ジュウニ×12(⑫)
再び静寂が訪れた。高梨さんの言葉は静かであったが、どこか確信しているような力強さがあった。
「‥。覚えていないってこと‥ですか。」
私は喉の奥から絞り出すように一言をようやく発することができた。認めなくない、彼があの人のことを全く覚えていないなんて。
「全くじゃない。事故から昔よりも近い出来事が割合的には多く忘れているけど、大学のこととか、自分が何者かとかは分かるよ。だからもし村津君が知っていることがあれば教えて欲しい。失った空白を埋めたいんだ。もう二度と忘れないように。」
「でも、僕も高梨さんの癖とか好きだったものぐらいしか分からないんです。まるで、赤の他人の記憶の一部を植え付けられたような感じです。だから何故知っているのか、どうやって知り合ったのかとか肝心なことは全く知らないんです!僕の方が教えて欲しいぐらいですよ。」
自分でもこの人に八つ当たりしているのは分かっていた。でも、今の自分にはこうすることしかできなかった。このもどかしさを昇華する方法が他に思いつかなかったのだ。
「お待たせいたしました。コーヒーでございます。」
マスターがコーヒーを私の前に置く。私は無言で軽くお辞儀する。マスターが踵を返そうとくるりと体を斜めに向けたときだ。
「私がもし、他の人の記憶が自分の中にあったならば。」
えっと私は顔を上げた。声の主は続けた。
「気持ちが悪いと思うでしょう。自分じゃない人の記憶があるということはその人の感情まで手に取るように分かるということですから。自分が感じている以外の感情があるなんて耐えられないですね。」
「‥。」
「‥。」
「ただ、そう感じない方も今までもいらっしゃいましたよ。その人のことが知りたいと躍起になって調べ、思い出そうとしたりその人と同じ気持ちになろうとしていたようですね。」
「!?」
「!?」
私と高梨さんが同時にマスターの方を見た。ちょうどマスターは私達の方に向き直す最中であった。
「あのっ。僕たちみたいな人を知っているんですか?」
「ええ。長生きしていると様々な方と出会いますからね。特に喫茶店なんてものは密会によく選ばれますから。意識して聞いていなくてもお客様の会話が耳に入ってきたりするんですよ。確か、何年か前にも同じような内容を話していたような気がします。」
私は驚きのあまり声が出せなかった。高梨さんの方は見開いた目でマスターを見つめていた。
「その人達と会うことは可能でしょうか。もし、連絡先など知っているならば教えて頂きたいのですが。」
高梨さんが丁寧であるがはっきりとした口調で話す。
「申し訳ありませんが、お客様の個人情報ですので。しかも、その方々と会うことは難しいと思いますよ。」
「難しい?何故です?」
「その方々の会話を聞いたのは随分前になるからです。一人の方は重い病気で幾ばくもないようでした。それからあの方々をお見かけしたことはありません。きっと、もう‥。」
高梨さんが落胆したように背もたれにもたれる。私も俯く。唯一の希望が途切れてしまい再び暗闇の中に放り込まれたような気分だ。
「ですが、あの方々は他にも言っていたことがあります。過去にも同じような人がいたこと、片方がいなくなった時にもう一人も記録からなくなるらしいと。もう一人は死んだという記録もないのに、です。そして、十年後にひょっこりと同じような境遇の人がいたという記録が出てくる。もちろん名前も違うので別人でしょう。これは私の考えなので、信憑性はありませんが‥。どういう理屈かは見当はつきませんが、たまたま自分とは関わりの無い人物の記憶を持つ人間が二人現れて、出会い、別れ、また十年後に同じような人が出てくるというのではないでしょうか。」
私は堪えきれなくなって口を開いた。
「十年前の記憶が受け継がれたと?そして受け継いだ人間が死んだらまた十年後にその記憶を受け継いだ人間が出てくるって?そんなSFじみたことがあるわけない。第一受け継がれた記憶は誰のものなんだ?一番最初のやつらのものか、それとも一つ前のやつらのものか?それとその記憶は生まれた時からあったのか?それなら高梨さんは覚えているはずだ。忘れているのは事故から近いものばかりだと言っていたから。生まれた時じゃないとしたらその記憶はいつ受け継がれるんだ。少なくとも僕は受け取ったことは覚えていないぞ。憶測で勝手なことを話さないでよ!」
「ストップ!村津君、言い過ぎだよ。でも、マスター、確かに急にこんなことを言われたら誰でも困惑する。確かにそんな会話をしていた人が以前にいたのでしょう。でも、その人たちが出まかせを言っていたとしたら?第一、マスターはその内容を話していた一組だけを見たに過ぎない。他に同じような人がいたとは限らないでしょう。」
マスターはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。一組だけではありません。その方々を見た以前に同じようなことを話す方はいました。だいたい今から三十年ほど前です。ですからあの方々の推理は的外れではないと思います。そして病魔に侵されている友人に対してこう伝えておりました。『大丈夫。必ずまた会える。』と。これはあの方々が再び会うことを確信していたからに違いありません。こんな耄碌している爺の言っていることですからなかなか信じることは難しいでしょうが、せめてあなた方の考える足掛りの一つとなれば本望でございます。お邪魔してしまい申し訳ありません。では、ごゆっくり。」
マスターは一息に喋ってしまうと、一礼した後カウンターへと戻ってしまった。
僕らはお互いに押し黙りしばらく動かなかった。いや、動けなかったのだ。予想だにしなかった告白、そして核心をつくような発言。まるで物語の中でしか見たことないことが実際に自分の身に起こり、自分の理解の範疇を越えると人は意識的な動作が全て停止するのだということを初めて知った。できるのは生命活動に必要である呼吸や拍動など無意識に起こることばかりで、頭に靄がかかったように物事を考えることすらできなくなるのだ。どうやら村津君も同じようで表情は呆然としていた。しばらくすると村津君が消え入りそうな声で囁くように話す。
「僕ら、十年前に会っていたんですね。多分、高梨さんが事故に遭う少し前に。でも、高梨さんって記憶が飛んでるだけですよね、死んでいない。どうしてかな。ねえ、高梨さん。その時の写真とかないんですか。なんでもいい、その時のことが思い出せるようなもの。」
「そんなこと言われても‥。いや‥。写真?そうだ。あの時僕は写真が趣味だった。よくいろんなところで撮ってたから残っているかも。多分、スマホにも同期してて‥。‥あった、え。」
僕は、十年ほど前の写真を見た。そこには若かりし頃の自分ともう一人、自分と同じくらいの年の男が屈託のない笑顔で写っていた。
『おい!ちょっと待てって!お前、尚だろ?』
『俺はお前のことを知っている。いや、覚えているんだ。』
『誰しも最初はそうだ。初めから慣れている人間なんていない。』
僕の脳内に一気に記憶が流れ込んできた。長い間忘れてしまっていた大切な、忘れてはいけないかけがえのないものが。
「優?辻村優。そうだ!なんで忘れていたんだ。君は辻村優だ!」
僕は彼、いや辻村優の顔をしっかりと見据え、名前を呼んだ。
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