第2話 さくらぎでの出会い
三月下旬。
東京の隅にある町、櫻木町。
都会から電車を乗り換え三十分。
同じ東京都は思えないほど、町は静かで穏やかな雰囲気があった。
「ここが・・・・・・」
不知火京子は二階建ての建物を前にして立ち尽くしていた。
小柄な容姿と腰まである髪。
容姿だけの話をすれば、小学生の高学年に見られても可笑しくない容姿をしていた。
ここがこれから私の暮らす町、暮らす場所――。
京子はまじまじとその建物を眺めていた。
一階の窓に万屋・さくらぎと書かれており、二階が居住スペースのように見える。
一階が事務所で二階が家と言うことだろうか。京子は考えていた。
「えーと、家の前に来たら電話するんだっけ・・・・・・?」
この家の住人の連絡先が書かれたメモをバックから取り出す。
万屋の経営者でもあり、
この家の住人の名前は桜木奏さんと言うらしい。
櫻木町にある万屋さくらぎの桜木さんか――。
ややこしい、そんな不思議な偶然もあるのだと、京子は感心する。
桜木さんは二十代の男性と聞いていた。いったい、どんな人だろうか。
私は携帯で恐る恐るその桜木さんに連絡してみる。
ワンコール。待っていたのか、桜木さんはすぐさま電話に出た。
とりあえず、私は家の前に着いたことを説明する。
それを聞いた桜木さんは走っているような声で電話を切ると、階段から慌てて降りてくる。よくそんな降り方で転ばずに降りられるのは凄い。
――慌ただしい人。
京子は内心そう思っていた。
桜木さんの姿は長身のやせ型で眼鏡をかけている。
首元までかかる髪はさっきまで寝ていたのか寝癖がついていた。
この人が桜木奏さん――。
京子は目が合わない程度に奏を見つめる。
――だらしなさそうな人。
奏に対する第一印象はそれだった。
「いっらっしゃい。――不知火さん」
よそよそしい口調で奏は京子に言う。
そう言った顔は京子にはどこか悲しそうな顔に見えた。
「今日からよろしくお願いします・・・・・・」
そうだ。私は今日からこの人と暮らすのだ。
途端に締め付けられるような緊張感が京子を襲う。
「んじゃ、とりあえず、家に入ろうか」
そう言って奏は京子を二階の階段へと案内する。
階段を上がった先の扉を開けると、マンションの間取りをした部屋があった。
リビングに案内され、京子はおろおろしながらもソファーに座る。
座るとどこか懐かしい感覚になった。
微かに香る匂い。芳香剤や香水、ましてや異臭では無い。
でも、私はこの匂いを知っていた。
「・・・・・・」
小さく息を吐く。今の私にはもう――逃げ道は無い。
京子は次第に怖くなってきた。
台所で何やら準備をしている奏を眺めながら、京子は様々な想像をする。
ここはもうあの男性の家。
それも同級生ではなく、大人の家。
祖母からの指示とは言え、男性と二人っきりは怖い気持ちがある。
「んー、まず自己紹介する? する必要ない?」
温かい緑茶を京子の前に置いて、奏は向かいのソファーにゆっくりと座った。
奏も京子の一つ一つの仕草を見て、様子を伺っている。
「あ、ありがとうございます。その・・・・・・お願いします」
緊張で目も合わせられず、京子は俯きながらそう言った。
「んー、それじゃあ、僕の名前は――桜木奏。今は万屋の仕事をやっています。年は二十五歳だよ」
簡単に奏は自己紹介をする。
――いかん。
ついつい昔の名前で自己紹介しようとしていた。
奏は言った後、少し焦った様な顔をする。
もう僕は桜木奏なのだ。奏は再認識する。
「私は不知火京子。来月で高校一年生になります・・・・・・」
どこか現実味の無い顔で京子は言う。
私は数日後、ここから電車で二十分の高校へ進学する。
急遽、こっちの高校になったから、まだその高校へは行ったことが無かった。
でも、悪いところでは無いと思っている。何せ、母が通っていた高校だ。
「お互い、普通の自己紹介だね」
可笑しそうに奏はそう言うと、慣れた手つきで緑茶を一飲みする。
「そ、そうですね」
京子は言葉の返しに戸惑う。
何を言えばいいのだろう――。
次の会話が頭に浮かばなかった。
「んー、何て呼び合う?」
腕を組み、悩んだ顔で奏は言う。
「桜木さん――ですか?」
まじまじと奏を見つめて、京子は言う。
何て呼ぶも何も、桜木さんは桜木さんなのでは無いのか。
「普通だね」
「普通じゃだめなんですか・・・・・・?」
不思議そうな顔で京子は首を傾げた。
「駄目ではないよ」
