マキナ・ダイナスティ

石橋発破

序 

「お目覚めですか」


 揺れる鈴の音のように、かろやかで柔らかい声が聞こえた。


 まどろみからすくわれたようだ。


 聞き覚えがある気がするけれども、こんなにきれいな声の持ち主を忘れるわけは、ないだろう。これが夢でなければ、僕は、目覚めつつあることを自覚した。


 とにかく、返事をしないと。


「あ」


 思ったように声が出なくて、かすれた空気が喉を通り抜ける。どうしたのだろうか。声だけではなく、胸が膨らまず、呼吸さえもままならない。ただ舌が空回りして、言葉にならない、なさけない音が漏れる。口内の感覚がすべて奇妙で、違和感から心拍数がぐっと上がる。


「大丈夫です、ゆっくり。ゆっくり」


 やさしい声だ。大事なものを抱えて、いつくしむような、その声にすっかり僕は安心して脱力してしまう。すると、さきほどまでの焦燥も抜けて、今度は身体の重たさが気になった。


 鉛を持ったことはないけれども、鉛のようにとは、まさにこのことだろうか。全身が重たい。四肢を動かそうとする意志はとてつもない重力に負けて、深く、暗い海の底に沈むように散ってしまった。


 腕どころか、指一本さえ動かすことができない。僕はベッドらしきものに横たわっているのであるが、肌に触れるシーツの滑らかさと、柔く反発するマットの弾力が感じられなければ、自らの姿勢すらわからなかったはずだ。前後不覚、ただ不思議と、嫌な感じではない。むしろ懐かしい感覚だった。


 とにかく起き上がって、声の主を確認しようともがくと、ようやく目を開いていないことに気付く。今の身体では、まぶたをもちあげることさえ、心の勢いが必要であった。鉛の身体を持ち上げることを諦め、じりじりと視野をこじ開ける。穏やかな光に目が慣れていく。


 真っ白な天井に照明はないようで、どこからか差し込む陽の光が、部屋の色を暖めていた。ぽかぽかとして、心地よい。


 ぼんやりした空間に、ゆらゆらと白い何かが揺れる。見覚えが、あるだろうか。


「きみ、は」


 ようやく、意味を成す音が出る。僕はこんな声だったかな。


「私は、あなたのメイドです」


 鈴の音はころころと、からかうようでいて、けれども少し寂しげな声でこたえてくれた。


 既に天を仰いでいるわけだけれど、僕は仰天して、再び声を失ってしまった。


 メイド。僕の哀れな想像力ではあのメイドしか思い浮かばない。そして、あなたの、ときた。どうやら僕は眠っている間にメイドを侍らせていたらしい。僕の趣味ではないはずだ、多分、恐らく。いや、例えそのような嗜好があったとして、誰かに仕えてもらうような立場だったろうか。


 煙のように消えてしまいそうであった意識が、耳慣れない言葉によって激しく燃え上がる。相変わらず身体は鉛製のままであったけれど、心が揺れてしまって仕方がない。驚きと気恥ずかしさで熱が全身の隅々まで行き渡り、ようやく動き出す。


 がむしゃらに起き上がろうとして、僕の上半身は先ほどまでの弱々しさが嘘であったかのように、勢い良く跳ね上がった。それは好奇心に負けてメイドを見たいがためなのか。それとも、憂いに似た響きを、鈴の音に見つけたからだろうか。



 突然に揺さぶられた頭が落ち着くと、視界の端に丸みを帯びたかわいらしいローファーを捉えることができた。大きな白いエプロンがまぶしい。落ち着いた黒のドレス、そして人形のように白い肌。白いカチューシャがパールのように輝く金髪の中で健気に存在を主張している。クラシカル、なのだろうか。僕にとって彼女は完璧にメイドだった。


 最後に勇気を振り絞って顔を直視する。彼女は、柔らかな微笑みをたたえていた。


 すべてが工芸品のように美しい。とりわけ、瞳。


 琥珀のように煌めく瞳に、心を奪われる。


「きれいだ」


 思った通りに、呟いてしまった。しまった。


 恥ずかしさは頂点に達して、顔は火が付いたように熱い。


 ふわりとした笑みを浮かべた彼女も、僕の熱が伝わったのか少し顔を赤らめて、目を伏せるようにこくりと頷いた。


 そして、彼女は泣いていた。


 琥珀の瞳は哀しみに染まっていて、それだけは僕でもわかるのだった。

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