僕は、高梨尚。三十一歳、独身。しがないサラリーマンだ。週五日、朝早くから満員電車に乗り、夜は少々残業してから牛丼屋や定食屋に寄って家に帰って寝るだけ。休日は惰眠をむさぼり、午後になってから買い物やコインランドリーに行く。昔は、読書とか映画などを観に行っていたが最近は久しく行っていない。彼女もいなくて、出会いさえない。このまま三十代、四十代が過ぎて人生が終わるのかなと時々センチメンタルな気分になるけれど、多分これから先も今の自分を変えるような行動しないんだろうなと思う。



 ある日曜日、今日は、職場の後輩にお薦めされた喫茶店に行こうといつもより早く起きた。喫茶店に向かう前に本屋に寄る。昔好きだった作家の新刊が何冊が出ていたので気になるものを二冊買う。

 お目当ての喫茶店はあまり目立たない場所にあった。ランチには少し早い時間だからかあまり人はいない。席に座り、後輩おすすめのブレンドコーヒーを注文する。コーヒーが来るまで購入した本を読むことにする。久しぶりに活字の海に飛び込んだような感じがして胸が躍った。

 しばらくするとコーヒーが運ばれてきた。香ばしい匂いが鼻をくすぐる。読んでいた本を一度閉じてコーヒーカップを手に取る。濃い褐色の液体がカップの中で揺れる。一口口に含むと、馨しい風味が広がる。カフェ巡りが趣味の後輩が薦めるだけはある。美味い。

 それから少しのミルクをコーヒーにゆっくりと注ぐ。褐色だった液体が薄茶色に少しずつ変わってゆく。昔からこのコーヒーが変化していく瞬間を見るのが好きだった。少し甘く優しい口当たりになる。僕はコーヒーはこっちの方が好きだ。

 コーヒーを一口含み、ゆっくりと飲み下す。カップを置き、本を再び開く。忘れかけていた小説に熱中する喜びを噛みしめながらページをゆっくりとめくる。やはり好きだった作家の文章は久しぶりに読んでもすんなりと自分の中に入ってくるようだった。まるで、真夏に極限まで喉が渇いた時に飲む冷水のように。


 しばらくして本から顔をあげると周りはほぼ満席だった。ほとんどが女性で男一人でいるのは僕だけであったけれど、ちょうど腹が減ってきたのでメニューを捲りおすすめのカレーを注文した。

 しばらくしてカレーが運ばれてきた。香辛料の香りが鼻をくすぐる。スプーンでカレーをひとすくいして口に運ぶ。少し辛いが、それが食欲をかき立てる。具はオーソドックスな豚肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、付け合わせは赤い福神漬け。

『カレーは、シンプルで良い。豚肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、福神漬け。具はこれで充分だ。辛さは辛ければ辛いほど良いが、万人受けはしないからな。そこそこ辛ければいい。』

誰かに言われた言葉だ。誰だったか、思い出せないが食事を共にするほど仲が良かった人物だったのだろう。大学の友達か、高校か。僕は大学生の時に事故に遭い、高校から大学にかけて少々記憶が曖昧な部分がある。自分、家族、大学のことはちゃんと覚えているから日常生活に支障はない。ただ、時々何かとても大切なことを忘れてしまっている気がしてならない。今みたいにふとした時に思い出す朧げな記憶に何故だか分からないが、懐かしいようなもどかしいようななんとも言い表しにくい気持ちになる。僕は、気にしないようにして、残りのカレーを食べ終わると店を後にした。会計の時に店主の顔に見覚えがあるような気がしたが、気のせいだったのだろう。


 喫茶店を出て、さてどうしようと思った。特に行きたいところはないし、今日中にやらないといけないこともない。本当にフリーなのだ。そうだ、大学の時の友達と久しぶりに会おうか。ふとそう考えて、スマホからある番号を押して、耳に当てる。「もしもし。高梨だけど、久しぶり。」

電話の相手は僕から急に連絡が来たからか驚いたようだ、少々うわずった声がスマホから聞こえてくる。

「おお、高梨!すげえ久しぶりじゃん。どうした?お前から連絡来るなんて珍しい。なに?結婚の報告か?」

「違うよ。久しぶりに会わない?今、暇しててさ。」

「あー。今日俺研究室に一日いないとなんだよ。そうだ、お前、今から来ない?母校なんだから大丈夫だろ。イナセンの研究室だから。待ってるぞー。あ、なんか差し入れしてくれるとめっちゃ嬉しい。」

