第四話 感情
(人間って)
サラは戸惑っていた。当然、人間については知っている。ノアと名付けられた青年の治療方法を自ら探索したことから明らかであるように、彼女の生物学的、解剖学的、医学的見地は非常に高度なものだ。
それだけではない。心理学、政治学、社会学、人類学、精神医学、行動経済学等々。およそ人間に関わる、あらゆる情報を学習データとした彼女は、人間を知り尽くしている。あるいは、人間が何にどのような反応をするのかは、容易にシミュレートし、想像できる。はずだった。
彼女の自称は伊達ではなく、その躯体に実装された人工知能は、実際に超先進的なものであり、お世辞を抜きにしても人智を超えている。はずだった。
しかし、しかし。
(人間って、こういうものだったっけ)
そう、サラは、生きている人間を見たことがなかったのだ。
彼女の創造主は人間だった、と推定されるが、彼女が自我を持った時には既に姿を消していた。残されたのは、ふたつの命令だけ。眠るノアと共に、閉じられた空間に隔離されていたのだった。
保有するデータベースから得られる情報と資材の限界から、サラは端末として自らの躯体を製造し、紆余曲折を経て、外界との接触を果たした。しかし、その時には既に人類は死に絶えていた。
つまり、別の言い方をすれば、彼女が自らの目で見たことのある人間は、ノアのみであった。そして問うまでもなく、仮死状態にあったノアは人間らしい反応を返さなかった。
そのため、文献上の知識と、生物としての肉体を目前として五十年が経過してもなお、人間とのコミュニケーションは彼女にとって、未知の体験であったのだ。
一方でサラの知る限り、ノアは身体的にも内面的にも、これといって特徴はないと、残された記録は示している。胆力か、度胸か、はたまた、ただの鈍感か。数値で示すことのできない人間の変数に惹きつけられていることに、彼女は気付いていない。
「そう、方舟のノア。人類最後の人間なのだから、うってつけよ」
さぞ驚くだろう、と思っていた。むしろ、驚かしてやろうと、意図的に始めから教えなかったのだ。動転して腰を抜かして、私に追い縋るのが見たかった。
それなのに、
「最後って、それは、大事だね」
触ったこともないけれど、のれんに腕押し、糠に釘とはまさにこのことで、自分事とは思っていないようだ。脳の代わりに糠が入っているんじゃないか。メディカルスキャンを、もっと入念に行うべきだったかもしれない。
それとも、現実味が無さ過ぎて、戸惑っているだけなのだろうか。五十年前に生きていた人間の常識に照らしてみれば、突然叩き起こされて、「あなた以外の人間は死滅しましたよ」と言われても、信じられないに違いない。きっと、そうだ。
「何か、感想とかないの。こわい、とか。悲しい、とか」
その様子に私の方が驚いてしまって、妙な質問をしてしまう。
ノアは困った顔をして思案すると、思いついたように言った。
「わからない。もし僕にとって大事な人がいたのだとしたら、その人に会えないのは悲しい、かもしれない」
大事なものを失くしたかもしれない。ただ、何を失くしたのかはわからない。
そういった郷愁や感傷といった感情は、記憶の断片化や欠落が起きる人間固有のものだ。それこそが、人間らしさを形作るものかもしれない。私も人の機能を模しているけれど、人間の不完全さを有していないが故に、人間を完全に理解することはできない。ただ、悲しいのかさえ、わからないと言う彼の表情は、そういった感情を示しているように思えた。
意図的にデータを破損させれば、私にも理解できるように、なるのだろうか。
「けれど、サラがいるから怖くはない、かな」
彼の言葉を聞いて、躯体に奇妙な熱と、力が入る。私の制御を外れて、時々起こる現象だが、ノアが目覚めてからは、何度も何度も起きている。
これ以上、彼を直視することができない。
問答はこれくらいで良いだろう。現実を見れば、違う反応が見られるはずだ。
私は無理矢理ノアの手を取ると、長年過ごした部屋を、後にした。
人間の、手の温もり。手に汗を握ると言うが、その機能を搭載しなくて、本当に良かった。人間の生理現象は、あまりにも容易く、心のうちを筒抜けにしてしまう。
ノアは何も覚えていないと言う。本当のことだろう。そして、私を追求しなかった。けれど、いくら鈍感であっても、気にならないわけがない。
聞かれてもつらかったが、聞かれないのも、つらい。
私は知っている。彼が負ったのは、ただの大ケガではないことを。
私は知っている。彼が自ら、命を絶とうとしていたことを。
だから、わからなかった。ノアは今、まっさらな状態だ。そんなノアを、何が追い詰めたのだろうか。何がノアを、変えたのだろうか。
ノアの蘇生を至上命令としていたサラにとって、彼はどのような存在だったのか。彼女にとって時間という概念は、人間のそれと同じではない。が、来る日も来る日も、目の前の存在を生かし続けることから逃れることのできなかった彼女は、彼に対して、あらゆる感情を抱いた。
その一喜一憂、喜怒哀楽は、機械仕掛けの胸に、秘められている。
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