第28話 神さまと橘(3)



 一ヶ月前――。


 秀美は公園の隅にある木の下に置いていた段ボール箱の前でため息をついていた。


「ごめんね――茶色」

 申し訳なさそうに段ボール箱の中にいる子犬に頭を下げる。

 別に茶色が悪い訳では無い。悪いのは私たち――人間。


 それもこれも昨日、この場に保健所の人が来たからだった。


 彼女から秀美が言われたことは二つ。

『五日以内に里親を見つけること』

『保健所にいたら、いずれ殺処分の可能性があること』


 わかっていた――。

 茶色が公園にいたままだとそうなることくらい。


「ごめんね、ごめんね」

 座り込み、ただただ秀美は茶色に謝る。


 一つ。


 現状を打破できることがあるとするならば――。

 秀美は思い出す。


 自分が茶色を引き取ること。

 それがこの子を守る唯一の方法だった。


「でも・・・・・・」

 落ち込んだように俯き、秀美は思い出す。


 もうすでに康には反対されていたのだ。

 それも叱責のような口調で。


 康さんも大事だ。優しい人。

 心が落ち着くし、ずっと寄り添っていたい。

 そんな康さんがあそこまで言った。

 別の事なら、私はすぐさま諦めていただろう。


 それでも、それでも私はこの子を――。

 秀美は大きく深呼吸する。


「明日、もう一度、康さんと話してみる。――私の思いを伝えてみる」

 覚悟を決めるように秀美は小さく頷いた。

 確かに最近、康さんに本心を伝えることが少なくなったかもしれない。


 いつからだろう――。

 思い出すように秀美は過去を振り返っていた。


 そうか――。あの日からだ。

 あの日から私は罪悪感からか、本心を康さんに言えなくなっていたのかもしれない。


 二十年前、医師から子供が生めないと言われたあの日から――。


 医師から告げられた後、何度も何度も私は康さんに謝った。

 子供が好きだった彼は、結婚してからも私との子供が欲しい、そう言ってくれた。


 ――それなのに。思い出すだけでも、罪悪感のような感情が込み上げてくる。


「ごめんね、康さん――」

 心の中の康に向け、秀美は謝る。


 申し訳ないと思っていた。

 だが、それでも秀美の意志は変わらない。


 康に対する思い。

 それ以上にこの子犬に対する思いが強かったのだ。


「どうしたんです、秀美おばさん?」

 茶色の前で座り込む秀美の後ろで少女が心配そうに言う。

「ううん。大丈夫。今、この子と生きることを決心したところよ――」

 そうだ。暗いことを考えても、前に進めないもの。とりあえず、今はこの子と暮らすことだけを考えよう。

 暗い気持ちを振り払うように秀美は首を左右に振り、立ち上がった。

「そうですか・・・・・・」

 少女はそう言うと、ベンチへと座る。


 秀美と少女が世間話を始めると、茶色は秀美の足元へ歩いていく。


 そこが茶色の特等席。

 落ち着くのか、茶色はいつも秀美の足元にいた。


「あっ!」

 すると、幼い子供が何かを誤ってしまったのか、そんな声を上げる。


 その子供が蹴ったのか、青いゴム製のボールがベンチを勢いよく通り過ぎた。


 ゆっくり通り過ぎていたら、取りに行けたのに。

 秀美はそう思っていた。


「っ!」

 勢いよく転がるボールを見るなり、茶色は突然立ち上がる。


 そして、追従するようにボールを追いかけ始めた。


 ボールの行く先は――道路。

 茶色の行き先も――道路。


 必然的に秀美はその先に起こる事態を予測した。


 気づいた秀美は咄嗟に叫ぶ。

 しかし、茶色の足は止まらなかった。


 言葉ではどうしようもできない。

 直接、止めるしかない。


 無我夢中で走り、秀美は勢いよく茶色を抱きかかえた。


「今度こそ、今度こそあなたは私が守るから――」


 秀美がそう茶色に囁く。


 ――もう離さないからね。


 そして、秀美はここが道路であることに気づいた。


 目の前にはクラクションを鳴らすトラックの姿――。

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