第2部 2話
今日は出社命令があり久方振りに本社へ向かいました。普段ならば七時には開店準備をして八時に喫茶店を開ける時間ですが、現在私は電車が来るのを最寄駅で待っているところです。本日店は臨時休業としてきました。常連様は少し驚くかもしれません。私が店を急に休むことは十年ぶりでしょうか。いつもは一ヶ月か二ヶ月前に出社の連絡が来るため事前にお客様に知らせることが可能でしたが、今回は違いました。昨日、しかも深夜に連絡が来たのでございます。
『明朝八時半に〇〇に来るように。その際に実験2112番の資料を持参すること。以上』
私は驚きました。今まで過去の実験の資料の持参を求められたことなどなかったためです。もちろん、2112番のデータや私の考察などはすでに送っています。それなのに関わらず私のデータを求められる上に、急に決定したかのような出社命令。今回は何かが違うと私は感じておりました。もちろん上司の命令は絶対で拒否権などはないため私はこうして大人しく本社へ向かっております。
本社はオフィス街にあります。ビルに入ると無機質な扉と認証システムが私を迎えます。受付など存在しない、いや存在する必要もないのでしょう。ここに来る人間はこの会社に属する人間しかいなのですから。機器点検なども自社の専門部門があるためエレベーター業者やシステムが会社は不要です。それほどまでの外部の人間を入れさせないような細心の注意を払う必要がこの会社にはあるわけです。私はタッチパネルに認証番号を入力します。十文字以上の長く定期的に数字は変わるためセキュリティ面はばっちり、問題点としては変わるたびに私が覚えないといけないことが億劫であるという点のみでしょうか。これにはカメラがついているため番号を間違えたり時間がかかってしまうとロックがかかり警備員(これも自社のスタッフです)が駆けつけてしまいます。かつて私も一度やらやしてしまい、上司の小言を聞き約束の時間に遅れたため関係各所に頭を下げにいき始末書を書くといった経験がありもうあのようなことは懲り懲りでございます。今朝必死に覚えた数字を入力し認証完了、その後網膜認証を終えた時にはホッと安堵をしたものです。
エレベーターに入りさあ目的地のボタンを押そうとした時に気づいてしまいました。なんと、また認証番号の入力を求められたのです!以前来た時にはなかったのに!私は深くため息をつきましたが仕方がないのでもう一度入力しボタンを押しました。ようやく目的の階に到着し扉が開きました。私の所属部署のフロアへ行くとすでに上司は椅子に座って何やらパソコンに向かって仕事をしておりました。
「おはようございます。」
「おお、おはよう。突然呼び出してすまなかったね。」
「いえ、これ実験2112番の資料です。」
「ありがとう。データは君が送ってくれていたから大丈夫だと思っていたんだが、どうやら問題があったようでね。」
「私のデータに不備がありましたか?」
「いやいや、君の提出したものはいつも通り完璧だったよ。」
「では、なぜ私は呼び出された上に、資料の提出を求められたのでしょうか。」
上司は少し考えていたが、私の視線に根負けしたのかしぶしぶといったように口を開いた。
「実は‥。2112番の差出者がね‥。」
「辻村優ですか?彼は記憶を抽出されたのち、施設で保管されているのではなかったのですか?」
「そうなのだよ。彼の場合は記憶を完全に抽出したため彼の本体には完全に記憶がなくなり、しばらく保管される。そして、また違う実験体として記憶を注入され観察対象となる。普通はね。」
「今回は違ったのですか?」
「ああ。記憶を注入されたまでは良かった、思惑通りに進んでいたんだよ。それから彼は目を覚ました。別人の記憶を持った辻村優としてね。辻村本人の記憶を持っているなんてありえないんだ。私たちが意図してそうしているからね。しかし、ここで不測の事態が起こったんだ。」
そこで区切ると上司は少し顔を逸らしました。まるでそれ以上口にすることが憚られるかのような様子でした。
「記憶を‥辻村優本人の記憶を持っていることが判明したんだ。」
今度は私が驚く番でした。脇の下を冷たいものが流れていくような感覚がありました。まさか‥、そんなことはあり得ません。自社の記憶抽出技術や操作技術は現代の科学技術からしてもかなり進んだものだと自負しております。ですから厳重な警戒をして技術が外部に漏れないようにしているのです。それなのに今回だけ操作を誤り失敗してしまったのでしょうか?今までそんなことは起こらなかったのに?
