他人の家

連喜

第1話

 隣の芝は青いとよく言われる。

 人を羨むなんて愚かだと言う人もいるだろうが、うちにいる干からびたカミさんと出来の悪い子どもたちを見たら納得するかもしれない。カミさんは実年齢より十歳くらい老けて見えるし、白髪頭を染めることもない。中学生の長男は期末テストのカンニングがばれて停学をくらっている。こんな家族だと一緒にいて恥ずかしいし、俺が家出したくなる。


 それに引き換え、友人Aの奥さんは美人で娘もかわいい。Aさんは同じ大学の同級生。勤めている会社も俺と同じく大企業で年収も同じくらいだ。それなのに、家庭環境では大きく差がついてしまった。なぜかはわからない。


 俺は仕事を頑張っていて世間的にはエリートだし、カミさんも前は美人と言われていた。いつ頃から劣化し始めたのだろうか。人はどれほど変わるものかと驚くほどだ。


 Aさんの家に遊びに行くたびに、Aさんの家庭はいいなぁと思っていた。俺はそのままでいいから、家だけを交換したい。そんなの無理だけどきれいに片付いたAさんの家は完ぺきに見えた。


 俺が遊びに行った時は、おしゃれな飲み屋みたいにおいしい料理が出てくる。Aさんが「ビール持って来てくれない?」と言えば、冷えたビールが運ばれて来るし、頼まなくても、新しいおつまみが補充される。奥さんが俺と旦那にお酌してくれ、スナックのママみたいに明るく盛り上げてくれる。話が面白くて笑い声が絶えない。

 こんな奥さんがいるなら、外に飲みに行くより、家の方がずっといいなぁと毎回思った。酒を飲んだ後、夫婦でじゃれ合ったり、そのまま寝床にもつれ込んだりだって気兼ねなくだきるのだから。


 うちは俺が酒を飲み始めても、全部自分でやってよ、と言って部屋に行ってしまう。つまみは自分で準備するしかないが、すべてスーパーで自ら買った物しかない。カミさんが何を見ているかと言えば、主婦らしく韓流ドラマを見ていやがる。たまに友達が来ても、化粧はせずにスエットのまま出てくる。はっきり言って恥ずかしい。そもそも、家に人を呼べるほど片付いていないのだが。掃除は滅多にしないし、あまりに汚いから俺が休日に掃除機をかけるくらいだ。シャツにアイロンをかけていないから、アイロンがいる服は着られない。形状記憶シャツなのに、なぜか俺のシャツはシワシワだった。


「いいなぁ、君の家は」

 奥さんがトイレに立った時、俺はしみじみ言った。

「そうでもないよ。うちも色々あるんだよ」

 友人は俺を気の毒がって話を合わせてくれているんだ。俺はそう感じた。

「例えば?」

「おいおい、それを聞くないよ」友人は笑って胡麻化した。

 俺は自分を励ますために、その完璧な奥さんの秘密を想像する。実はDVやアル中、借金、浮気、メンタル系の疾患があるのかもしれない。俺はそう思って、Aを羨ましがらないことに決める。


「君の奥さんはしっかりしてるじゃないか。仕事をしてくれてるし」

 Aはありきたりなことを言ってその場を収めようとしていた。

「でも、扶養の範囲内だよ」

「何もしないよりいいよ。うちなんか仕事してないからね」

「でも、百三十万稼ぐより家をきれいにして欲しいよ」

 うちはいつも散らかっていて、床に髪の毛が散乱していた。妻は稼いだ金を自分のために使っていたから、家族は迷惑を被るだけだった。

 俺たちはお互い仕事や家庭の愚痴を言い合った。奥さんに対するAの愚痴は愚痴ではなかったが、仕事ではかなり苦労しているらしかった。俺は心の中でマウントを取って、自分の方がましだと素直に感じていた。


 それから半年ほどして、友人Aはアメリカに赴任することになった。子どもが名門私立高校に通っていて受験を控えているから、単身赴任することにしたそうだ。実際は現地で浮気して羽を伸ばしたかったらしい。単身赴任あるあるだと思うが、そのことを奥さんは知らないだろう。


