ナナ
かけている目覚ましが鳴る前に目が覚め、朝起きる。朝食は摂らない。いつからか体に染み付いた習慣となっており、簡単には変えることはできない。顔を洗い、歯を磨く。鏡の中の顔を見つめる。いつも通りの自分の顔だ。時折全く知らない自分とは違う誰かの顔に見えるいつもの顔だ。私は村津柚慈、どこにでもいる男子大学生。理学部に属し、サークルにも入っておらず、そのため友人と呼べる存在は少ない。
歯磨きを終え、軽く髪型を整える。比較的安く若者に人気の衣料品店で購入したありふれた衣服に着替える。トイレを済まし、時間を確認する。まだ始業の時間には早いため充電していたスマホを開く。通知といえば通知登録しているニュースのアプリぐらいである。一応LINEやInstagramに登録しているものの登録している人数が少ないため更新頻度が少なく、目新しい情報もなかった。別段機械に疎いわけではないもののあまり必要性を感じていないためかスマホを使いこなしていない。宝の持ち腐れと言ってしまえばそれまでであるが、大学入学祝いとして渡されたそれを使わないわけにもいかず私には少々手に余っている。
大学に着き、教室の端の方に座る。前の方は少々見つかると面倒であるため真ん中より少し後ろの席である。私は、持参したパソコンを立ち上げる。最近の大学はノートではなくパソコンやタブレットなどでメモしても構わないという講義が増えた。もちろん中には昔ながらのノートに取らないといけないというものも存在するものの今の講義はパソコンなどの持ち込み可であったはずだ。教授が授業を始める。私は、パソコンの書きかけのページを開く。授業の内容のメモなどではなく私が書いているのは小説である。まだ書き始めて間もなく、ラストをどうするかも考えていない。私が小説を書くのは初めての経験で、なんとなく書き始めたのだった。とりあえず自分の思ったことを書こうと文章を紡いでいる。自分の頭の中にあることを文章に表現することはこれほど難しいことなのだと初めて知った。
夢中で書いているとチャイムの音で現実に引き戻された。どうやら私は九十分間ずっと小説を書いていたらしい。周りの生徒が教室を出ていくのが見える。教室の出入りをする際に学生カードを機械にかざすと出席していたことになる。私はパソコンを閉じ、荷物を片付け、カードをかざすことを忘れずに教室を後にした。
今学期の受講している講義の予定を確認する。どうやら次は四限目まで空きコマらしい。さて、二コマ分どうしたものかと思案していた時によく知った声が耳に飛び込んできた。
「よっ!村津じゃん。どうしたのー?いつもに増して暇そうな顔をして。何?空きコマとか?」
声をかけてきたのは間行人先輩。私が所属している研究室の先輩で、現在三十一歳。就職もせずに研究室に入り浸っている彼は研究室の後輩にも分け隔てなく声をかけてくれる。よく言えばフレンドリー、悪く言えば鬱陶しい存在である。何故私が考えていたことがわかったのだろうかと思いながら彼の方を振り返る。
「お疲れ様です、間先輩。次の講義まで二コマ空いちゃって‥どうしようかなと。」
「なんだ、それなら早めに飯に行かない?俺さ、朝飯食ってないんだよね。イナセンに朝イチに進捗状況を報告しろって言われて久しぶりにこんなに早起きしたよー。ギリギリまで寝てたからメシ食う時間もなくて。ねっ。良いっしょ?もしかして村津あんま腹減ってない?」
「そんなことないです。僕、普段朝ごはんタン食べないので、お腹は空いてます。」
「そうなの?村津はしっかり朝飯食ってるタイプだと思ったから意外だわ。じゃ、行くべ。」
「はい。」
「なんか食いたいものとかある?」
「特にないです。」
「んじゃ、俺が決めちゃっていい?」
「はい。お任せします。」
「ん。おけ。」
間先輩と並んで歩く。友達が少ない私にとって誰かと食事に行くことは稀である。しばらく歩くと少し古びているものの味のある門構えの喫茶店に着いた。てっきり薄汚い食堂に行くものだと思っていたから驚いた。先輩もこんな店に行くのだなと思いながら店へ入る。
「いらっしゃいませ。」
マスターがキッチンの中から声をかける。
「空いている席へどうぞ。」
間先輩が店の奥の窓際の席へ向かう。私も後ろをついていく。先輩と向かい合って席に着いた。