「まさか‥。技術部門はどういう見解なんですか?」
「特に問題はなかったと言っているんだよ。いつも通りで異常はなかったとね。だから今回は実験体に何か問題があったのではないかと調べ直すことになった。だから2112番の資料が必要というわけだ。そこで君にも聞きたいのだが、2112番を観察していた君から見て何か変わった点はなかったかい?」
「変わった点ですか‥。」
私は高梨尚、辻村優、村津柚慈の顔を思い浮かべた。皆普通に見え、どこにでもいるような男たちだったと記憶しております。
「いえ、特に変わりはなかったと思われます。」
上司は少し落胆しているように見えましたが、すぐに気を取り直し私に笑顔を向けました。
「そうか。わかった。上にはそう報告しておこう。」
「あの。」
「なんだい。」
「辻村優に会うことはできますでしょうか?」
「話すことはできないが、様子を見ることはできる。来たまえ。」
上司が立ち上がりドアの方へ向かいます。私も後を追いながら思いました。そういえば辻村優は小説を書いていたと。それが関係あるか今は定かではないので口にするのはやめておきました。
エレベーターで地下におり(上司は暗証番号を凄まじい速さでタイピングしており少し恐怖を覚えるほどでした)、さらに奥の方へ進んで行きました。ここは一定以上の役職の者でないと立ち入りすら許されないエリアです。ヒラの私など生涯訪れることはないと思っておりました。厳重な扉がいくつもあり段々と認証番号、網膜認証、指紋認証、さらにカード型の認証キーなどと警戒度が上がっているようでした。私は上司の後ろをついて進むだけでしたが緊張しているのが自分でも分かりました。
ついにある扉の前に着いた時にそれまで押し黙っていた上司が口を開きました。
「彼はこの部屋の中にいる。我々は横の小部屋から覗くだけだ。マジックミラーになっているからあちらからは見ることはできない。それでも大きな声で話せば隣に聞こえる。私の言いたいことは分かるね?」
「はい。」
私は音量を落として答えました。上司は満足したように頷くと隣に並んでいるドアの取手に手をかけゆっくりと開きました。
かなり狭い部屋で、中には壁に取り付けられている窓以外ありませんでした。私はゆっくりと窓に近づいていきます。窓からは隣の部屋の様子がよく見えます。中には一人の若者が椅子に座っておりました。彼は少しぼーとしているようでしたが、顔には見覚えがあります。十年前の記憶の中のそのままの姿で、私が喫茶店で見た彼本人でした。
「彼が辻村優だね?」
「はい、そうです。」
隣の部屋に誰か入ってきました。彼は気づいていない様子です。
「今から調査部の聞き取り、いやあれは尋問と言っても過言ではないね。始まるようだ。どうだ?見るか?」
「いいえ。大丈夫です。」
「そうか。では外に出よう。私もこんなところに長くはいたくないからね。」
私たちは来た順番とは逆の道順で上司のオフィスに戻りました。上司は椅子に座ると足を組み私の方を向きましたが、私は少し目線を逸らし俯きました。彼女のタイトなスカートが捲れ、大腿が露わになっており、私は目のやり場に困っております。彼女はそんなことは全く気にする素振りを見せることなく私に話しかけました。
「私としても前代未聞のことが起きて正直参っている。上は責任のなすり付けありだし、君に落ち度があったとも考えにくい。八歩塞がりだ。」
かなり参っているようで私は今まで彼女がこんな顔を見たことはありませんでした。どう声をかけたら良いか思案しているとドアがノックされました。
「どうぞ。」
入ってきたのは先ほどみた調査部の人間でした。余程急いで来たのか息が切れておりました。
「どうかしましたか。」
入ってきた彼は息を整えてから口を開きました。
「あの、辻村優が高梨尚に会わせてくれと言っていまして‥。どうしますか?」
これには彼女も予想外だったようで目を見開いていました。
「分かりました。少し考えます。結果はまた連絡します。」
「よろしくお願いします。私どもとしても今回どうしてこうなったかを知るために彼には協力してもらわないといけません。どうか前向けにお考えください。」
彼が部屋から出ていくと彼女は顔を手で覆い消え入りそうな声で言いました。
「どうしたらいいんだ‥。」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます