朝七時。スマホのアラームが鳴る。もちろん俺はスヌーズ機能を使用しているため一度目のアラームでは起きない。良くて二回目、最悪で四回目で起きたことがある。四回目で起きた時などは酷かった。学校はもちろん遅刻で、おまけに電車も遅延していた始末である。俺は電車が遅延していると分かるや否や講義への出席する気持ちは消え失せていた。あの講義はあと三回休めるからもう今日はいいや。駅の改札口で回れ右した俺はさて今日はどうしようかと思った。今日は七時のバイトまで予定はないはずである。パチンコか、友達の家か、はたまた‥。

 俺は、とりあえず朝飯を食おうとファストフード店へ入ることにした。クーポンでホットのコーヒー、エッグマッフィンを注文すると二階席へ移動した。眼下ではサラリーマンや学生が忙しなく歩いているのが目に入る。大変そうだな、俺の分まで社会の歯車として働いてくれたまえ、などと阿呆なことを考え少しおかしくなる。さてさて、暇つぶしでもしようかとスマホを取り出す。これは一日が潰せる魔法の道具である。悪く言えば容易に一日を無駄にすることが出来る悪魔とも言える。俺はほとんどの場合後者である。休みの日などはほぼベッドから出ないこともザラだ。やめないといけないと分かっていながらもやめられない完全に中毒者のそれである。

 友達の誰某は昨日も夜勤のバイトだった、あいつは彼女と遊びに行ったのかと適当にSNSをチェックしているともう一時間が過ぎていた。これではいけないとトートバッグに入っていたパソコンを取り出す。大学入学の時に買ったMacBookである。しかもProだ。一番安いスペックで買ったのに二十五万した。完全にスペックの持ち腐れである。使うとしたら大学のレポート、Netflixで動画をみる、そしてこれからすることぐらいだ。Wordをを開き前回の続きを表示する。文章の羅列が表示される。そう、これは小説だ。難しい言葉は知らないし、文才があるわけでもない。自分が思うがままに文章を書く、ただそれだけだ。主人公の男の日常が綴られている。趣味が読書や映画鑑賞、そして写真。特に面白味のないやつである。なんでこんな人物を主人公として物語を書いているのかは自分でも分からない。書きたいままに書いているような感じだ。男は真面目に二十年を生きてきた。ギャンブルもしないし女遊びもしない。辻村にとっては自分とは全く違う人種である。大学でも陰キャと言われるような奴らであろう。その男が、普通の日常を生きているとある事件に巻き込まれるといった内容である。まだ、どんな事件に巻き込まれるかとか、一切決めていない。まだまだ小説は序盤。こんな状態の文章を誰にも見られたくないな、それよりも俺がこんな小説を書くような暗いやつだと大学の友人に知られたくない。あくまでも大学の友人には“陽キャの面白い辻村”でありたい。

 俺は、生来小説、いや本が好きだった。小学生の時から地味に図書室に通っていたし、それは現在でも変わらない。人の少ないであろう時間を見計らって家の近くの図書館に赴く。大学の図書館は同級生に会いそうで入学以来足を踏み入れていない。せっかく大学の図書館は大きいのだから卒業までには行ってみたいなと常日頃思っている。

 本はいい。俺を様々な世界へ誘ってくれる。物語の中では何にでもなることが出来た。スポーツ選手、探偵、料理人、殺し屋、そして小説家。いつからであろうか、自分でも小説を書きたいと考えるようになったのは。ただ、初めて書いた小説のことははっきりと憶えている。高校二年生の秋、周りの人間に受験の色が見え始めてきた頃であった。学校の課題以外で初めて原稿用紙を買い、少し背伸びして万年筆まで買い求めた。初めて書いた小説はお世辞にも良いとは言えなかった。むしろ今読み返すとお粗末な出来である。起承転は一応あるものの小説としては体を成していない。ところどころ話が飛んでいる場所もあれば、誤字脱字のオンパレード、はっきり言って駄文だ。あの時はただ書きたいという意志だけで書き上げたのだろう。今はそういうことは出来ない。高校生の頃よりもある程度小説らしくなってきたのではないかと思うようになった。ただ、今田に満足の行く小説は完成してはいない。


 いつの間にか、昼近くになったからか店が混んできた。このまま昼飯も食べようかと思ったが、やめた。ハンバーガーを食べたい気分ではなかったし、外の空気が吸いたかった。キリの良いところでデータを保存してから荷物を片付け、そのまま店を出た。近くに良さげな店がないかぶらつくことにした。

 ある曲がり角を曲がったところだった。

「うわ。すいません。」

同じように曲がってきた男とぶつかりそうになる。咄嗟に避ける。

「あ、すみません。」

相手は抑揚のない声で囁く。それ程まで男の声は小さかった。ふと男の顔を見る。俯くようにしながら足早に立ち去る。いつもならばそのまま通り過ぎていただろう。何故かその時はすれ違った男のことが気になった。

「尚?」

ふと無意識に口から出た言葉。男とは初めて会ったはずなのに。顔も知らないし、ましてや名前など知るはずが無い。しかし、なんであろうかこの気持ちは。このまま別れて仕舞えばこの男とはそのままであるような、もう二度と会えないように感じる。そして、そのことを自分はずっと後悔するだろうという予感がする。声をかけずにはいられなかった。

