第19話 奏と京子(4)


 午後十一時。

 

 夜ご飯を食べ終え、奏はリビングで仕事をしていた。


 さくらぎの仕事をしてから、

 起きている間までが仕事であり、休みであることを知る。


 これが自営業。

 良きも悪きも、休暇も勤務も自分で決められる。

 不思議な感覚だった。


「まだ流れがわからないな・・・・・・」

 ため息をつき、奏は勢いよくソファーにもたれ掛かる。


 この仕事の依頼は常に来るのか、たまたまなのか。

 常に来るのは良いことだ。

 しかし、それはそれで仕事の捌き方を考えなければならなかった。


 働くことは生きること。

 生きるための収入源は欠かせない。


「それになー」

 国城会長からあった橘秀美さんの事故について、当時の状況がだいたいわかった気がした。

 しかし、根本的原因がわからない。


 どうして、彼女がその行動に至ったのか。

 それは夫である橘康さんも同じ思いだろう。


「――にしても」

 奏は眉間にしわを寄せ、深刻な顔で考えた。


 京子と橘さんに面識があったとは――。

 想像もしていなかった。


 スーパーでの会話を聞く限り、

 京子は橘さんの奥さんが亡くなっていることを知っている。

 どうやら、僕の知らないところで二人での会話があったようだ。


 奏はその事実を厄介と思う自身の気持ちに気づいてしまう。


 出来る限り、彼女の意思を尊重したい。

 それが一番だ。


 だが、今の京子に他人の死を考えられる余裕は無かった。

 その思考を入れてしまうと、また彼女の精神が不安定になる恐れがある。

 それだけは避けなければならなかった。


 彼女のためにも。

 自分のためにも――。


 今の彼女には、楽しい優しい日々を送ってほしい。

 奏はただそれを願っていた。


 すると、リビングと廊下を間仕切る扉が開き、パジャマ姿の京子が顔を出す。


「あれ・・・・・・? 神さま、まだ仕事しているんですか?」

 寝ぼけた顔であくびをして、京子は不思議そうな顔をする。


 いつもなら京子はもう寝ている時間だ。

 普段と違う状況に奏は驚いていた。


「うん。まあ、一区切りが上手くいかなくてさ」

 奏はため息交じりにそう言うと、両腕をソファーにかけた。


 仕事も心も一区切り出来ていない。

 この調子だと、明日になってしまう勢いだった。


「そうなんですか・・・・・・」

 京子はそう言うと自然と奏の隣に座る。

 ソファーにかけていた右腕の中に京子の頭がすっぽり収まった。

「・・・・・・ん? きょうは寝ないの?」

 自分の部屋に戻るわけではなく、どうして自分の隣にいるのか。

「その・・・・・・寝られなくて・・・・・・」

 京子は自分の左肩を奏の右肩に近づけると、儚げな顔で言う。

「そうなの?」

 その様子だと今にでも寝そうな雰囲気だ。

「はい・・・・・・。寝ようとすると、どうしても橘さんのことを考えてしまって」

 京子は俯き、申し訳なさそうな顔でそう言った。


 目を瞑ると頭から離れなくなる。

 今の自分にいったい何が出来るのか――。


「――そうか」

 心配していた事態になってしまった。

 奏は心の中で大きくため息をつく。

「ねえ、神さま」

 甘えたような声で京子は奏を呼ぶ。


 うっりとした顔。

 身長差のせいか、少し上目遣いになっていた。


「ん?」

 何食わぬ顔で首を傾げ、奏は平常心を装う。

 彼女のその雰囲気に奏の中で何かが込み上げていた。


 内心困惑。

 言葉に出来ない緊張感が奏を襲っていた。


「今、私が思っているこの気持ちは、誰かが私に思っていたことなんでしょうか?」

 京子は抑えきれず今にも泣きだしそうな顔で言う。


 その顔は、無力な自分が情けない、

 そう言いたげな顔に見えた。


 誰かが私に――。

 きょうが橘さんに――。

 きっとそれは似たような気持ちなのだろう。


「そうかもしれないね」

 奏はゆっくりと落ち着いた声で返す。


 思われる立場から、思う立場に――。

 この三ヶ月で彼女は変わった。


「なら、私は――っ!」

 京子は涙を流し、押し倒すような勢いで言う。


 ――私はどうすればいい。

 後の言葉を奏は考えた。


「ねえ――きょうはどうしたい?」

 京子の言葉よりも先に、奏は右手をゆっくりと京子の頬に当て問う。


 彼女の意思を――。

 彼女の答えを――。


「私は――橘さんの力になりたい」

 感情が高ぶるように京子は息を荒くしていた。

「なら、僕は京子の力になるよ――」

 頬に手を当てたまま、奏は京子に笑みを向ける。

「――っ!」

 奏のその言葉に衝動的か、京子は勢いよく抱きついた。

 その勢いで奏と京子はソファーに倒れ込む。

「えー」

 呆然とした顔で奏は口を半開きにしている。


 いったい、どういうことなのか。

 奏の思考は停止していた。


 僕は京子に抱きつかれて――って。


「――ん? って、あれ・・・・・・?」

 数秒後、ハッとした顔で奏は瞬きする。


 抱きついてきた後、京子からの返事は無かった。


 奏はゆっくり起き上がると、恐る恐る京子の身体を仰向けにする。


「あれ、寝ている・・・・・・?」

 まじまじと京子を見ると、小さな寝息を立て眠っていた。

「えー。このタイミングでー」

 口を半開きにして、奏は呆然と立ち尽くす。


 取り残された――。

 その目の前には無防備な姿で眠る京子。


「なんと言うか・・・・・・。姉さんに似ている気がするな・・・・・・」

 奏は右手で後ろ髪を掻き、困った顔でため息をついた。


 時として、強引なその姿。

 奏の知る姉の玲子、そのものだった。


 京子の華奢な身体に奏はゆっくりと唾を飲みこむ。

 

 ――姉さん、もしもの時はごめんなさい。


 奏はそう言いながらも、京子を部屋へ連れて行った。


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