8月1日 土潤溽暑

8月1日 晴れ 土潤溽暑つちうるおうてむしあつしころ

 夏の灼熱の太陽に照らされて、全てのものが汗をかき土を暑く湿らせる。


 今年の夏は殊更暑い。

 今日は休み。一通り部屋の片付けをした後はリビングの床に寝そべり早回しで録音を聞いていた。成の声が聞こえたり、聞こえなかったりしている。そのほとんどは聞こえない。だから聞こえる部分までスキップする。

 頬に汗が垂れる。エアコンをつけてはいるものの、暑過ぎて効きが少し悪かった。夏の暑さと汗。窓を開けるかどうか悩む。開けると暑さが侵入し、閉じたままだと湿度がこもる。

 成のことを考える。成は私を構成する全てのパーツの喪失を悲しむ。だから今ここに成がいれば、おそらく私にくっついて汗を舐めているだろう。


 私は成の運命だ。そのことももはや私に深く刻みつられている。きっと成にも。けれども成の運命は私だけなのだろうか。最近そんなことをふと思う。

 世の中というのは様々な物事が割合的に混在している。それが通常。例えば昨日食べたスイカも甘さと酸っぱさ、青臭さ、少しの蜜の味、そんなものが割合を異らせて内在していた。

 ひょっとしたら成には私以外にも運命があり、いつか私以外の人や物を縫い止めて、私の時間を放逐するのではないか。成の欠けた部分が私ではなくその人で満たされるのではないか。なんとなくそんな不安に苛まれる。だから私はその不安を覆い隠すためにもやり過ぎている。そんな心配する必要がないほど成には私しかいないのに。それをわかっているのに。


「せんせー、雪村せんせー?」

「……」

「おーい、生きてる?」

「生きてるよー」

「最近彼女さんとはどっすか?」

「もうラブラブ。それじゃあお先に。またね、緑木」

「あちょっとー、最近つれないっす」

 あの緑木という男の声が遠ざかる。成があの男とどうこうなることはそもそもないだろう。けれども運命というものはある日突然訪れる。私と成が出会った日のように誰かが突然成の前に現れて、その心を占領してしまったら。


 怖い。

 こんな恐怖は生まれて初めて感じるもの。当然だ。喪失というのは取得がなければ訪れない。

 本当は成の視界に私以外を入れたくはないし、私以外の音や匂いをその耳や鼻に入れたくない。私以外に触れて欲しくないし私以外を思い浮かべて、つまり頭の中にも入れて欲しくない。この部屋にいる間は忌々しい重力と気温、時たま迷い込んでくる外の音を除いて成に影響を及ぼすものはない。一緒にいれば成の中身を私が埋め尽くす。

 でも成が外にいる時は空っぽだ。空っぽということは重しが何も存在しないのと同じ。まさか成がそこまで簡単に全てをなげ捨ててしまうとは思わなかった。私が求めたのも事実だけれども、恐らく求めなくても早晩こうなっていた。

 空っぽのものは簡単に風に吹かれて漂い去ってしまう。不安定。うっかりとその隙間に何かが入り込んでしまうかもしれない。私の質量がなければそこに存在を繋ぎ止めることもできない。でもいっしょにはいられない。


 最近は毎朝私の髪の毛を成の指に結びつける。風船が飛んでいかないよう糸で繋ぐように。今のところ、それである程度は安定するようだ。私の髪の毛は成に話しかけたり自主的に触れたりはしないけれど、成の中身を少しは引っ張って邪魔にならない程度に成に干渉して、ふらふらと飛んでいかないように繋ぎ止めた。

 帰ってきたらほどく。私の全てはここにある。それに私から離れて半日経った髪の毛はもはや私は私と思えなくて、成が意識を向けることに若干の抵抗を覚えるから。

 ほどいてしまうとどこかにいってしまうと言って成はわたしの髪の毛を飲み込んだ。成のおなかの中には毛玉ができているんじゃないのかな。


 おかしな成。

 成にとって私とは何なんだろう。成にとって重要なのは私との距離感のようだ。3メートル先の私よりは0距離の髪の毛を親しく感じているように見える。髪の毛より私が大切なのは間違いないようなのだけど。

 私をどこにも逃さないように凍らせて閉じ込めて。優しい私の冬。


 録音をスキップする。聞こえるのは仕事の会話ばかり。そのことに深く満足する。

 私は成から中身を全て奪った。外出する時、成は私の髪の毛1つだけを自分の中に入れている。成の芯。でもそれでは足りなさそう。私自身であり、確かで、成が他に目を向けることがないほど成を縛り付けるもの。

 何があるだろう。


 シチューをぐるぐるとかき混ぜていると、がちゃがちゃと音が鳴った。火を止める。ぱたぱたと忙しく靴を脱ぐ音がして、私の名前を呼ぶ。

「おかえり、成」

「ただいま、よかった」

 成は私がいなくなってしまっていないか、いつも心配している。そんなことはあるはずがないのに。でも私も成が誰か他の人の運命になることを恐れている。同じことだ。多分、私が生き物である限りこの不安は解消されないんだろう。

 成は自分のかいている汗を気にしながら、そっと私に触れるか触れないかという力加減で私を抱きしめて私を凍らせるように唇にキスをする。成の表面は太陽に熱せられてほてっていたけれど、その口中は表面に比べて冷たくて不思議な味がした。

「エアコンあんまり効かないね」

「今年は熱いから。それにまたシチューにしたのもあるかな」

「紫帆のご飯は全部大好き。お風呂入ろう?」

 成は右手で私の左手をつまみ、左手で汗の流れる髪をかきあげた。成は帰ったら私を離さない。もし離してしまったら私が消えて無くなってしまうとでも思っているように。でも本当にそう心配しているから、せめて一緒にいる間は捕まえておかざるを得ないんだろう。ひと時も。

 窓の外を見るとまだ薄っすら明るかった。けれどもすでにこの部屋は外界から隔絶されていた。成が玄関のドアを閉めた瞬間から。

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