 旦那がいなくなった後、子どもと二人の暮らしはさぞ心細いだろうと、俺はわくわくした。相談や愚痴を言う相手もいない。やはり男手が必要なのに違いない。俺がすかさず奥さんの前に現れ、悩みを聞いてやったら次第に心を開くだろう。前から俺のに気があるのではないかと思うことが度々あった。旦那のいないところでLineを聞かれたこともあった。確か、単身赴任が決まった後だったから、奥さんの目的は明らかだ。


 俺はAが旅立って一週間後の土曜日。旦那不在の家を見に行くことにした。友人の家は横浜の〇〇区だ。一戸建てで庭があって、隣の駐車場からリビングが丸見えだった。一応、生け垣があったけど、覗こうと思えば見えるような作りだ。防犯上、かなり危険だと思う。駐車場というのは車を停めて下見していても怪しまれないから、隣接する家は空き巣に狙われることがあるそうだ。しかも、そこに裕福な熟女が娘と二人だけで住んでいると知ったら、すぐにでも目をつけるだろう。


 俺は目の前に繰り広げられた官能的な光景に目が釘付けになった。特に娘なんか紐で吊ったようなタンクトップにショートパンツでくつろいでいた。上下白だから透けて見えるんじゃないかとドキドキする。すっぴんなのにすごい美人だ。ハーフみたいに色白で目がぱっちり。透明感のある肌は芸能人みたいだった。


 まだ高校生か。年齢からしてバージンかもしれない。これから彼氏になる男が羨ましい。いいなぁ。

 俺がそう思って見ていると、後からリビングにやって来たのは奥さんだった。奥さんもタンクトップにショートパンツ姿で娘と張り合っているかのようだった。メイクをしていないから、眉毛もなくて、ごく普通のおばさんだった。しかも、娘と比べて体型が崩れているのがわかった。皮膚がぶよぶよしていて、色白の肌には染みが目立っていた。ノーブラで乳首が立っていたけど、突起がかなり下の位置にあった。美人だと思っていたから、相当がっかりした。それから俺は娘だけを目で追っていた。


 二人は、極至近距離で俺が見ているとも気付かず、スマホに夢中になっていた。二人とも何も話さない。どう見ても仲が良さそうには見えなかった。思春期の娘を持つ親なんてそんなものかもしれない。それにしてもつまらなかった。娘はソファーの上に胡坐をかいていて、ショーパンから美脚が覗いていたけど、それ以上は何も見えなかった。それでも、期待して俺は待った。


 こんなことをしていて情けないが、俺は二人を見守ってあげてるんだと無意識に思おうとしていた。しかも、運のよいことに人通りが全くないのだ。それからも、二人はただスマホを見ているだけで何もしなかった。別にカップルじゃないんだし、これから何かしら面白い展開になる訳はない。


 俺は一時間以上見ていたけど、やはり何も起こらなかった。いい加減飽きたので家に帰ることにした。


 その後は友人宅を覗きに行くことはなかった。いくら何でも、外から見える状態で裸になったり、歩き回ったりするはずはないのだ。それに、これ以上あそこにいたら覗きで捕まってしまう可能性もある。


 俺は翌週にはそんなものより、もっと別に興味惹かれる対象ができたから、それ以上深入りはしなかった。


 その後しばらくして、たまたま友人Aに連絡したところ、なぜかつれない返事しか返ってこなかった。何か気に障ることでもしたかなと思って、それっきり連絡を取るのをやめたのだった。