「尚!なあ、お前、尚だろ!」

男の背中に話しかける。男がゆっくりと振り返る。怪訝そうな顔をしている。それもそうだろう、見知らぬ男に声を掛けられたら誰でもそういう反応になる。男は俺の顔をじっと見つめ、人違いだと思ったのか元に戻り再び歩き出した。俺は焦った。そしてそのまま男を追いかけ、今は男と向かい合って座っている。

 初対面での尚は地味で、面白味のない男だった。ただ引っかかったことがある。趣味が写真だと言った時である。俺の中になんとも言えない違和感が生まれた。なぜだろう、自分でも分からないが、なぜか惹きつけられた。それからは尚との距離が近づいた気がした。まるで、昔からの知り合い、いや友達のような関係であったような。


 俺はバイト中でも尚のことを考えていた。そのせいで今日は小さなミスを幾つかやらかした。

「辻村くん、今日調子悪いの?」

本日二度目のオーダーミスをしてしまった後、バイトリーダーの牧本さんに声を掛けられた。

「いいえ、特には。なんか、すいません。」

「良いのよ、体調が問題ないなら。なんか悩み事?あ、気になる女の子がいるとか?」

少し、楽しそうに牧本さんが聞いてくる。

「まさか、そんな子いませんよ。あ、でも気になってるやつはいます。」

「えっ!辻村くんってそっち系?」

「違いますよ。たまたま今日会ったばかりの男なんですけど、初めて会った気がしないんすよね。」

「あー、そういう時たまにあるよね。でも大体忘れているだけで会ってるパターンが多いのよね。ずっと前に行った飲み会とか、相席屋とか、何回か行っただけのガールズバーの客とか。」

「牧本さんってそんなこともしてたんですか?意外っす。」

「ちょっとお金が足りない時に何回かね。今は!してないんだからね!」

語気を強くして牧本さんが言う。牧本さんの意外な一面が見ることが出来たところで、ホールから呼ばれた。牧本さんと話して少し心が晴れた気がした。

 バイト終わりに牧本さん達バイト仲間に飲みに誘われたが明日は朝イチから講義があるからと断った。いつもの帰り道を一人で歩きながら今日のことを思い出していた。いくら考えても尚のことは思い当たらない。自分の記憶では限界もあるのだろう。明日になったら大学の友達にも尚のことを聞いてみるか。何か手がかりが見つかれば良いなと思った。少し、足が軽くなったような気がした。


 端的に言うと、俺の友達は誰一人として尚のことを知らなかった。名前すら聞いたことがないという。やはり大学よりも以前に会ったやつなのかと考える。次の手は、高校、小学校の同級生である。俺は中高一貫の私立に通っていたから中学の友達は自動的に高校でも友達となる。仲の良かった友達にLINEを送ってみる。高梨尚という男を知っているかと。しかし、誰も高梨尚を知っている人はいなかった。やはり小学校の友達だろうか。もしくは、転校していったやつとか。インスタで繋がっている小学校の同級生にDMを送ってみる。そういえば、この友達にDM送ったのはこれが初めてだなと考える。すぐには返信がなかったが約三時間後、返信が来ていた。文面には一言、知らない。誰それ?と書いてあった。

 俺は、八方塞がりだった。もう思い付く友達がいない。やはり、何かの集まりで出会ったのだろうか。


 尚と会った次の日にメールが来ていた。最近はメールでやり取りする友達などいないためか少し新鮮な気分である。

『こんにちは。高梨尚です。次の日曜日に会えませんか?』

やはり文面固いなと思った。そこが尚らしいなとも感じた。

『こんにちは、辻村優です。俺もその日は大丈夫。特に予定はないからいつでも行ける。』

『では、その日に。何時頃にしますか。』

『じゃあ、午後二時ごろに。場所はどうする?この前の所でもいいし、尚の家の近くでもいいよ。』

『この前の喫茶店で。家ともそんなに離れてないので大丈夫です。辻村くんは大丈夫なんですか。』

『俺の住んでるところから一駅だから問題ナシ!じゃあ、また日曜に。』

『了解です。では、また日曜日に。』

尚との会話の文面は堅苦しいにもかかわらず何処か心穏やかになれた。この感覚は今までのどの友達との会話でも感じなかったものであった。


 次の日曜日、待ち合わせ場所である喫茶店に入ると尚は本を読んでいた。俺が声をかけると顔を上げてしおりもせずにすぐに本を閉じる。それから優しく微笑んで俺の方をまっすぐ見据える。

「待った?」

「ううん。そんなに待ってない。」

「そっか。何か頼もうかな。何飲んでんの。」

「コーヒー。美味しいよ。」

「じゃあ、俺もそれで。すいませーん!」

マスターに声をかけコーヒーを注文する。尚のコーヒーをみる。コップの中に淡い茶色の液体が半分ほど入っていた。

「尚はコーヒーにはミルクと砂糖を入れるんだな。」

「違うよ、ミルクだけ。砂糖はなし。」

「へえー、そんな人もいるんだな。」

尚と話していると話題が尽きることはなかった。出会ってからまだ間も無いはずなのにまるで幼馴染のように、こちらが言いたいことを分かってくれている様に、彼が言いたいことも俺には手を取るように分かる。以心伝心、意気投合どのように表現すれば良いかわからないがこの時の俺達は言葉にできないとても親しい関係であったと思う。

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