

「自分だってそれを疑ってなかった。でも初めて話した魔女は、土砂降りの路地裏から出られない、誰かに助けを求めることすら躊躇ってしまう、奴隷だった」

 黯然たる鉛の空が、ちっぽけな学生を押し潰そうとのしかかって——

「魔女の子供が魔女になるとは限らない、魔法の能否に遺伝子は関係無い。最初にそう言った……それはつまり、」

 ——それがどうした?と、ミシェルは逆風を振り払い、目の前で冬将軍の如くふんぞりかえる男へ怒声を浴びせた。

「人間から産まれてくる魔女だっている!魔女は人の子なんだよ!そうだよ二千年だよ。二千年前から不変の、あんた達が目を逸らし続けてきた事実だ!」

 頬が赤いのは霜焼けのせいだけではなかった。沸々と湧き上がっている激昂が、身体が凍えるのを許さない。

「突然魔女を産んで、戸惑って恐ろしくなって子供を捨てる人間が居る。表で慈善事業を謳って捨てられた子供を保護し、裏で奴隷として酷使する外道が居た。だから自分も使えるものは全部使って外道は社会的に終わらせたし子供たちは解放した」

 今度こそ信の置ける家で育てるように立ち回った。お陰様でミシェルは進路の大学を受験すら総出禁になった。そう根回しした者たちにとって、ミシェルは家畜が搾取されるのが可哀想だと畜舎を開ける危険人物だと思われている。

「魔女を助けたい。助けられるだけじゃなくて、ただの女の子にいつでも手を差し伸ばせるようでありたいんだ。分かったか臆病者」

 指の感覚が無いのなど知ったことかと、白衣の胸元を強く強く握り締めた。

「分かり合えないことがよく分かったぞ楽天家。それで?私のことも社会的に抹殺するつもりか?死因記録再生体レコードプレイヤーの真実を明るみに出せば、貴様に味方する国も出てくるだろう。だが、」

 一切堪えた素振りもないニカンドロフが、決定的な障壁を口にする。

「それは貴様の手で、大戦の火種を世界中にばら撒くことに他ならない」

 不完全とはいえ死者が息を吹き返す技術を、世界が知ったらどうなるか。

 人の欲に際限は無い。諜報機関を遣わして情報を毟り取ろうとする国も、使わずとも保有するべきだと主張する国も出てくるだろう。現に帝国は魔女狩りサウィンを送り込んでいる。

 勿論それをブリヤートも連邦も、黙って見過ごす筈がない。

「我々第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークには防衛という大義名分がある。全て撃ち落とすまでだ」

「確かに、世界に情報をばら撒いても、あんた達のやっていることは止められない」

 勃発した大戦のどさくさに紛れて、再び再生体が造られれば、戦場は泥沼になる。

 ミシェルに打つ手は無い。シャベル一本で四頭の軍用犬を相手に出来る訳もなく、大人しく貪り食われるのを待つだけだ。その筈なのに、学生はここに来て初めて笑った。

「……それが、じゃなければ、ね」

「!」

 吹雪が、止む。

 ミシェルを否定するように猛り狂っていた雪が、止んでいる。

 ニカンドロフが自然と空を確かめれば、雪を吹きつけていた雲が無い。

 ミシェルの背景に、青白く輝く月が出ている。

 その中心に、異彩が在った。

 雪の結晶を思わせる意匠の施された、ネイビーブルーを基調とするパイロットスーツ。黒のチョーカーが光る肌は陶器のように白く、濡羽色の髪の裏は花色のメッシュが映えている。

「何故……」

 重厚な雲を吹き飛ばした正体。月白色を縁取るベビーブルーの瞳と、視線が交差した。

「何故ここに、トラップセラーの魔女が居る⁉︎」

 

  ◇◆◇◆

 