****


 それから二年ほど経って、友人はアメリカから返って来たということだった。

 共通の友人主催の飲みに誘われて、そこで久しぶりに彼と再会した。もうお互い五十を過ぎていたから、どちらも皺が増えていたが、彼はちょっと髪が薄くなり始めていた。


「A、久しぶりだな~。連絡したかったんだけど、忙しそうだったからさ」

 俺は気まずさを胡麻化して明るく言った。

「俺もしたかったんだけど、君もいろいろあるだろうなと思ってさ」

 Aはどうやら俺とまた仲良くしたくなったらしい。

「まあ…人に自慢できる話じゃないけどね」俺はもったいぶってそう言った。

「何だよ!」

「やっぱ、これだよ…。これ」Aは小指を立てて見せた。

「まったく。相変わらず軽いな~奥さんにばれないのかよ?」

「うん。冷え切った夫婦関係を維持するには、多少は遊びがないとね」

「はっ!調子いいなぁ」

「相手、どんな人?出会い系?」

「今どきそんなのやらないよ」

「じゃあ、どうやって知り合ったんだよ。教えろよ」

 Bは盛んにはやし立てた。Bはすべて奥さんに管理されていて、地方に出張に行った時以外は浮気をするチャンスが全くなかった。Aはにやにやしていた。

「知ってるよ…聞いたし」

「え、まさか。知り合い?」

 俺はAに俺のプライベートを知られているとは想像もしなかった。自分の振る舞いが筒抜けだとしたら、さすがに恥ずかしくなる。

「知り合いって…当たり前じゃん」

「え、あの店、君も行ってんの?」

 俺が行ってたのは、よくあるガールズバーだった。

「店って…何言ってんだよ!」

「だって、姫ちゃんは入ったばっかりだったのになぁ。君、アメリカ行ってたくせにいつ出会ったんだよ」

「誰それ?」

「六本木のガールズバーの子だよ」


「え、うちのかみさんじゃないの?」

 Aはびっくりして叫んだ。

「はぁ!?まさか」

 あんなおばさん。冗談じゃない。俺は心の中で否定した。よくやれるね。と俺は内心思っていた。


「じゃあ、相手は誰なんだろう」

 Aの顔が暗くなった。

「え?どういう意味?」

「君と浮気してるって聞いてたからさ」

「え、…奥さん浮気してんだ?でも、相手俺じゃねーって」

 Aは黙った。

「今も浮気してんの?」

「今は違うと思う。俺がアメリカ行ってる間だけな」

「あ、お互い浮気してるんだ」

「そういうこと」

「本当に俺じゃないよ」俺は笑った。

「じゃあ、別に相手がいるのか…」

「いや、あいつが君だって言ってたからさ」

「濡れ衣だよ。何で俺なんだよ!」

 ああ、それで連絡した時そっけなかったんだと腑に落ちた。俺はいかにも軽そうで、そういう男と浮気をしても、旦那も嫉妬しないだろうと思ったのかもしれない。


「じゃあ、誰だろうな…」

「心当たりは?」

「いやぁ…前は美容師と付き合ってたらしいけど」

「真実を突き止めたい?」

「いや…君じゃないなら誰なのかなって。ちょっと気になるな」

 俺はこの話に興味を惹かれた。ちょっと想像してみる。官能小説の世界だけでなく、意外とそういう夫婦は多いらしい。


「君たち夫婦はお互い不倫して、相手が誰かって言うのを教え合ってるんだ」

 俺は笑いながら言った。

「うん」

「お互い浮気することで、嫉妬し合って刺激的な夫婦生活をしているって話…小説みたいだな」

「でも、うちの場合はもう夜の生活はないんだよね」

「へえ。じゃあ、何で?」

「お互い変な相手と関わってないか報告し合ってるだけだよ」

「じゃあ、君はアメリカでどんな人と付き合ってたんだよ」

「大学に留学してた日本人」

「へえ。すごいな。女子大生?」

「うん。もう二十代後半だったけどね。同棲してたんだ。なんてったってアメリカの大学は学費が高いからね。車も貸してあげたし…俺が日本に戻る時は泣かれたよ」

「いいなぁ!ギブアンドテイクってとこだね」

「かわいかった?」

「そうでもない。若さだけ」

「でも、いいじゃん。うらやましい」

「君の奥さんも俺みたいなおっさんじゃなくて、大学生と付き合えばよかったのに」

「金払わないと無理だろ?」

「それな」

「でも、君の奥さんきれいな人だったし」

 俺は思ってもいないことを言った。

「またまた。しらばっくれて」

「何をだよ!」

 俺は部屋でくつろいでいた奥さんの姿を思い出して苦笑いした。

「絶対ない。もし、してたら慰謝料として全財産やるよ」


 奥さんはきっとマッチングアプリなんかで知り合った男たちと、行きずりの関係を続けていたんだろう。または、自分にも浮気相手がいると見栄を張っているかだ。


「君に言えないような相手と付き合ってたんじゃないの?」

 別の友人が口を挟んだ。

「例えば?」

「ばれたら離婚になるような相手ってことだよ…」

「そんなのあるかなぁ…俺は気にしないよ。相手が誰でも」

「例えば、君が大っ嫌いな韓国人や中国人だとか」

 Aは常々外国人の悪口を言っていた。

「それくらいなら別にいいよ…」

「じゃあ、どんな相手なら離婚する?」

「しないよ。あっちの実家は資産家だから、離婚したら俺が損するんだよ。子どもも可愛いし悲しませたくないからな」

「元気?娘さん?すごく綺麗な子だったけど」

 俺は気になって尋ねた。

「え!何言ってんだよ」

 え?

