第22話 鶴井沙織という女性は

「おはようございます、内海さん。あなたもジョギングですか?」

「そうだよ、体育祭も近いからね」


 順位発表の日の出来事のこともあり、鶴井とこのように話すのは少し気まずさを感じてしまう。ただ気まずいと感じているのはどうやらこちらだけのようで、鶴井は普通に話しかけてきた。もしかしたら気にすらしていないのかもな。


「そういえば、転んでましたもんね」


 グザッと心が貫かれる。まぁ、あれだけ派手に転べば一度ぐらい転んでるところも見かけるか。


「ああ何度も転んでしまうと、練習したい気にもなりますもんね」


 もうやめてくれ……、ただでさえ恥ずかしかったというのに、改めてその事実を他の人から突き付けられると心が折れそうになる。


「ところで鶴井さんも体育祭の向けて練習してるの?」


 いつまでも会話の主導権を預けていると本当に心が折れるまで言われそうなのでこちらから質問させていただく。


「いえ、私は日課のジョギングです」

「日課……?」

「はい、2年生になってから毎日この時間に走るようにしているんです」


 このことは初めて知ることだった。毎朝ということは授業がある日にも走っていることだし、そんな素振りなど見たこともなかったので素直に驚く。仲良くなってきた頃でさえそんなことも気づかなかった。


 本当に僕は好きな人のこと全然知らなかったんだな……。以前長嶺が料理を作りに来てくれた時にも言っていたが、本当に鶴井は努力家だった。表では一切それを見せず、陰で努力をしてきていたのか。


「それで内海さん、ジョギングするのは何のために?」

「それは体育祭に向けて……」

「そうではなく、ジョギングは体育祭の何に役に立つと思って始めたのかと思いまして」

「それはもちろん、体力をつけようと思って」


 まずは体力をつけないことには始まらない。毎日1時間走るだけでもだいぶ変わるだろう。


「確かに体力をつけるならジョギングをするのも1つの手だと思いますが、体育祭に向けて行うのであるならばあまり効果的じゃないと思いますね」

「そうなの?」


 とにかく走って置けば体力はつくだろうと思っていたのだが、まずかったのだろうか。


「そもそも内海さんの出場する種目は何ですか?」

「全員リレーと綱引き、それと個人種目の障害物の3つだけだね」


 もしかしたら、2種目出るかもしれないと思っていたが、やる気のあるクラスメイトが買って出てくれた。


「そうですよね。それなら体力をつける必要はないです。どれも短時間で終わるものですし」


 そう言われればそうだ。練習で体力が落ちたことに気を取られていたが、僕が出場する種目的に体力は必要なかった。それにその3種目ともプログラムを見ても離れていたから、疲れた体を休めるには十分時間もある。


「それに、体育祭までの期間ジョギングしたとしても、そこまで体力はつきませんよ。こういうのは長期的にやって効果のあるものです」

「それじゃあ、僕がやろうとしていることは無駄だってこと? 練習する必要はなかったってことなのか」


 ジョギングする意味がないのなら朝早く起きた意味がない。こんなことならもっと寝ておけば良かった。


「そうではありません。あなたに必要な練習は違うことです」

「違う練習?」

「そもそも内海さんが連中をしようと思った理由は何ですか?」

「それは、」

「全力で走ろうとして転んだことでしょう?」


 僕に答えさせないで自分で言うんかい。というかもうそのことは忘れてほしい。


「だったら、短距離の走る練習をした方がいいです。例えばこちらのベンチからあちらの木まで走るとか、それだけでもだいぶ走り込みの練習にはなると思います」

「確かに良いかも」


 パッと見た感じ、距離も100m前後ぐらいだろう。リレーで走る距離もそれぐらいだしちょうどいいかもしれない。でも、本番想定でやるのならカーブも必要か。それならあの木の方が良いか。


「鶴井さんありがとう。おかげで効率的に練習ができそうだよ」

「別にお礼を言われるようなことではありません。ただあの光景を見ていられなかったので」


 結構人の傷を抉ってくるんだな。心が弱い人だったらもう3回ぐらい死んでるよ。僕は心が強いから瀕死で済んでいるけど。


「練習とは別にジョギングは続けても良いと思いますよ。早起きは身体にも良いですし、一石二鳥ですよ」

「そうだね、絶対やるとは言い切れないけど僕も日課にしてみるのは良いかもしれない」


 今回の件で体力が落ちていることに不利益を感じた。今後の生活だけでなく、指令の方もどうなってくるか分からないしやっておいて損はないだろうな。


「良いと思います」


 それまでツンとした表情だった鶴井の顔が少し崩れた。ほんの少しだけ笑みが見えた。


「でもまずは体育祭に向けて頑張らなきゃ。タイムも縮めたいし、時々計測してみるのも良いかも」

「せめて13秒前半にはなって欲しいですね。それだけで勝ちが近づくと思いますので」

「だね。それじゃあ、さっそく計ってみるとするよ」


 目標は13秒台。当時と同じタイムを出すこと。体は当時のままだし、この体に慣れれば可能だろう。


「どうやってですか?」

「ん?」

「どうやって1人でタイムを計るつもりなんですか?」

「あ……」


 そっか、1人でもタイムを計ろうと思えばできるけど正確なタイムは計れない。ということは1人ではまずできない。


「久志でも誘うよ……いや、あいつは朝弱いか」


 久志は夜型の人間だ。学校へ行くのにもだいぶ慣れてきたのに、今よりも早く起きるのは無理に近い。


「はぁ~、しょうがないですね。私が付き合ってあげますよ」

「え、なんて?」

「だから、私が体育祭までの期間、一緒に朝練に付き合うと言っているんです」

「いいの?」


 鶴井にとって利益は何もないはず。それなのに引き受けてくれるのだろうか。


「頑張っている人は応援したいと言うのが私の性分ですから」

「ありがとう」


 あの時鶴井が僕に怒ってきた理由が少し分かった気もする。努力家な鶴井だからこそ頑張っている人は応援したくなるし、手を抜いている人には逆に怒りを向けたくる、そういった人間なのかもしれない。


「私が一緒にやるのですから、妥協は許さないですよ。必ず目標は成し遂げましょうね」


 その笑顔が逆に怖い。今日一の笑顔だと言うのに、これからの日々を考えると照れていられない。僕は無事に体育祭を迎えられるのだろうか……。


 鶴井との朝練の日々は体育祭前日まで続いた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 次回、体育祭前日。久しぶりに図書室へ訪れます。

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