 ことの真相は一時間前。研究所のミシェルの端末で八時四十分、つまり時差が約三時間あるサウィンの基地では、オリヴィエが電算室を制圧した直後。

 そこで企てられた悪巧みに起因する。

 室内に放たれた一発の鉛弾が直撃し、パソコンの画面は放射状に亀裂が入り暗転した。

「それはちょっと、拡散されると困るんだよね」

 情報を読み上げるのを許されなかったオリヴィエが銃口ごと後ろを振り返れば、同じく拳銃を向けて立っていたのはスカーレットだ。

「てめぇ、ようやく本性表したか」

「うん?普段と調子を変えてるつもりはないけど?」

 拳銃を突きつけ合ったまま、後ろ手に扉を閉めたスカーレットは首を傾げた。

「惚けるなよ。この技術の中の魔女に繋がる情報を揉み消しに来たんだろ?」

「情報の漏洩を止める為に来たのは確かだけど。そう、魔女と繋がりがある所までは掴んだんだ」

 片頬を吊り上げたスカーレットを睨みつける。

「そもそも、諜報員の正体が魔女狩りだってお前が言ったんだぞ」

 最早お互いに、上辺で手と手を取り合っている場合ではなくなっている筈だ。

「あのヒントでこっちを疑って、調査して、ただの壁役として使われるだけじゃないってことだ。嫌いじゃないよ」

 オリヴィエに向けていた銃口を逸らし、両手をひらひらと広げる。まるで撃つ気は無いと、宥めるように。

「サウィンの侵攻に対して、最初にぶつかるのは国境軍。つまり保安局の管轄な訳だけど、こちらとしても、その技術情報を守りたい陣営に使われて、被害が出るのは避けたいんだ」

「自分たちは魔女サマの味方じゃありませんって?お前はブリヤートとも噛んでる連邦側の人間だろ」

 スカーレットの、眠そうな瞳が完全に開く。

「まさか、あの大国が一枚岩とでも?国民全員が、アリスちゃんたちの御大層な計画に賛成してるとでも、本気で思っている?」

 確かにそれは土台無理な話だと、丸め込まれかけて、オリヴィエは頭を振る。

「だけど、その情報や計画とやらの詳細を調べてぇのにお前が邪魔してんだろうが」

「それは取り扱いが難しいんだよ。仮に君個人を信頼出来ても、君の国全てを信頼出来るかは違うだろう?最悪のケース、大戦の規模が広がることになる」

 規模が広がる。レオンハルトも似たようなことを懸念していた。

 知らない方が幸せなことなんて掃いて捨てる程あるだろうが、周回遅れのまま手をこまねいていても、本当にやるべきことは見えてこない。

 スカーレットの言葉を信用するもしないも、ここを暴かなければ足踏みを繰り返すだけだ。

「最初に全部説明してくれりゃ、俺だってこんなに疑いはしなかっただろうぜ」

「ごめんね。君たち自身の力で、現状を知って貰う必要があったんだ。内部告発だと私の首と胴が泣き別れしちゃう」

「修羅の国かよ」

 電算室の沈黙に、一人の声が際立った。正確には、部屋が静まり返ったことで、オリヴィエの端末から漏れ出た音声を耳が拾ったのだ。

「……出てあげたら?」

 促すスカーレットは既に銃を下げている。オリヴィエは相手から目を離さないまま、端末のスピーカー機能を入れた。

「悪いな、今取り込み中なんだ」

『繋がった⁉︎あんた今技術情報持ってんなら絶対誰にも渡さないでよ戦争の火種だから!』

「ものの数分で大惨事じゃねぇか」

『あと犬にめっちゃ襲われてる!最初の対応ってどうすれば良かったんだっけ?』

「惨事の落差激しいな。何がどうしてそうなった⁉︎」

『分かんない……シベリアンハスキー?』

「犬種聞いてんじゃねぇんだわ」

 ミシェルの声が、震えを抑えながら段々と落ち着いていくのが聞いて取れた。

『ああそんなことより、技術情報の内約なんだけど……この通信って記録されてたりする?』

 その問いが何を意味するのか、ここまできたオリヴィエは察する。お前もか、という怒りが六秒しか保たないならと、一度大きく深呼吸をして、

「俺の端末は支給品だから、されるだろうな。だが前に言った通り、トラップセラーは軍直轄組織といえど軍部と癒着してる訳じゃない。上層部、それこそ総司令トップが箝口令を出すなり情報操作に本腰を入れれば、ここでの会話は政府だって閲覧出来なくなる」

 それが何を意味するのか、スカーレットも気付いたのか、深緑の瞳が見開かれる。

『確かに一番偉い人がそうしてくれるなら頼もしいね。あんたはその人が協力してくれるって分かるの?』

 当然行き当たる素朴な疑問に、オリヴィエは一瞬口を詰まらせて……観念したように目を瞑って吐き出した。

 

「あのクソ親父は世界の安寧とやらの為なら身内だって切れる徹底した平和主義者だ。大戦に繋がる情報?そんな芽摘むに決まってる。ブラックボックスに仕舞い込んで、二度と何処にも出しはしねぇ」

 

 だから話してくれと、瞼を開けたオリヴィエの視界には、別の意味でぽかんとしたスカーレットが居た。

『そっか、家族のことだから分かるんだね。うん……親父?』

「そうだよ」

総司令トップが?あんたの?』

「余計な諍いを生まない為なら無実の使用人メイドだって処分する、魔女狩りを国に根付かせた家の御当主サマだ。顔色変えて情報規制してくれるぜ」

 きっかり三秒、間を空けて、驚愕の叫び声が通話口から飛び出す。

「犬って聴覚も良いらしいから気を付けろよ」

 ぱぁんと元気よく口を手で押さえる音がした。小声でマジかと呟かれる。確かに、息子だから父親である総司令の行動は分かりますと言われても、いきなり信じて貰うのは難しいかもしれない。