先輩がメニューを開いてさっと見てから私にメニューを渡してきた。どうやら先輩は以前に来たことがありある程度頼む物も考えてきたのだろう、悩んでいる素振りもなかった。私は初めての店なのでどのようなメニューがあるか最初のページから確認しなければならなかった。コーヒーとピザトーストにしようと決め、メニューから顔を上げるとちょうど先輩と目があった。静かに私を待っていてくれていたらしい。
「決まった?」
先輩が聞いてきた。
「はい。」
「ん。すいません、注文お願いします。」
先輩に気づいたマスターが近づいてくる。手にしているお盆には水とおしぼりが乗っている。私と先輩の前に水とおしぼりを置きながらマスターが口を開く。
「ご注文はお決まりでしょうか。」
「お前から言いなよ。」
先輩が私の方を見ながら言う。先に注文しろということらしい。
「あ、えっと、ホットコーヒーとピザトーストをお願いします。」
「それと、クリームソーダとナポリタン。ナポリタンはピーマン抜きで。」
先輩の注文に子供かよと突っ込みたくなったが、グッと堪えた。よくやったぞ、私。
「はい。少々お待ちください。」
マスターは顔色ひとつ変えずに注文を受け立ち去った。
マスターがいなくなると間先輩が口を開く。「村津と二人で飯に行くの初めてか?なんか新鮮だな。」
「そうですね。普段は研究室の他の人たちもいましたし、前回は高梨さんと一緒だったし。」
「高梨か。ああ、そんな時もあったな。あいつ良いやつだろ。」
「はい。あの後一緒に帰ってたんですけど、たまたま同じマンションだったんですよ。」
「マジで!今まで知らなかったの?会うこともなく?」
「はい。あの時初めて知りました。」
「へー。不思議なこともあるもんだな。あいつさ、俺と同期だけど、俺と違って真面目で、落単するタイプじゃなくて、ただ休学してたから一年遅れたってだけなんだよな。」
「それこの前聞きました。休学してたって。」
「そう。その休学の理由なんだけど、あいつ三年の時に事故に遭って入院してたんだ。」
「そうなんですか。入院するぐらいの事故って大変そうですね。」
「そうそう。それでさ、あいつその事故が原因で記憶喪失になって。」
「えっ。でも今は大丈夫そうですけど。」
「それがさ、高校から大学の事故直前までの記憶が曖昧になってるような感じで、自分のこととか講義の内容とかはある程度分かったらしくてさ、あんまり日常生活には支障が少なかったらしい。」
「友達とかは?」
「元々友達少なかったからな、あいつ。でも、復帰してからも前の友達ともちょくちょく話してたみたいだから少しは覚えてたんじゃね?学年変わっちゃったからあんまり会う機会は無くなったらしいけど。」
「そうなんですね。友達が自分のことを忘れてたらショックでしょうから良かったですね。」
「そうだよな。もし友達に忘れられてたら俺だったら立ち直れなくなるかも知れない。仲の良かったやつなら尚更な。」
私は無言で頷く。そうか、彼は完全に忘れてしまったのか。
「あっ。でもあいつ何か大事なことを忘れてる気がするって言ってたな。俺も色々思い出すように協力してたけどさ、何を忘れているか分からないんじゃ手の打ちようがないだろ。結局、分からずじまいでさ。あいつもずっと引っ掛かってるって言ってたよ。」
私は、どきりとした。もしかしたらという淡い期待が湧いた。完全に忘れているわけじゃないかも知れないという期待が。
「それって、もしかすると誰かのことじゃないですか。」
「どうしてそう思う?何か大切な物かもしれないだろ。」
先輩は不思議そうな顔で僕の顔を見る。確かにそうだ。何かその時にはまっていた物かもしれない、歯医者とかの予定だったのかもしれない。決めつけて、もし違っていたら傷つくのは自分だ。余計な期待はしないでおこう。
「そ、そうですよね。なんか早とちりしちゃってすみません。」
「謝ることじゃないって。ま、ほんとに彼女とか誰かのことを忘れてるんだったらやばいよな。もし、彼女だったら相手はもう別れたって思ってんだろうけどな。」
「そうですね。」
その時ちょうど先輩のクリームソーダとナポリタン、私のコーヒーとピザトーストが運ばれてきた。話が中断して、それから何となく話題がそれて、研究室のことや先輩のパチンコ事情とかを聞かされた。先輩と話しながらも私の頭の中は高梨さんのことでいっぱいであった。私は、高梨さんと話してみようと考えながらピザトーストにかぶりついた。
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