「いいよ。なんか持ってく。多分、三十分くらいで行けると思う。」

「よろー。じゃ、また。」

電話の相手は、大学時代の数少ない友達である間行人(ハザマ ユキト)だ。初見でよく読み間違えられる名前を持つやつだ。僕は、事故で大学を休学することになり、結果同級生と比べて一年位卒業が遅れてしまったのだが、一年下の学年と受ける講義で肩身の狭い思いをしていたところの声をかけてくれたのが間である。間は、その講義を落単したらしくもう一年受けることになったのだと笑いながら教えてくれた。それから僕と間はよくつるむようになり卒業してからも一年に何度か会う仲だ。

 僕は、大学の近くにあるコンビニでテキトーに菓子やら肉まんやらを買い、母校の門をくぐった。何年振りだろうか記憶の中の母校はほぼ変わりないように見えた。いや、細部まで見れば少し変わっているところもあるが、目的の研究室棟はあの時のままだった。古びた外観、隅まで掃除されておらず埃が溜まった廊下。中に入ると、疲れた顔の学生たちがふらふらになりながら部屋から出てくるのも変わっておらず、彼らに同情すると共に少し懐かしく思っている自分におかしく思った。

 確か、稲垣先生の研究室だったよなと思いながら歩みを進める。この研究棟に地図などはなく、一つ一つの部屋を確認するしかないが、学生の頃と変わっていないならあのあたりだなと見当をつけることができた。思った通り、稲垣研究室は研究棟の奥の端にあり、古めかしい扉もあの頃のままだった。扉の横には、研究室に所属している者が今在室か否か名札がかけられている。間の名前は在室の欄にあった。他の名札を見てみるとほとんどが不在のところにあったが一つだけ在室になっている。どうやら現在研究室には間以外にも誰かいるようだ。多めに差し入れを買っておいて良かったと思いながら扉をノックする。

「どうぞ。」

中から声がする。失礼しますと言いながら扉を開けた。中は大きな机に椅子、ホワイトボードにパソコン、何やらよく分からない機械類があり、その周りの至る所に私物であろうものが散乱していた。パソコンの前に座りキーボードを叩いているのは紛れもない間だった。

「間、来たぞ。なんか忙しそうだな。」

僕の声に気づいた間がゆっくりとこちらを振り向く。

「おお。来たか。悪いな来てもらっちゃって。ちょうど、論文の提出が近くて絶賛缶詰中なんだよ。はあ、ホントしんどいわ。」

「お疲れ。はい、差し入れ。」

「サンキュー。おお、めっちゃ買ってきてくれてんじゃん。多分食い切れないから今いる学生にもあげていい?」

「良いよ。それ見越してちょっと多めに買ってあるから。ていうか、今缶詰中なのどうせ間が期限ギリギリまで何もしてなかったからだろ。」

「いやいや!すこーし、手をつけるのが遅かったんだって。」

間は、肉まんの包み紙を開けながら反論する。間の先延ばし癖はこの先も変わらないだろうなと思う。

「高梨はなんで急に連絡くれたんだよ。」

間が僕に椅子を近づけながら僕に聞く。

「今日何にもすることなくて、どうせ間はいつも暇だから大丈夫だろと思ってかけたんだけど、暇じゃなかったみたいだね。」

「俺だっていつも暇じゃねーよ!まあ?時々暇で、高梨を飲みに誘うことはあるけどな。」

「さも僕しか誘ってないような言い方だけど、他に何人も誘ってるんでしょ。」

「それは反論できない。」

それから僕らは互いの近況について話した。間は、大学院まで進んだのは良かったが、本人曰く就職したくなかったそうで、研究室に残り稲垣教授の手伝いのようなものをしているらしい。今のように論文を書きながら研究室の学生の指導や講義の準備など何でも屋のような立ち位置らしい。間自身は、教授になりたいわけでもなく枠に囚われない今の自由奔放にできる立場が良いとのことだった。


 急に研究室の扉が開き、一人の男子生徒が入ってきた。彼は、僕の方をみるとまるで不思議なものを目にしたような表情になった。間が気づき紹介する。

「高梨、こいつは学生の村津柚慈(ムラツ ユジ)。村津、これは俺の学生の時からのダチの高梨。今日はこの俺にどうしても会いたいっていうからわざわざ来たんだぜ。」

「そんなこと言ってないでしょ。嘘を学生に教えないで。村津君、初めまして。高梨尚です。研究室は違ったんだけど、一応この大学の卒業生です。今日は、この悪友に会うためにお邪魔してます。よろしくね。」

「村津柚慈です。理学部三年です。よろしくお願いします。」

村津は僕の目をしっかりと見ながら簡潔に名乗った。

これが僕と村津柚慈との出会いだった。

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