「……信頼を得るって、大変だな」

「こんなことで共通認識が得られるとは思わなかったよ」

 オリヴィエとスカーレットが揃って遠い目をしたところで、ミシェルは意を決したようだ。

『分かった。信じないと、何も始まらないからね』

 疑心暗鬼が蔓延っていた空間に、清涼剤が流し込まれたようだ。

『じゃあ、ざっくり説明すると第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークって奴等が、死人を生き返らせる技術を魔女に使って兵器運用しようとしてる』

「科学の進歩ってレベルじゃねぇだろ馬鹿野郎!」

 信用を得るのは有難いことだと、当たり前のことを実感出来た直後の話だ。疑うべきは己の常識なのだろうか?

『企画した人に言ってよ。それとも一から全部説明する?教師じゃないから理解出来るよう証明する自信は無いし、そんな暇ある?因みに自分には無い』

 蘇生——厳密には再生技術の漏洩防止に加え、ミシェル側の問題も解決しなければ、ハスキーの胃袋に収められるのも時間の問題だ。

「それは多分、アリスちゃんの猟犬じゃないかな。所謂お前は知り過ぎたってやつだよ」

 銃口を突きつけられたままなのに、スカーレットはさも自然に会話に入り込んできた。

『二重の意味でどちら様?』

「知らない?ゲノム工学界期待の新人。その天才的頭脳の貢献によって、特例で上級大尉の階級を与えられた男。アリスターシャ・ニカンドロフ」

「直接案内されている」と、呻くような返事が端末から溢れた。

 再生技術を完成させた天才は自分の目で、真実に辿り着いてしまう可能性を秘めたミシェルを見張っていた訳だ。

「彼の思考に追いつく人材がそっちに居たのは素直に驚きだけど、それならわざわざ軍用犬をけしかける理由も分かる」

「あぁ、銃器暗器絞め縄毒物、他殺と診断されれば事件性から怪しまれるが、調査中に野犬に食い殺されたってシナリオにすれば、事故死扱いに出来る訳か」

 凍土の大国で途方に暮れるミシェルが「もしかしなくても暗殺されかかってる?」と嘆く。

 死者の再生がとうとう現実味を帯びてきてしまい、オリヴィエは学生の言に疑問を挟む。

「いや待てよ。蘇りだって規格外の案件だってのに、お前は魔女の兵器運用とか言ってたな?その第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークは、戦況をひっくり返せる魔法が使える故人を所有してるのか?」

 魔法の強弱の個人差はかなり激しい。ランク分けは毎年更新されているが、埃を止めるので精一杯な者も、ミサイルの軌道を変えられる者も、一括りに魔女と呼ばれている。

 スカーレットの様子を窺うが、肩をすくめて首を振られた。

「登録されてる中で調べた限り、強力でも五十トン前後を動かすのが関の山かな」

 それではスノーラビットの棺一つ防げない。

 登録されていない秘蔵の死体があれば話は別だが、強大な魔女の痕跡は隠すのが難しい。

『……これは完全に推測だから、間違ってたら教えて欲しいんだけど』

 そう前置きして、ミシェルはオリヴィエの疑問の答えを導いた。

 

 

 取り戻したインカムを装着して、司令部との通信を図ったオリヴィエは、ここまで判明した情報の共有を行った。

 技術情報の正体についての反応はおおよそオリヴィエと同じであったが、今は詳細に説明している時間は無い。

 同時通話形式である通信先の一人に、オリヴィエは本題を投げかける。

「スノーラビットにミシェル・ローランの救出を頼みたい」

 相手側の応答は様々だった。『戦場から魔女を離脱させるなんて危険過ぎる』『箒星グラビティアは万全に修理出来ていない』『第一、五千キロ先に間に合うのか?』と口々に飛ばされてくる。

 誰も学生を助けたくない訳ではない。だが現実に可能かどうか精査して、否定的意見をぶつけざるを得なかった。どうするつもりなのか?救出案の矛先を向けられたオリヴィエは、

箒星グラビティアはここに置いていく。魔女様につきましては生身で救助に向かって貰う。中々エグめの頼み事である自覚はあるが他に手立てもねぇ」

『その間にグランギニョールが攻めて来たらどうする』

 通信長の当然の疑念にも、オリヴィエは即答する。

「攻めさせるんだよ。あんたたちが遠隔操作で起動させた箒星グラビティアを見れば、あの加虐心の塊は必ず潰しにやってくる。じっくり弄ぶつもりでな。そうすりゃ救出の時間稼ぎにはなる」