ゆっくりと奏は頷き、京子の言葉を肯定する。
「それじゃ――」
普通に桜木さんと不知火さんで良いだろう。京子はそう思っていた。
「――ただ、僕が不知火さんのことを別の名前で呼びたいなーって思っただだよ」
おっとりとした雰囲気で奏は笑みを浮かべる。
どうしてか、その笑みを見て京子は自然と落ち着いた気持ちになった。
「そ、そ――そうなんですか・・・・・・?」
ストレートに言われて、京子は困惑する。
「はい。そうです」
晴れた様な笑顔を京子に向け、頷いた。
「では、それでお願いします」
戸惑いながらも京子は小さく頭を下げる。
桜木さんの願いは極力従わなければならない。その理由が私にはあった。
「ありがとう。それじゃあ、僕は仕事では『神さま』って呼ばれているよ」
「神さま・・・・・・ですか?」
はて、どうしてだろうか。京子は意図もわからず、首を傾げる。
「うん。よくわからないけど、町の人にはそう呼ばれているよ」
ここへ戻ってきた時に偶然居合わせた事件をきっかけに、奏は町内の人からそう呼ばれるようになっていた。
今では、桜木さんと呼ぶ人より、神さまと呼ぶ人の方が多い気がする。
「それじゃあ、私も神さまにします・・・・・・」
京子は何となくその方が良い気がした。
「それじゃあ、僕は何て呼べばいい? それかあだ名とかある?」
自分の名は決まり、あとは京子の名前だった。
思い当たるあだ名はいくつかあったが、これは京子の口から聞かねばならない。
「・・・・・・母からは『きょう』って呼ばれていました」
懐かしそうな半面、京子は悲しげな顔でそう言って俯く。
母は私のことを『きょう』と呼び、
父は『京子』と呼んでいた。
きょうと呼ばれながら、母に抱きつかれた過去を京子は思い出す。
「そうだね。それじゃ――僕もそう呼んでも良いかな?」
奏は懐かしそうな顔で京子に尋ねた。
自然と彼女の母の笑顔が目に浮かぶ。
「・・・・・・わかりました」
京子が顔を上げると、微笑む奏と目が合う。
どうしてだろう。この人からそう呼ばれても抵抗感が無い。
不思議な気持ちだった。
「よろしく、きょう」
「はい――神さま」
自然と男性に名前を呼ばれて京子は緊張していた。
男性に下の名で呼ばれるなんて小学生ぶりだろうか。
中学生の頃はほとんど男子と関わっていなかったことを京子は思い出す。
「とりあえず、きょう」
すると、奏は気がついた顔でそう言った。
「はいっ、なんでしょうかっ」
急に名前を呼ばれて、京子は思わず声が裏返ってしまう。
やはり、慣れていない。
男性に名前で呼ばれることにこの身体が慣れていなかった。
「一つ確認したいことがあるんだ」
「なんでしょうか・・・・・・?」
やけに深刻そうな顔をしている。京子は不安になった。
「美千代さん――きょうのおばあちゃんからなんて言われた?」
奏は京子の祖母である美千代から何を聞かれているのかを確認する。
「えーと・・・・・・。仕事しながら学校へ行く、ですかね・・・・・・?」
京子は焦りながらも、記憶を掘り起こすような顔で答える。
当時の私は余裕が無かったので、祖母の話を断片的に聞いていた。
その道しか当時の私には選択肢が無いのだろうと思い、反論も拒むこともしなかった記憶がある。その選択の結果、私はここにいるのだ。
「――まあ、そうだね」
奏は諦めたような顔でうんと頷く。
あまり良い顔をしていない。何か間違ったことを言ったのだろうか――。
やはり、おばあちゃんの説明はしっかり聞くべきだった。京子は後悔する。
「その・・・・・・」
戸惑う顔で京子は奏に話しかけた。
仕方ない。申し訳ないが、直接確認しよう。
「ん?」
瞬きをして、奏は不思議そうな顔をしていた。
「わ、私はこの家でどうなっちゃうんです・・・・・・?」
京子も奏と似た様な不思議そうな顔をする。
見通しがわからない。
私はどうなってしまうのだろうか――。
目の前には成人の男性がいる。
そして、ここはその男性の家である。
恋愛経験の無い私でも、多少はわかる。
世間的にこの状況が未成年の私にとって危険だと言うことに。
恐怖なのか、怯えるように京子の身体は自然と震え始めていた。
「どうなっちゃう――――かー」
気がついた顔で奏はソファーにもたれ掛かり、天井を見上げる。
その姿は様々なことを想像しているようにも見えた。
想像すると言うことは、私に何かさせたいことがあるのだろう。
「その・・・・・・、私は神さまに何をすればいいんでしょうか?」
想像する奏に京子は恐る恐る聞いた。
祖母から言われた『仕事』とは――。
いったい、どんなことなのだろうか。
居場所を失った私の唯一出来た居場所。
この居場所を守ることが出来るなら、
どんなことも受け入れなければいけないのかもしれない。
それにもう――。もう私は――。
――一人なのだ。
「んー? 僕に?」
京子の言葉に腑に落ちない顔で奏は言う。
――逆に京子は僕に何をしてくれるのだろうか。
ふと考える。途端に奏の中でよからぬ妄想が働いた。
いかんいかん、そう言うことではない。
心の中で首を左右に大きく振るう。
「はい・・・・・・。私が出来ることであるなら、出来る限りのことはしますので――」
――だから、ここにいさせてください。
京子はその続きの言葉を言いきれなかった。
いったいどうしてか。
今の私にそこまでの言葉を強く言える覚悟は無かったのだ。
どんな辛い事でも耐える。そんな強い覚悟は持っていなかった。
むしろ、痛い思いはしたくないし、怖い思いもしたくない。
そんな気持ちが京子の中で込み上げる。
――もう二度と。
奏は京子の身体が小刻みに震えることに気がついた。
「うん。それはそうだね。――今のきょうが出来ることをお願いするよ」
そう言うと奏はソファーから立ち上がり、京子へと歩み寄る。
今ここにいる不知火京子が出来ることを僕はお願いするから。
だから、怯えないでほしい――。奏は切実な思いだった。
昔みたいに。
そうとは言わないが、笑う君が見たかった。
「えっ――。それはその――?」
真っ赤な顔で京子は後退るようソファーに座り込む。
もしかして、もしかしてだろうか――。突然で京子は混乱していた。
ここでなのだろうか――。
大人はこんな昼間にするのだろうか――。
拒もうとしたが、パニック状態なのか言葉が出ない。
「っ!」
不安と恐怖のあまり、京子は咄嗟に目を瞑った。
そして、奏はその右手をゆっくりと京子に近づける。
痛みが来ても良いように京子は歯を食いしばった。
そして――。
頭の上を触られている不思議な感覚。
どこも痛くない。どうして――。
京子は恐る恐る目を開ける。
なんと自分は頭を撫でられていたのだ。
――神さまに。
「へっ――?」
真っ赤な顔で京子は口を半開きにしていた。
どうして、頭を撫でられているのか――。
予想外な事態。京子は訳がわからなかった。
「よろしく、きょう」
笑顔でそう言うと奏は台所へと向かって行った。
「は、はい・・・・・・」
腰が抜けたような姿で京子は奏の背中を見つめていた。
緊張した――。
胸が締め付けられるような、そんな感覚だった。
でも、どこか懐かしさがある。昔から知っているような、そんな感じ。
京子は不思議な気持ちの中、ひと息ついた。
――こうして出会い、暮らしが始まる。
二時間後。
届いた荷物の整理が終わり、京子はリビングへとやってくる。
「ひとまず、段ボールの仕分けは終わりました」
軽く一礼して、リビングの机で何やら書類の整理をしている奏に言った。
「お疲れちゃん。部屋は大丈夫そう?」
やってきた京子に奏は不安そうな顔で言う。
あの部屋は京子が来る前に、換気など多少の掃除はしたが大丈夫だっただろうか。
掃除と言っても埃を掃いたくらいで、部屋の家具などは動かしていなかったのだ。
それにあの部屋は――。
奏は緊張感の中、京子の返事を待った。
「はい。ベッドがあったので助かりました」
顔を上げ、京子はホッとしたように頷いた。
部屋に入った瞬間、不思議と懐かしい感覚がある。
私が感じていたのは、この匂いだ。
理由はわかっている。
この部屋は母が学生時代に使っていた部屋だったのだ。
この万屋・さくらぎは二十年ほど前に祖父が営んでいた店らしく、
二十年経った今、神さまこと桜木さんがこの店を買い取ったらしい。
二十年前と言うと、母がちょうど私と同い年の頃だ。
高校生の私が高校生の頃の母の部屋に――。
経緯はどうであれ、これを母が知ったら、喜ぶに違いない。
京子は喜ぶ母のその姿が容易に想像できた。
「改めてよろしく、きょう」
印象は悪くはないようだ。
奏は京子の表情を読み取ると、安心したように微笑む。
「よろしくお願いします――神さま」
京子は小さく頷いた。
――これからまた、私の人生は始まるのだ。
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