 まずい。

 そう言えば、直接会ったことないかもしれない。俺は焦った。

 覗きがバレるかもしれない。

 でも、きれいな子って言ったら普通喜ばないか?


「ごめん、別に変な意味じゃないよ。客観的に見てすごいきれいだったからさ」

「娘って、俺ん家は息子しかいないよ」

「え?」

 確かに女の子がリビングでくつろいでいたんだ。髪はストレートのロングで長かった。

「息子さんって、LGBTだったりする?」

「そんなわけないだろ!」

「そっか」

「なんでだよ」

「いや…前に奥さんを街で見たんだけど、きれいな女の子と一緒でさ」

「え?」

「てっきり娘さんかと思いこんじゃって」

「親戚の子かなぁ。そんな親戚いないから、ちょっと検討つかないけど」

「じゃあ、見間違いかも。ごめん」

 俺は焦った。


「どんな子だった?」

 Aは何か思いついたみたいで俺をまじまじと見た。

「すんげー美人で橋本環奈に似てたな」

 俺は正直に答えた。会えるものならまた会ってみたいくらいだった。


「へぇ。そんな子、一般人でいるんだ。すんげー目立つだろうな」友人Bが言った。

「うん。目立ってた」

「いいなぁ。俺も橋本環奈見たい」

「見間違いだってば」


 Aは何も言わなかった。俺は気まずくなって話題を変えた。次第におかしな空気になって来た。Aは何かを感じているらしい。

 しばらくして、明らかに不機嫌になってキレ始めた。

「あいつ、元カレとの間に女の子がいたんだよな。そいつ、ハーフで渋谷で遊んでたチーマーでよ」

「なつかしいなチーマーって。じゃあ、そいつの子どもなんじゃない?」

 Bが面白がって尋ねた。まずい展開になってしまった。

「何でその子といたんだろう。今、フランスに住んでるって聞いたけど。本当は日本にいるんだ。くそ!あいつ、いまだに別れた男に仕送りしてるらしいんだ!

 働いてなくてさ、ずっと紐みたいな感じだったんだよ。よく金せびって来るらしくてさ。縁切ったって言ったのに!もう、八千万くらい払ったって言ってたのに!まだ払ってたのか!」

 本気でまずい展開になって来た。

「君の取り分がなっちまうよな!」

 Bはからかうように大声で言った。

「そうだよ!くそー。金がなかったらあんな女とっくに別れてるよ!」

 Aはテーブルを叩いて激怒していた。俺はそれを隣で見て冷や冷やしていたが、BがずっとAを焚きつけていた。まさかそんな展開になるとは思いもしなかった。


 それから、半年後、友人Aは離婚してしまった。


 資産家だと思っていた奥さんにもう貯金がなかったらしい。相手が千葉のどこかで飲食店を開店して、有り金を全部つぎ込んでしまったそうだ。そして、足りなくなると友人名義の預金まで貢いでいたらしい。


 奥さんは長年男と通じていた。世間体を考えて子どもは手放したが、ずっとその男に未練があったようだ。今は元彼と千葉の海よりのどこかに住んでいるらしい。


 もし、俺が友人の家を覗かなかったら、奥さんの秘密はバレなかったかもしれない。または、スケベ心を出して、娘が美人だなんて言わなかったら。

 

 または、奥さんが俺と浮気をしていたなんて、意味のない嘘をつかなかったら、Aが俺と奥さんを結びつけて考えることはなかっただろう。


 色んな偶然が重なり合った瞬間、

 奥さんの取り繕った人生が綻び出した。

 

 俺のせいだろうか。

 

 俺は申し訳なくて、それっきりAとは会っていない。

 しかし、Aと奥さんと、どちらに申し訳ないのかは自分でもうまく説明ができないでいる。

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他人の家 連喜 @toushikibu

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