 かつてグランギニョールが亡命の際に海溝を利用したのは何故だったか。裏切り防止の為、箒星グラビティアは管制システムからの遠隔操作が可能になっている。つまり人間の手でも起動と停止の切り替えだけなら可能なのだ。

 地べたでばたつくだけの箒星グラビティアを、ヴィットーリア・プレスティは見逃さない。

 絶対虐めにくる。第七の共通認識がオリヴィエの作戦に頷こうとして、新たな通信がそれを妨げた。

『その意見には同意したいところだがな。上は任務の早期達成を優先しろと、民間人の命より目の前の魔女を殺せと言っている。お前にこいつらを黙らせられるか?オリヴィエ』

 苛立った指揮官の声音から察するに、彼女もミシェルの救出を優先させようと上層部にかけ合っているようだ。

「任務っていうなら、そもそもどうして俺たちはこの戦場に居るんだ?」

 総司令の息子リシュリューではなく個人名オリヴィエで呼ばれた一隊員は、それに不敵な笑みを返した。

『それは盗難品を紛失させたから…——』

「クジラはともかくミイラを買い取ったのはバイカル生化研究所だ。生き返らせる、たった一人で戦場を制圧できるだけの実力を持った死体に、俺たちは心当たりがある筈だ」

 ミシェルの推測を、オリヴィエは仲間に伝えた。

 

「エジプトでミイラに加工されるだけの地位を持った魔女……それは即ち魔女狩りのルーツ。を人類側の勝利に導いた、当時最強と謳われた魔女の不朽体ミイラは、今ウラン・ウデに在る」

 

 クジラの化石に関しては、本当に紛失させてしまったのかもしれない。だが盗賊団は売買が成立したミイラの売上金を守る為に、虚偽の報告をした。まだアレクサンドリアに滞在している指揮官がもう一度凄めば、白状することだろう。

「盗難品を取り返すにはウラン・ウデまで行かなきゃならねぇ。任務達成が最優先なんだろ?この大義名分を使えるのは俺たちだけだぞ!」

 ミシェルが考えオリヴィエがぶつけた、上層部からの枷を壊す一手。暫しの沈黙が隊員たちに見送られた後、指揮官は自陣の魔女に託す。

『スノーラビット、ここから研究所まで、どれだけかかる?』

『……片道一時間は掛かっちゃうかな』

 往復二時間、敵の足止めしなくてはならない。異議を唱える隊員は、一人も現れなかった。

 

 

 司令部側との作戦会議を終えたオリヴィエは、全ての通信を切ってから息を整えた。

「……てめぇの言う、最悪のケースってのは何のつもりだ?」

「そうだね。保安局とサウィン両軍の壊滅、大国二つの損耗で漁夫の利を狙う他国による被害の甚大化。当然トラップセラーという救援策は潰え、アリスちゃんも用済みに処分されて、後には戦場に出たことも無いお歴々だけが安全圏で美味い汁を吸って、シャンパンで乾杯してるケースかな」

 スカーレットはさらさらと綴るように、命を張る全ての人の惨劇を並べる。

 その末路を止める為に単身でも戦場へ馳せ参じた彼女へ突きつけていた銃を、オリヴィエは苦虫を噛み潰した顔で下ろす。

「俺はお前を完全に信用した訳じゃない」

「それで構わないよ」

 ここで撃って一時の安心を得るのは簡単だ。ただそれは、己が唾棄した父親のやり方と同じだった。

「だがサウィンの侵攻を止めて、第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークの馬鹿げた計画も止めて、お上でふんぞり返ってる黒幕の酒瓶かち割りてぇ意志が同じなら、怪物の時間稼ぎに協力してくれ」

「どっちの?」

「人間。魔女は第七で気を引く。お前はここの奴らを引っ掻き回せ」

 

  ◇◆◇◆

 

