第一話 目覚め

 明かりの落とされた部屋の中心に、巨大な水槽が鎮座している。


 色とりどりの熱帯魚や可愛らしい水棲生物を確認することはできない。ただ放置され、際限なく藻が繁殖した沼のように緑色に濁った液体が、静かに揺れていた。水槽の周りにはモニターや様々な計器が乱雑に並べられており、明滅するランプに薄く照らされたそれは、一層不気味に見えた。

 

 床に目を移すと、パイプや人の四肢に見紛うような金属質のガラクタが散乱して、あちこちに水滴の滲んだ壁にまでオブジェのように貼り付けられている。また部屋中に並べられた担架の上には人間の死体、否、人形が乗せられており、さながらモルグの様相であった。


 何もかもを圧し潰すような重苦しい空気に支配された室内には、しかし、かすかに生物の気配があった。物言わぬ人形たちの間で唯一聞こえる音、規則的な電子音が、バイタルを刻んでいる。濁りきった水槽の中にはがいるのであった。


 すると、この停滞を打ち壊すような緊張感が室内に漂い、一筋の冷たい風が床を這うように流れていった。途端にすべてのモニターが一斉に青く光り、水槽の中からこぽこぽと、わずかに泡が立ち上る音が聞こえてくる。次第に音が大きくなると、濁った水が激しく揺れ始めた。


 その瞬間、鈍い音を立て水槽の壁に何かが貼り付いた。人間の手のひらである。揺れる水の中で、その手は水槽を割ろうとしているようだった。しかし分厚いアクリル製の水槽はびくともせず、虚しく響く。


 何度か手のひらが貼り付くと、その中身は水槽を割ることを諦めたようで、今度は水槽自体を揺らし始めた。水槽が揺れる度にアクリルの壁にできた隙間から液体が少しずつ溢れ、床を怪しく濡らす。揺れが激しくなると、ついに水槽がバランスを失い、倒れるように床に激突した。その衝撃でアクリルの蓋が外れると、中から大量の液体とともに裸の男が飛び出してきた。


 男は無様に床に倒れ込むと、窒息寸前であったのか青ざめた顔で激しく咳き込む。息も絶え絶え七転八倒。溢れた液体が跳ね回り、先ほどまでの静寂が嘘のように騒がしい。嗚咽交じりにの字になると、急に思いついたかのように、鼻から伸びたチューブを引き抜いた。ずるずると人の腕ほどの長さの管が引き抜かれると、ごぽりと音を立てて口から液体が零れ落ちる。更に何度か咳き込むと、ようやく落ち着いたようで、肩で息をしながら上体を起こした。


 やや痩せぎすのその男は青年の顔付きをしていて、取り立てて美醜に言及するほどでもない。まだ青の色が残るものの、苦悶の表情は抜け、ちょっとした悪夢だったとも言わんばかりに、穏やかな笑みを浮かべる。見た目はともかくとして、胆力だけはあるようだった。しばらく青年が場違いな笑顔のまま放心していると、けたたましい音が聞こえてくる。


 チューブを引き抜いたことでバイタルを伝えるモニターがアラートを出しているようだった。音の出どころを探そうとして周囲を見渡すと、寒々しい光景が目に込んでくる。これには青年もぎょっとした様子で、僅かな光に照らされた人形を、ちょうど目の高さに見つけると大きくのけぞった。遺体のように並べられた人形たちはどれも精巧にできており、露出した関節や顔の様子から本物の死体ではないとわかるものの、死そのものに肉薄しているように見えた。


 ようやく青年は自分が裸体で得体の知れない液体に濡れていることに気付く。止まらないアラートが耳を突き、放っておけば人形たちが動き出すのではないかとさえ思えてくる。慌てて立ち上がろうとするが、両脚に力が入らず、滑って再度床に転がる。


 生まれたての馬や鹿のように、男が何度も滑って転ぶ様は滑稽そのもので、誰かに笑ってもらえるのであれば救いがあるのだが、人形たちはぴくりとも反応しない。むしろ、反応があっては困るのだと青年は焦るのだった。まだ口内に残る液体が急に苦味を主張し始め、五感が今ある状況が異常であると、遅れて知らせてくれる。這う這うの体で水たまりを抜け出すと、手のひらに乾いたタイルの感触が伝わってくる。安堵して立ち上がる。


 ようやくだと息をつきながら、ふと顔をあげると、背後からじっとりとした視線を感じた。振り返ると、暗闇の中にふたつ、金色に輝く瞳が認められた。担架に横たえられた人形の一体が、じっとこちらを見つめている。見つめているように、見える。


 それは偶然、首が傾いていただけかもしれない。あるいは、先ほどの騒ぎで担架のひとつやふたつを蹴飛ばした際に、動いただけかもしれない。しかし青年は目と目が合ってしまった。その気がした。あの輝きは薄明かりの反射によるものなのだろうか、それとも、瞳そのものが発しているのだろうか。アラームの音が、やけに煩わしい。


 しかし青年の胸に湧いたのは恐怖ではなく、気恥ずかしさであった。裸で、裸でのたうち回っていたのだ。そして今も裸である。恐らく目を閉じることができない人形に、自らの痴態を見せつけるのは申し訳ない気がしたのだ。


 狼狽した青年は、視線を向ける人形にぎこちなく背を向けると、逃げるように走り出した。この部屋も、人形も、自分自身でさえも、何もかもがわからないことだらけであるが、とにかく逃げ出したかった。担架の間を次々に抜け、転がったガラクタを蹴飛ばす。アラームの音が随分と遠ざかると、暗闇の中に階段が見つかった。上から明かりが差しているようだ。


 ふたつの瞳は、青年が慌ただしく消えていく様子を静かに見つめていた。

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