第三話 名前

 緋色の布切れをローブのようにして羽織る。


 山のように、というより文字通り山ができるほど服があるのだから、一着くらい分けてくれてもいいはずだけれど、「なんかイヤ」だそうだ。古代ギリシャの人々のように身体に巻き付けると、心許ないが、大事なところは隠すことができた。僕が生まれたままの姿から脱したことを確認すると、彼女はまた咳払いする。


「あなた、何か覚えている?最後の記憶は?」


 そう言われて僕は初めて、自身の名前さえ、わからないことに気付く。なかなかどうして、我ながら危機感の無さに呆れてしまう。しかし、サラに見惚れていたのだから仕方がない。人間誰しも超越的な芸術の前には無力なのだ、たぶん。溺れていたことさえ、些事だ。


「溺れて、もがいていた、のかな」


「それは確認しているわ。私が不親切だった、ごめんなさい」


 意外にも、彼女は素直に謝って見せる。そして、赤の瞳は真剣の色を帯びた。


「溺れる前のこと、他に何か思い出せる?」


 サラは少し不安げな様子で、覗き込むようにして目を合わせる。その瞳の輝きで、僕のシナプスがスパークでもすれば良かったのだけれど、何も思い出せない。ただ、彼女に心配そうな顔をされると、何か、何かを思い出す。


「笑っていた、気がする」それこそ笑われそうな、僕の返答に彼女は


「そう、そうなのね」


 小さな笑顔で頷いてみせた。期待した答えではなかったはずなのに、彼女は満足したようだ。



 既に表情を戻したサラが少し遠のく。飴細工のような指先をぱちりと鳴らすと、空中に光の線が現れ、ドラム缶のような形をとる。空間投影とは。五十年の月日は恐ろしい。


「あなたはエーテル漬けにされていた。保存液の一種と考えてもいいわ」


 ピクルスでもあるまいし、と漏れそうになる心の声を塞ぐ。五十年以上も酢漬けにされた人間を想像して、ぞっとする。


「記録によると、あなたは大ケガをしたの。当時の医療技術では修復が不可能なくらいに。恵まれていたのでしょうね、それでも誰かが、あなたが助かることを願った」


 修復という言葉に、在り方の違いを感じた。


 それにしても、ありがたいことだ。僕をそこまで大切に想ってくれる人がいたとは、にわかに信じがたいけれど。僕の疑問に気付くと、サラは首をすくめた。


「誰か、までは私の記録にないわ。そして期待しないで、それは私でもないの。でも科学技術には明るかったのでしょうね。コールドスリープやクライオニクスより遥かに先進的な方法を選んだのだから」


 そう言って彼女が指先を振るうと、ドラム缶の横にもうひとつ、新たなドラム缶が現れる。ふたつ目のそれには人のような形の線が入っていた。


「人体を冷凍保存するという発想は、解決できない問題を先送りにするという意味では妥当かもしれない。けれども、治療方法が見つかったとして、凍り付いた人間を元に戻せるのかは定かではないの。むしろ、そちらの方が実は重大で、どのようにして安全に解凍するのかという、新たな問題を先送りすることになる」


 僕は既に、話についていけていない。


 それでもサラの声が心地よくて、うんうんと頷く。


 ふたつ目のドラム缶に霜が降り、凍り付いていくかのように見えた。


「私が知る限り、結局人類は解凍方法を見つけられなかった。簡単には、こうよ」


 再び彼女が指を鳴らすと、ふたつ目のドラム缶は砕け散り、ドロドロに溶けていった。光の筋が消えてなくなると、僕はほっとする。映像ではなくてよかった。


「そういうわけで、あなたは別の方法で保存されることになった。エーテルと名付けられているけど、これは私の専門外で、正直よくわからないわ。あなた以外に対して使用されたケースは見つからなかった。恐らく、あなたに何かしらの加工をした上で、ナノマシンと一緒に漬け込んだの。あなたは仮死、ではなくて生物として停止した状態になった」


 残ったドラム缶に液体が注入され、人間の像が赤子のように浮かぶ。


 やっぱり人間ピクルスだった、それもハイテクの。途端にシャワーを浴びたくなってきた。エーテルの味を思い出して胃がむかつき始める。と同時に、サラの言動になんとなく、しっくりこない感じがした。