 現在時刻十時を回ったウラン・ウデ上空に顕現した魔女を、二人の人間が見上げていた。

 雲を円形に吹き飛ばした突風が、遅れて地上の細氷を巻き上げる。

「……箒星グラビティアは航路に侵入出来ない。だからと言って、生身でここへ辿り着いたというのか⁉︎」

 美麗な顔を歪ませるニカンドロフの辟易に、ユスティーニは世間話の軽さで人差し指を顎に添え、小首を傾げる。

「航空スケジュールは仲間に調べて貰った。それでも時速五千キロ出すから四万五千フィートは高度を維持したよ」

 つまり彼女は西ルーシとポルスカの国境線、その上空一万三千メートルまで昇り、そこからマッハ四超え——極超音速に肉薄するスピードでウラン・ウデまで飛んで来たのだ。

「成層圏だぞ⁉︎」

「私はともかく、その子への紫外線は気を付けないとね。夜だからまだマシだろうけど」

 低酸素症の心配すらしていなかった。

 散らされていた氷晶が集まりだし、周囲を薄雲が覆っていく。

 透過した月明かりで発生した白虹の中心に佇む魔女に、人の常識は当て嵌まらない。

 箒星グラビティア重力解析装置グラビティアナライザーという科学兵器の檻に閉じ込めるのは、条約で雁字搦めに縛り付けて、脅威性を薄める措置としての側面も持つ。

 そうしなければ現行の文明社会に溶け込めない、許されない、超常の現象そんざいなのだから。

「驚かないでよ。あんたたちが再生しようとしていた存在と、何が違うの?」

 白虹を真上に、まるで天使の光輪のように携えたミシェルは、ニカンドロフへの追及の手を緩めたりはしなかった。

死因記録再生体レコードプレイヤーに使う素体。かつての最強。膨大な魔法行使が可能だったと、考古学界で保証されている死体。諜報員の妨害で、完全に再生する前に回収せざるを得なくなった魔女」

 ミシェルはもう一度、雪に差したシャベルを掴む。

「少なくとも研究所内にはそれらしい物は無かった。ならばどこに隠されているのか?答えは最初に教えてくれていた……バイカル生化研究所は何を研究対象にしている?」 

 木を森に隠すなら、実験対象は実験対象の中に紛れ込ませようとする。

 例え諜報員でも、生身のままではその魔女の元へは辿り着けなかっただろう、一石二鳥の隠し場所。

 ミシェルはこの一時間掘り続けた雪を、シャベルで盛大に退かした。雪の下から現れたのは分厚い氷の扉だ。

「随分と行儀の良い割れ目だね。自然に出来た亀裂じゃこうはならない」

 それは人為的に氷を削り取った痕跡。一度取り除いた氷塊を、再び元の位置に戻し、自然に癒着させた跡だった。

 

 降雪で隠された二人の立つ地面——否、でミシェルは月を見上げて叫ぶ。

 

「魔女様ここだ!この下に盗まれたミイラが沈んでいる!」

「っ!やめろ!」

 ニカンドロフが制止しようとするが、最早手遅れだ。ユスティーニはスノーラビットを用いずとも、身に纏わせた重力の壁諸共、ミシェルの指定したポイントへ急降下する。

 踵のヒールが直撃し、辺り一帯に新たな亀裂が走った、刹那。

 轟音と共に、湖に張った巨大な氷塊が、一斉に砕け散る。

 まるで一輪の花が咲くように。

 まるで白き鯨が半身を擡げるように。

 雪兎の魔女を中心に、現世の景観は硝子のように割れる。

 雪害とも呼べる破壊の衝撃波が、人間など知ったことかと二人を襲う。

 ニカンドロフは亀裂の位置を見極めながらハスキーを後退させ、ミシェルは持ち上がった氷塊の鋒から、落水しないように転がり落ちる。

 成層圏の超高速移動に耐える防御壁を纏ったまま、湖に潜ったユスティーニの開けた穴では、気泡が弾けていた。

第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークを編成した何者かが誰であっても、連邦に所属してる以上関係ない」

 ふらつきながら立ち上がったミシェルは被った雪を手で払う。

「これで死者の再生法は隠したまま、他国の文化財をちょろまかした罪で、世界から糾弾を受けるんだから。まさか窃盗を咎められて、兵器で黙らせる愚行は出来ないでしょ?」

 そうすれば、永遠の命に目が眩み戦争を仕掛ける国は現れない。

 密猟が国際問題に提示される時代だ。考古学、人類学、あらゆる分野で重宝される不朽体を他所の国から盗んだともなれば、責任の追求からは逃れられない。

 それこそ、死因記録再生体レコードプレイヤーの完成などさせる暇も無い程に。

「黒幕への直訴は、正当な被害者であるエジプトの新都政府に託す。終わりだよ、天才」

「……そうか」

 ニカンドロフは、氷塊が割れた衝撃から身を守るように交差させていた両手を下ろす。

「そうか。まだこの国から生きて出られると希望を持っていたんだな」

 そして露わとなる鋭利な眼光に、動揺は一片も残っていなかった。

「データが奪取された今、帝国の狙いは死因記録再生体レコードプレイヤーの計図を正確に知る私と、再生させる不朽体にあるだろう。ならばこの地に、最終防衛ラインに何も配備していないと思ったか?」

 凍てつく殺気に、ミシェルは推理が当たった高揚と自陣の魔女が間に合った興奮で火照りすら覚えた体を引き締める。

 再び凍土の寒気がその身を蝕んでいく。

「魚雷にて打尽にする。終わりは貴様たちの方だ、問題児——」

 

 ざぷんと水面を打つ音が、一つした。

 

