ジュウイチ


 待ち合わせの五分前に喫茶店に着いたが、すでに高梨さんは来ていた。彼は隅の方の席に腰掛け本を読んでいた。気づくだろうかと思いながら静かに近づく。彼が気づく様子はない。対面の椅子に腰掛ける。まだ顔を上げない。余程集中していると見える。彼の真剣な顔を見つめる。マスターは私に気づいている筈だが注文を取りに来ない、もしかすると私に合わせてくれているのかもしれない。しばらくそのままであった。三十分いや、五分程度であったかもしれないが、私にとっては心地良い時間であった。


 しばらくして高梨さんが顔を上げる。

「すごく集中してましたよ。その本そんなに面白いですか?」

挨拶よりも先に口をついた言葉はまるで友達同士の会話のようだった。

「ああ。面白いよ。」

彼が答えた。私は思わず微笑んだ。彼がこうやって本を読んでいることがたまらなく嬉しかったから。

「ごめん、全く気がつかなかった。声をかけてくれて良かったのに。」

高梨さんが本を閉じながら言う。ああ、この癖も変わっていない。あとで読んでいたページが分からなくなるのが目に見えて分かるのに。

「高梨さんが本読んでいるのを見ているのも楽しかったですよ。すっごい集中してて、本当にその本が好きなんだなって思いました。」

高梨さんは少しはにかんだように笑う。

「学生の頃から好きな作家さんの本なんだ。この頃全く読んでなかったんだけど、久しぶりに読んでさ、年甲斐もなく没頭しちゃったよ。こんな大人かっこ悪いだろ。」

「そんなことないですよ!僕は素敵だと思います!」

「ありがとう。君は優しいね。」

私は本心からの言葉が彼にはお世辞に聞こえてしまったことが少し不服であった。その時、マスターが注文を取りに近づいてきた。

「ご注文伺います。」

「あ、コーヒーをください。」

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ。」

マスターが離れると私は口を開いた。

「今回、誘ったのはただ世間話をしたかったわけじゃないんです。」

そこで一度息をつく。これから先は彼に伝えて良いものだろうか。変なやつだと思われるかもしれない、彼に限ってないだろうが馬鹿にされるかもしれない、こわい。これから話すことを口にするのが私はとてもこわい。彼の方をみる。彼は静かにこちらが口を開くのを待ってくれていた。いつもと、いや優しい顔で。

「あの‥。変なことを言っていると思うかもしれませんけど‥。僕はずっと前から高梨さんのことを知ってました。」

高梨さんは少し驚いた様子だった。

「え‥。その‥、研究室で会う前ってこと?マンションとかかな。」

「違います。僕は高梨さんとマンションで会ったことはありません。もちろん大学でもありません。というか実際に会って知ってたわけじゃないんです。」

彼は困惑した様子で、次の言葉を探しているようだった。

「えっと‥。僕らは実際に会ったことはない。だけど、君は僕を知っていた。どうしてかな。何かネットとかで見たとか。」

私は首を横に振る。

「僕はSNSに疎くてあまり普段から見ないんです。だから高梨さんがもし何かやってたとしてもそのアカウントを知らないし、もちろん高梨さんの友達も知りません。」

「では何故?」

「それは‥。」

私は大きく息を吐く。頑張れ、自分。

「何故だか分かりません。でも、高梨さんを初めて見た時からなんだかずっと前から知っているような気がしたんです。高梨さんと話しているうちにそれは確信に変わって今ではあなたの癖まで知ってます。例えば、読書を中断するときはしおりを使わずにすぐに閉じちゃう。だから今度読むときはどこからか分からなくなって困るでしょ。」

彼は目を見開いて驚いた様子であった。多分、自分では気づいていなかったのかもしれない。

「自分でも不思議なんです。どうしてこんなに高梨さんのことを知っているのか。」

「だから‥」と私は続ける。

「僕なりに考えたんです。最近、ずっと。そこで気がついたんです。僕が知っているのはまるで友達同士の視点だってことに。家族でも知り合い程度の付き合いでもなく、かなり親しい仲のような関係だって。もしかしたら‥、僕たちは友達だったんじゃないのかなって、そう思ったんです。」

それから少しの間静寂が訪れた。彼は考え込んでいるようだったが、少ししてから顔を上げた。

「僕さ、大学生の頃、事故に遭ったって言ったことあったよね。その時のことが今でも曖昧なんだけど、実はずっと気になっていたことがあってさ。何か大切なものを忘れているような気がしてたんだ。人か物かも分からない、でも忘れてはいけないものを忘れてしまったような、早く思い出さないといけないという焦燥感はあるのに全く分からない。それはもしかして村津君のことかもしれない。」

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