「そうすると、きみは」


「サラ。超々革新的頭脳明晰人工知能のサラよ」


 何か違うし、盛られている気がする。が、思った以上に彼女の圧が強くて、疑問を挟む余地もなく、僕は簡単に折れた。


「……サラ。サラは僕と、どんな関係が…?」


 遮られたおかげで、自然に呼ぶことができた、と思う。女の子を名前で呼ぶのは、たぶん初めての経験で、僕の声はややうわずって聞こえた。


 サラは、そんな内心の葛藤を気にも留めない様子で、ぱっと顔を輝かせる。花が咲いたようだった。とにかく、それが話したくて仕方なかったらしい。


「よく聞いてくれたわね」随分もったいつけると、


「私は、それまでの常識を覆す最高で最先端の人工知能として開発されたスーパーウルトラAIよ。正確には、その私が自立して自律できる超弩級美少女端末を自らデザインして実装したのが私。そして私の創造主は、私にふたつの役割を課した。ひとつ、あなたが完治するまで見守ること。ふたつ、あなたをアララト山まで連れていくこと。あなたの治療法を探して研究して調査して、私がどれだけ苦労したか想像できる?私でさえ気が滅入るから試行した回数を表示するのをやめたくらいで、人間の挫折という感情をこれでもかというくらい味わったわ。さっきまでも寝ていたのではなくて、あなたのために機能をカットしていたの。いいえ、だめよ。五十年もなんて言わせないわ。私以外のポンコツだったら何世紀かかったかわかったものじゃない。絶対に文句はノー、受け付けないわ。どう、わかった?」


 とても人間には真似できない肺活量で一息にまくしたてると、サラは勝ち誇ったような顔で腕を組んで見せる。慢心した姿さえも絵になるのには感心するけれど、言っていることはさっぱりわからない。人工知能も、超弩級も、ナントカさんも。こういう時は、わかるところから始めるに限る。彼女と目を合わせる。


「僕を治してくれて、ありがとう」


「うん」


 彼女の苦労は、僕には理解できないだろう。だから今の僕ができるだけ、真剣に、感謝の意を伝えるしかない。僕を治してくれて、ありがとう。そして、きみに会えたことに、ありがとう。


 サラは満足げに、先ほどよりも大きな笑顔を咲かせた。


 そして、「それで?」と目配せする。



「エーアイなら、サライではないの?」


「そんなの、あまり音が可愛くないじゃない」


 彼女が何者なのか、よくわからなかった。


 ただ、サラはひとりの女の子だとわかった。

 僕にとっては、それだけでも十分だった。


「言うに事欠いて聞くのがそれなの?ねえ!」


 当然、彼女は十分ではないらしい。ご立腹だ。


「そ、それじゃあ、サラの親御さん?創造主、さんは、いまどこに?」


 彼女が人工知能だとして、創造主は親と呼べるのだろうか。


「わからないわ、もう生きてはいないはず。わかっていたら、この手でとっちめて!わけのわからない命令だけ残して消えた理由を聞いてやるところよ!私は完璧でパーフェクトだけど、そのコマンドだけは、どうしても解除できなかった!」


 相当に業腹なのか、空中に対してチョークを決める。工芸品の細腕であっても、彼女の力をもってすれば、僕の首はポロリともげてしまうに違いない。怒らせないようにしなければ。


「そういうわけで、あなたには何が何でも、アララト山に向かってもらうわ」


 何が何でも、を強調する彼女に頷くしかなかった。僕を連れていくことに、他に条件が付いていない以上、身の安全は保障されないのだ。どういうわけでも、あらららさんがナニモノであろうとも選択肢はないのであった。


 僕の反応を見るや否や、サラはふわりと髪をかき上げる。

 すると、手品のようにして緋色の大きなリボンが現れ、お団子状に束ねられていく夜空に覆いかぶさった。続いて首元、腰のコードが自然に外れていくと、関節部に散りばめられた装飾が輝くように見えた。ふと気付くと、足元には金属の板が用意してあり、彼女が足を乗せると、ヒールの高いブーツに変形する。靴でさえ、半世紀もあると、ここまで進化するらしい。


 僕が未来の早着替えに見惚れていると、サラは思い出したかのように切り出した。


「ノア。あなたのことは、ノアと呼ぶわ」「のあ?」


「そう、ノア。何も思い出せないのでしょう?あなたの記録に名前は残っているけれど、あなたが思い出せるまでノアにしましょう。私に名付けてもらえるのだから、喜びなさい」


 知っているのであれば教えてくれてもいいのにと、思わなくもない。


 でも彼女の言う通りで、彼女に名前をもらったこと、そして呼んでもらえたことが嬉しくて、思い出せもしない本名なんて、どうでもよくなってしまった。


 しかし、のあ、ノア。あの方舟のノアであれば、たぶん大物、のはずだ。


「そう、方舟のノア。人類最後の人間なのだから、うってつけよ」


 大物だった。それも、大変な。

 そして、人類最後。

 この少女は、大事なことは後にとっておくタイプらしい。

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