 アリスターシャ=ニカンドロフは確かに天性の才を持っている。

 幼い頃からその才覚を発揮した為、相応の教育を受けた。彼が持つ遺伝子工学の知識も、魔女への価値観も時代背景も、幼少期から与えられ、今日の人格の一部を成している。

 軍事面で動きやすいようにと、表向き化学防護部隊へ配属され、裏では第二八秘匿計画機関トロイツァ・セミークとして魔女排斥派の期待に応えようとその頭脳を駆使している。

 考えられる非常事態への対処法も、全て先手を打った。だが、

「——………………は?」

 後方から黒軍服姿をした、機関の同胞たちが走ってくる。

 魚雷はいつでも撃てるようになったこと、湖上は危険なので念の為に退避することを伝え、ニカンドロフが氷に開いた穴の方を呆然と眺めているのに気付き、どうしたかと問う。

「み、身投げしたぞ⁉︎寒さで頭がイカれたのか⁉︎」

 彼は天才だから。だからこそ、馬鹿の起こす理解不能なアドリブには虚をつかれてしまう。

 ミシェルは魚雷と聞いた瞬間白衣を翻し、暗色の湖へと飛び込んだ。

 鉄製のシャベルで浮力を相殺し、深淵が如き暗闇で星のように唯一光る、ユスティーニが使う電灯の真上へ向けて水を蹴る。

(恐らく弾頭に火薬は積まれてない。重力結界ドレスコードにも通じる徹甲弾の形が採用されてる)

 バイカル湖は固有種を含め数多くの在来種が生息している。そこへところ構わず高火力兵器を使うのは、部屋に紛れ込んだ蚊を殺す薬を散布して水槽の魚を全滅させるくらいには間抜けな手段だ。

(なら音波による標的の識別と有線回路による操縦の合わせ技か?)

 デコイの類は効かない。誘導方法に当てをつけた直後、ニカンドロフが打尽と言っていたことを思い出す。

 ミシェルは端末に文字を打ち込むとシャベルと共に、ユスティーニへ確実に届く位置から手放した。

 もう手足に力が入らない。全身を突き刺していた激痛も段々と感じ取れなくなり、酸素が足りないのに眠気が襲ってくる。体の震えにすり潰されるように、意識を手放しかけていた。

 それ故か、突然の衝撃を喰らい、生温かい物に包まれた感覚に、理解が追いつかなかった。

(?……流れ弾にでも当たった?)

 そっと瞼を押し上げる。視界に広がったのは赤黒い臓物ではなく、蒼と黒の操縦服だ。

 死体蹴りされた訳ではないと、ほっと一息を吐き、呼吸が出来る事実に意識を覚醒させる。

 ミシェルが居るのは、ユスティーニの作った空気の膜の中だ。それも高速で襲い掛かる魚雷を回避し続ける最中の。寝てる場合じゃないと見上げれば、黒髪の少女と目が合う。

「無茶し過ぎ」

 表情の乏しい眉を少しだけ下げて、抱きしめたずぶ濡れのミシェルから、魔法で冷水だけを剥ぎ取る。腹部に置く形で、落とした端末を返された。

 画面に映る『魚雷。受け止めないで』のメッセージを読んだのだろう。ガラス玉のような瞳がミシェルを透過し、三二四mmの雷撃を薄皮一枚で躱していく。

「多分、被雷したら、鹵獲する機能が付いてる」

「なら、高電圧で気絶させるつもりかも……早めに離脱するよ」

 ワイヤー射出型スタンガンのような造りか。言うが早いかミシェルの体は両腕で抱きかかえられたまま、水上へ向けて引っ張られる。

 氷水を突き上げ、湖から空中へ脱出すれば、月明かりに膜内の様子が照らされる。

 暗がりの湖中に紛れ込ませる為か、漆黒に塗られた棺の存在に気付く。

「これが……」

 無意識の内に逸り、蓋の境目に手を伸ばす。

「そう。あなたの推理は正しかった。それが——」

 

 開かれた棺桶、防水シート一枚に隔てられた先に、一人の女性が眠っていた。

 黒鳶色の長髪に蝋のような肌。痩せ細った体躯は乾いた白い布を纏っている。

 二千年の時を経てなお、朽ちず腐らず、人の領域を超えた美貌を保つ不朽体。

「——〈原初の魔女ロードピス〉砂塵の国に降臨し、かつて最強と呼ばれた者」

 

