十六/ジュウロク

 朝、目が覚めると私は自室のベッドの上に寝ていた。見慣れた天井、柔らかめの枕とマットレス、頭の芯の方が少し痛む。昨日高梨さんと飲んだと思うのだが、実感が湧かない。重い頭を抱えて、水でも飲もうと寝室を出て、隣のリビングに入る。整理整頓された机、シンクにも皿はない。コップを取ろうと戸棚を開けるといつもと配置が違う皿やコップが置かれていた。配置は違うが、きちんと整理されており、取りやすいように種類別に分けられ、コップなんかは高さが低いものは取りやすいように前に高いものは奥の方に置かれていた。私よりもこの家のものの最適な置き場所を知っているのかもしれない。

 水をコップに注ぎ、口に含む。冷たい液体が、口腔内を冷やす。少し口の中で含んでおいて、飲み下す。まるで体内から冷えていくようだった。いつの間に帰ったのだろうかと考えながら、ソファに座ろうと近づく。ソファに近づいて初めて気がついた。ソファの上に人が寝ているのだ。確認しなくても分かる。高梨さんである。

(そうか、帰っていなかったのか。)

帰っていないことが分かり、少し嬉しく思っている自分に気づいたのは高梨さんの顔を覗き込んだ時だった。きっと、酔い潰れた自分を隣の寝室に運び、皿やコップを片付けてくれたのだ。起こさないようにそっとつま先で歩くようにしながら食卓の椅子に腰掛ける。時間は十時過ぎ。もう少し寝かしてあげようと思った。コップに口をつけながら昨夜のことを思い出す。高梨さんと、私と辻村さん。普通なら会うことのできない三人が奇跡としか言えない出会いをした。辻村さんは私という存在を通してであるが。

(これからどうしたら良いんだろうな。)

ふとそう思った時だった。

(どうもしなくて良いだろう。君は村津柚慈としてこれからも生きていけば良い。)

頭の中で辻村さんの声が響く。急に声が聞こえたので少し驚く。

(でも、高梨さんはこれからも辻村さんと会いたいと望むでしょうし、辻村さん自身もそうしたいと思うでしょう?)

(それはそうだが‥。言わば俺は君に寄生している身だ。宿主の命令に従う必要がある。君がもう尚と会いたくないと思うんだったら金輪際会うつもりはない。第一、俺とあいつの関係は十年前に終わっているんだからな。こうして会うことができてラッキーなくらいだ。村津君には本当に感謝している。ありがとう。)

 辻村さんの声は嘘偽りなさそうなまっすぐな声だった。改めてそう言われると少し照れる。

(いえいえ、お二人がまた会うことができて良かったです。僕も高梨さんのことが好きですし、これからも会いたいです。)

(そうか。そう言ってくれて内心ほっとしているよ。口では気にしてないように言ったけど、本当のところ君が会わないと言ったらどうしようかと思っていた。あと、これからも尚と会う時は村津柚慈として会ってくれ。そして、ほんの少しでいい、俺と尚が話す時間をとってくれると嬉しい。その他の時間では俺は出てこない。君は村津柚慈として生活してほしい。)

(分かりました。でも‥。)

(どうした?)

(これからも、辻村さんとこうして頭の中で話したいです。昔の高梨さんとか、辻村さんのこととか知りたいから。)

(っ‥!ああ、それはもちろん。君が望めばそれは可能だと思う。)

(ありがとうございます。)


 ソファの上の高梨さんがモゾモゾ動いている。どうやら目が覚めたようだ。ゆっくりと高梨さんが体を起こす。

「おはようございます、高梨さん。」

私が声をかける。高梨さんは私の方を向く。とても眠たそうな顔だった。

「おはよう。ごめん。自分の部屋に帰らずにここで寝ちゃったようだ。」

「そんなこといいですよ。それより、僕をベッドに運んでくれた上に、後片付けまでしてもらっちゃって、ありがとうございます。あと戸棚まで整理整頓してくれててすみません。」

「いいよ。そんなことぐらい。体調は大丈夫?昨日はかなり飲んでたけど。」

「ちょっと頭痛いぐらいなので大丈夫です。」

「そう?しんどかったら言ってね。」

「はい。ありがとうございます。」

「あとさ、優、いるかな?」

ひゅっと私の喉が鳴る。

(やっぱり高梨さんは、僕より辻村さんか‥。当然だよね。)

私は少しがっかりしながら辻村さんに代わる。

「なんだ?尚。」

俺の声(声自体は村津君のものなんだが、多分言い方なんかが村津君と違うのですぐに分かるのだろう)を聞いた途端、尚の顔が心なしか明るくなったような気がした。いや、これは俺の勝手にそうであったらいいなとという思い込みからそう見えただけだったのかもしれない。

「おはよう、優。昨日は酔っていたから僕の妄想だったんじゃないかと思ってた。でも、こうして話すと優はいたんだって実感できるね。」

「妄想じゃねえよ。俺は今もこうしてちゃんと存在している。村津君の中にだけどな。」

「うん。なんか不思議な感じだね。いるのにいないみたいだ。」

「実際に話しているのは村津君に対してだからな。本来ならば、俺はいないはずの存在だ。だから尚。お願いがある。」

「何。改まって。」

「これからは俺が答えている時でも、村津柚慈と話しているということを忘れないでほしい。」

尚の顔が引き攣ったように固まる。

「でも、僕が話しているのは優だよ。」

「ああ。そうだ。だが、村津君の気持ちも考えてくれ。頼む。」

少しの沈黙。

「分かった。そうする。」

「ありがとう。」

俺は尚の目を見つめながら言った。そうだ、これでいいと自分に言い聞かせながら。


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