 ユスティーニは自分のチョーカーに搭載されたいるカメラ機能から、その映像を本部と国境線の基地へ送信していた。

『スノーラビットより送られてきた映像の解析、発掘チームから提供された盗品リストの写真との照合結果、色彩及び人相、というか死相?全て一致しました!』

 オペレーターの報告がユスティーニの通信機から発せられると同時に、二人を追ってきた短魚雷が、氷上に打ち上げられた。

 鹵獲に失敗して横たわる対処法ぎょらいの隣に立つニカンドロフが、こちらを睨み付けている。

「自分が何をしたのか、分かっているのか⁉︎」

 柳眉を立てた困惑が、ミシェルを非難した。ずんずんと大股に、浮遊する魔女の元へ近づこうとし、退避していた同胞たちに止められる。

「魔女との相利共生など夢物語を語る時代は終わっている!奴等はつけ上がらせれば、いずれ再び戦乱を招く脅威になると、何故分からない⁉︎」

 魔女を最後の神秘と定義した世界に於いても夢の域を超えなかった、死者再生の技術を完成させた技術者でも、ミシェルの奇行は理解の範疇を外れていた。

 人格形成の大切な時期に魔女への忌避的価値観を注がれた彼の常識は、ミシェルの考え方を許さない。

 勿論、ミシェルにはそれを知れる由もない。だから、学生は知り得た範囲で、青年の難詰へ切り返す。

「その問題は人間だけであっても生まれるものだよ。分かってるでしょ?」

「!」

「死体を再利用する技術と、死体を量産する戦争は相性が良い。帝国と連邦がぶつかれば、その戦いは泥沼化、利益を貪りたい他国の介入が始まって、そこから五度目の大戦に繋がる」

 SDカードに記された報告書の内容。それをあくまで淡々と、冷たい眼差しでニカンドロフへ突き落とした。

「だからあんたが危惧した戦争は、トラップセラーが絶対に起こさせないよ。新企画主任」

 歪まされた善性への、訣別が終わる。

 

 

 成層圏へ向け上昇を続ける重力結界ドレスコードの内部は静かだった。

 魔法で酸素を取り入れ、気圧を調整し、内部の温度を徐々に上げていく。

 分厚い雲の層を抜け、満天の星空を邪魔するものは無い。

 文明の灯火を置き去りにしたような。人の営みから置き去りにされたような。

 そんな寂寥感すら感じる、果ての無い絶海の孤島。

 二人ぼっちの四万五千フィートで、静寂を破ったのはユスティーニだった。

「二度とあんなことはしないで」

 自分より大きな、自分より冷たい体を抱きしめる手に、力が篭もる。

重力結界ドレスコードは張る対象によって強度が変わるの。箒星グラビティアみたいな鋼鉄の兵装ならともかく、空気の膜しかない状態なら、最初から魚雷は受け止めたりしなかった。貴方の行動は、ただ自分を危険に晒しただけ」

 滑り出した夜空の先を見つめたまま、語尾を強める。

 沈んできたシャベルが結界にぶつかり、真上で溺れるミシェルに気付き、血の気が失せた。

 ニカンドロフたちはミシェルを他殺出来ない。軍用犬は魔女の行動で警戒心が高まり襲って来ない。だからユスティーニは不朽体の回収に潜水した。

 それなのに救出対象は、自ら死地に飛び込んで来たのだ。

「基地に戻ったら貴方と棺は司令部に預けるから。私の扱いはその人たちに聞いて」

 確かに学生が穴の外から端末を落としただけでは、自分の元に危険が伝わらなかったかもしれない。魚雷の静音性を考えれば、レーダーによる探知が不可能な生身のユスティーニは不意打ちを喰らったかもしれない。

 それでも、ありがとうなんて感謝を伝えてしまったら、その行動を肯定してしまうようで。

 このインターン生は、また同じことを繰り返してしまうのではないかと、不安が過ぎる。

 だから突き放す。例えそれがアレクサンドリアの浜辺でこちらを見てそそくさと立ち去った母親と同じであっても。非情で不躾な魔女だと罵られても構わないと。

「私のことなんか絶対助けな——」

 額にそっと、ハンカチが添えられた。

 国境線で付いた傷口が開いていたようだ。止血は済んでいたが、気温の上下が傷口と血行を刺激したのが原因か。

 学生は傷が広がらないように、優しく血を拭っていく。それでも何度も流血してしまうのを見兼ねて、結局赤く染まったハンカチを押し当てたまま、口を開く。

「分かった約束する。次は君に心配されないように、頼もしく助けなくっちゃ」

 低体温のせいで動きは緩慢だが、恥ずかしそうに微笑んだ。

「その為にも、これからのインターンで色々なこと、教えて貰うから」

「ち、違……そうだけど、そういう意味じゃなくって」

 戸惑う声に、ミシェルはきょとんとした顔で首を傾げた。

「助けるのは、私の仕事なの。貴方は助けられてれば良い筈なのに、どうして?」

 両腕の中のミシェルを伺えば、思わず息が止まる。

 真夜中を閉じ込めた瞳には、時速五千キロで流れていく星が、その中心にはユスティーニ自身が映っている。曇りなき眼がきらきらと輝いていた。

「最初は箒星グラビティアが空を裂く音に惹かれて、その巨体を動かしてるのが君たちだと知って驚いて……一目惚れなのかな?後は、怒ってるんだと思う」

 思い出すように、少しだけ遠くを眺める。

「怒るの?」

「うん。憧れた存在が、搾取され続けているのが許せない。だからこうしてる。」

 それまでは、魔女が空を通り過ぎていくのを見上げるだけだった。けれど魔女という存在に近づいてみれば、路地裏の地べたに座り込む少女の境遇を知った。

 綺麗ではない陰鬱とした差別を知っても、知ったからこそ、見て見ぬフリが出来なかった。

 ミシェルは自分の戦う理由がエゴだと自覚している。エゴの押し付けが、せめて彼女たちにとって不快な物にならないよう、インターンを使って学ぼうとしていた。

「君は?」

 ミシェルは逆に問い返す。

「君はどうして、その強力な魔法を人助けの為に使ってくれるの?」

 ユスティーニは質問の意味への理解が遅れた。その間に、ミシェルが矢継ぎ早に続ける。

「まだこんな小さな子供なのに!」

「……えっ」

 大事なことが多過ぎて、自分が十二歳程度の見た目であることを失念していた。

「魔法が使えれば歳は関係無いっていうの?トラップセラーがここまでブラックだとは思わなかったよ⁉︎」

「いや、」

 ユスティーニが返答の言葉を探す間にも、わなわなと拳を震わせるミシェルの勢いは止まらない。

「まずは労基を突きつけて待遇改善からだね。安心して!前にも似たこと成功させてるから」

 

「私は貴方より年上だよ?」

 

 予想外の答えが飛び出して、しばし夜の成層圏に、高い飛行音だけが鳴っていた。

「……えっ」

 ミシェルは目を丸くして、訂正の意味を噛み砕こうとして、頭の中にハテナが乱舞する。

「み、ミシェル・ローラン、十七歳です」

「うん、大丈夫。私成人してるから」

 成人。つまり眼前の幼き魔女は、十八歳以上だと言っているのだ。

「はいっ⁉︎ほ、本当⁉︎確認取るよ⁉︎」

「それくらいなら調べればすぐ分かるだろうし、構わないけと」

 実年齢と外見の差異は、以前から驚かれることもあったので、慣れた様子で受け流す。

「そっか、そっか……それなら、自己紹介と一緒に言わなきゃいけないことがあった」

 衝撃の事実を飲み込みながら、ゆっくり落ち着きを取り戻していったミシェルは、もう一度魔女の二色の瞳を覗き込む。

「助けてくれてありがとう。君の名前を教えてくれないかな?」

 魔女は瞳を瞬かせた。そして、何度も何度も口にしたその名を流す。

「?……スノーラビット」

「作戦中は機体名で呼ぶんだっけ?ふっふーん!しかーし、今の君は生身の状態、区別の為に名前を聞いてもおかしくはないのだー」

 何故か得意気に胸を張る学生は、魔女自身の名前を聞いてきた。

 最後に名乗ったのは何時ぶりか…そも、最後に名を聞かれたのはいつだったか。

 魔女——否、少女の口から、辿々しく己の本名が零れた。

「ユスティーニ。ユスティーニ・ラグランジア」

 自分を表す名が音に乗ると、暗天の幕と鈍色の雲が広がる視界に、亀裂が入る。

 灰色だった世界が、少しだけ色付いたような。

「マジか、名前まで可愛いとか最強じゃん」

 ミシェルは仄かに染まった頬を綻ばせた。

「遅くなってごめん。、手放しに褒められなかった」

 学生が当たり前のように述べた理由に少女は、思わず面持ちを破顔させた。

「ふふっ、オリヴィエの言ってたこと、本当だった」

 何のことか分かっていない様子のミシェルに、何でもないと、視線を前へ戻す。

 早く戦場に戻らなければ。時間を稼ぐ第七の隊員たちの為にも、速度を上げる。

 

 一条の箒星ほうきぼしが、夜空を切り裂いていった。

 

 

 ユスティーニは、救出の作戦会議の終わりにオリヴィエが言った言葉を思い出す。

 負傷している彼女に無理を通すことに、謝罪を入れてた後のことだ。

 前任者ヴィットーリアからの影響で〈魔女〉と隊員たちの間には、大きな隔たり、壁が出来しまっている。

 その溝の縁で「でもやっぱり」と前置きしてから、インターン生の評価を伝えてきた。

 

『架け橋になれるタイプのバカなのかどうかは、魔女側のあんたに見極めて欲しい。兎に角、あんたはあの学生に会うべきだと思うぜ。直接な』

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